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2010年2月

2010年2月28日 (日)

「嘘も欺瞞も、それから…」倉田昌紀

紀州の夜から、倉田昌紀さんの投稿です。
「只生きているのみ」という生の真実の実感が、紀州の海や山に刻々と染み入っているのでしょう。

嘘も欺瞞も、それから…
                   倉田昌紀

只生きているのみという強くなるばかりの感じが
自然の恵みのなかで
精神の在りようと共に変わってゆくことでしょう
むこうから向き合って来てくれるもの
こちらから向き合って行くもの
不毛な時間もやってくる
不毛な空間もやってくる
今ここでぼくに向き合えることは何…
苦しめばいい
悩めばいい
こんなものはいつでも捨てられる、と
「ガンも生きもの
  仲よくしましょう手なずけてやりましょう」(高木護)という言葉が
不思議な味で響きます

今ここにいるこの自分しかいないのに
この逃れがたい真実どん詰まり
「倉田さん  のんべり構えることです。」(同)
この変わる姿が今ここのぼくのほんとうかもしれない…

明らかになるのは
自分の有限性と卑小さばかり
向き合いかたの「つもり」が
どこか外れているのかもしれないなあ

「嘘も方便」なのです
人間の惨めさを避けるための欺瞞・嘘
太陽に大空
海や山々には
死を前にした人間の営為がいかに映るのだろう…
自然の恵みは欺瞞も嘘もこころ穏やかに叡智の魂にかえていくのかもしれない

自然の輝きと闇の最後の贈り物は何…
あなたはもう皮膚のぬくもりのごとく知っているのでしょう

一ヶ月の山を越えて(四)

いじめの場面を思い出した、というところからですが、
いじめという言葉は独特です。
日本語固有のものだと私は感じています。
もちろん翻訳はできるでしょうし
諸外国にも相当する出来事があるでしょう。

しかしドイツに滞在していた時、
私はドイツのテレビ局が制作した「IJIME」という番組をたまたま見て、
気づきました。
これは日本語固有の意味とイメージを持ったものであり、
少なくともドイツ語には翻訳できないんだなと。
「KAMIKAZE」や「HARAKIRI」と
同じ次元で受け止められていることを
感じました。

西欧人固有のまなざしによって選ばれた映像は
偏向的な面もありますが
やはり普遍的なものです。
人権や民主主義や宗教の歴史を
教育や文化によって身体化している側の目が
映しだした映像は
私たちが日頃了解している社会像とはことなります。
内容的には
私たちにはよく耳にするいじめの話ばかりでしたが
声をあげられない「世間」の空気
対話や会話の乏しさ
言葉の貧しさ
自罰的な無表情・傍観者としての無表情・ことなかれの無表情
さまざまな無表情が
西欧人のカメラのまなざしの下でさらに不気味なエイリアンの無表情として映し出され
こんなふうに見られているんだな

なんともいえない気分になりました。
映像は自然や子供たちの公園が破壊されるシーンや
深夜の塾や満員電車の映像も織り交ぜられ
かなり「この国は、すべてを犠牲にしてまで先進国になったのだ」
というほどの
インパクトのある番組に仕上がっていました。
日本に敵意を持って作られたわけではないですが、
普遍的なまなざしの下で
「いじめ」がそんなふうに特殊で異様に映るのは当然でした。

私もまた
普遍的なまなざしを持ちたいと思います。
西欧人と同じというのではなく、
この国に今を生きる者の位置から。
だから詩を書いているのです。

一ヶ月の山を越えて(三)

会の終了間際に見たビデオは
当日の蛮行の様子を校門の内側から撮影したもののうちの一部、
5分ほどでしたが
私は目と耳を疑いました。
これが人間なのか、
というあまりにも大きな衝撃を与えられました。
映像から暴力を受けたわけです。
実際立ち会っていたら
恐らく気絶していたでしょう。

人間には人間を人間たらしめている根源的な倫理があると思います。
その
してはいけないこと
言ってはいけないこと

悪の側から知っている人たちが放つ姿と言葉がそこにありました。

「公園を不法占拠している」と
その人たちは学校にやって来たそうです。
拡声器を使い、学校について、在日朝鮮人について、民族教育について
一時間にわたり汚い言葉で冒涜しました。
物理的にも暴力を働いたそうですが、
現場を目撃していない私も
映像に映し出されないところでかれらが何をしたか
十分想像できます。
私たちが見たのは
ほんとうに一部のまだマシなところで、
当事者たちはあまりにもひどい部分は見せたくなかったのでしょう。
けれど
ビデオ撮影されたかれらの姿と声と言葉は
まさに人間のものではありませんでした。
心の病を持っているのか
といえばそうではないと思います。
お母さんたちの話では
とりわけ恐怖をかきたてたのは
かれらの多くが一見ふつうのサラリーマンやOLだった、
ということ。
そう
心を病んでいるのではないのです。
忘れていた記憶が蘇ってきます。
遙か昔に学校で目撃した
いくつかのいじめの場面です。

一ヶ月の山を越えて(二)

「ヒロシマ・ピョンヤン」の上映会のチラシはImage451
かなり前朝鮮新報に挟み込まれていたもので、
ずっと取りおいていました。
広島と平壌の取り合わせが
なんだか気になっていました。
また広島の在日被爆者の問題に関心のある友人から
「それ見たいなあ」と言われたのも
興味をかき立てていたようです。
当日はとても寒く
直前までどうしようかと家でぐずぐずしておりました。
しかし意を決して会場に向かいました。

映画は
朝鮮人民共和国で暮らす被爆者の女性の姿を
日常の次元で丹念に追っています。
在外国被爆者では
在朝被爆者だけがいまだまったく救済からとりこぼされている、
被爆者手帳さえもらえない、
という事実を
一女性の苦しみから私は初めて知らされました。
映像が情緒的でないだけに、
事実としての重みと悲しみが伝わってきました。
また映画の後には監督の方のお話があり、
ご自身のスタンスや在朝被爆者について
とても力強い言葉で語られたのにも
目がひらかれる思いがしました。
自分にとっても一つの大きな問題提起を与えられたと思いました。

しかし私に身体的ともいえる衝撃を与えたのはその後でした。
会の終了間際に
「緊急アピールをさせて下さい」
と前に出てきた何人かの方々が言われました。
なんだろう?と思いましたが、
それは会の直前の12月4日に
ある差別的な団体が京都の朝鮮初級学校に押し寄せてきて
一時間にもわたり
暴言をはきちらし蛮行をくりひろげたという
あまりにおぞましい事件についての報告と訴えでした。

一ヶ月の山を越えて

だんだん本格的に春が胎動してきた気がします。Image449
京都の家の近辺ではウグイスの鳴き声がちらほらきこえてきます。
となりの空き地では
日頃無視されている梅がここぞとばかり
白い可憐な花を咲きほころばせています。

早いもので、
このブログを立ち上げてから一ヶ月以上になりました。
当初は自分のことですから
せいぜい一ヶ月坊主かな?
などと思っていたのに
いつのまにかこの場所に書くことが
色々考えさせられるきっかけになっています。
ブログと日記は違って
自分自身と向き合いつつ、
その向き合いはまた不特定多数の人にも向けられています。
ブログを書き続けていると
自分だけの自分という部分はだんだん小さくなっていき、
他の人と共有する部分
あるいは少なくとも共有していると確信できる部分が
自分の中で大きくなってきた気がします。
そういう意味でもやり始めて良かったと思います。

なぜブログをやり始めたのか。
一ヶ月の山を越えた記念に少しふりかえってみたいと思います。

私がブログに期待したのは
ひとえに「発信」の手段としてです。

2月には二つ私にとって発信したいイベントがありました。

2月7日の「東柱を生きる会」と
21日には熊野市での朗読会です。
とりわけ「東柱を生きる会」は私が主宰の中心でしたから、
なんとか宣伝をと思ったわけです。
お陰様でこのブログを見て参加して下さった方々がいました。
また会の熱気の冷めないうちに報告を書き込めたのもよかったです。

最初は
ブログなんて魂を売ることになるのでは?
と大げさに考えていたのですが、
何でもやってみるべきですね。

ではそもそもなぜブログ立ち上げの「東柱を生きる会」を始めようとしたか。
今思い返せば
12月19日に同志社大学で行われた「ヒロシマ・ピョンヤン」という
ドキュメンタリー映画の上映会から
私の中で動き出したものがありました。

2010年2月27日 (土)

「話し手は誰」倉田昌紀 

「とても軽い詩のような拙文です。送信するのもためらってしまいます。」と
昨日の雨降る紀州から送信がありました。
私も経験があるのですが、
病を得て気持も弱っている時、
これまでに会ったことのないような人がふいに現れて、
これまでに聞いたことのないような声で
生の真実を告げてくれる不思議。
「寿命」とは
じつは本当はすごい励ましの言葉ではないでしょうか。

話し手は誰

                    倉田昌紀

話し言葉は生きています
沈黙も間も対人関係の微妙さのなかで生きてきます
人柄も親和力もうねってきます
涙もでます
絶句もします

話し言葉はすぐに死んでもしまいます
言葉の霊は逃げていきます
音質から魂は消え
形式がのさばってきます
言葉数が増えてくるかもしれません
言葉が固まってしまいます

「寿命とゆうものがあるさかいになあ」老婆が励ましてくれます
心を込めて専念して歩まねばなりません
老婆の雰囲気が全身でそう伝えてくれているようです
朴訥な話し言葉は一瞬ぼくの内部でもがきます
そしてぼくは空っぽになってしまいました

話してくれたのはほんとうに老婆だったのか
話し手は誰
話し手がないことはいいことだなあ
話し手があることはいいことだなあ

海と蝶

海と蝶                            金起林

誰も彼に水深を教えたことがないので
白い蝶は海がすこしも怖くない

青い大根畑とおもって飛んでいったが
いたいけな羽は波に濡れ
姫君のように疲れ果ててもどってくる

三月の海は花が咲かずやるせない
蝶の腰に真っ青な三日月が凍みる
 
青柳優子編訳・著『朝鮮文学の知性・金起林』(新幹社)扉にある詩(全文)です。
めくるめく詩的リアリティに、私は一瞬で吸い込まれました。
水深を暗く隠し、美しい青で無垢な蝶の羽ばたきを誘う海。
波しぶきに濡れた羽で、あわれな姫君のように戻ってくる蝶。
花の幻と酷薄に沈黙する三月の海。
やがて蝶の腰に痛々しく突き刺さる三日月の冷たさ──。

青木優子氏によれば、
「三月」とは「三・一独立運動」、
「花が咲かずやるせない」はその後も独立できないことへの失望感、
海から戻ってきた白い蝶は「いずれ訪れる独立の日まで波にのみこまれまいとする、詩人の『生存の信念』」
を表すといいます。

「生存の信念」つまり抵抗の意志を、
これほど美しく幻想的なモダニズムで表した詩を、私は知りません。
現実への意志を、
それと拮抗する力で非現実へとねじふせる(あるいはその逆の)
静かで激しい力。
金起林の詩は、現実と美の双方へ魅惑的に抗っています。

金起林(キム・ギリム)(一九〇四~?)。
金素雲の『朝鮮詩集』にも紹介された、李箱や鄭芝溶とともに朝鮮モダニズム詩を代表するこの詩人の生涯は、歴史と政治に過酷に翻弄されたものです。

植民地化の渦中に少年時代を過ごし、
留学した日本の大学でモダニズムへの関心を育みます。
その後新聞記者となるかたわら、鄭芝溶と李箱らと交流します。
やがて新聞は廃刊に追い込まれ太平洋戦争が勃発し、
朝鮮での思想弾圧が激化したために故郷に引きこもります。
解放後教員となり朝鮮文学者同盟に加盟し、
詩集や詩論集など次々刊行しますが、
朝鮮戦争の渦中に人民軍に連行され消息を絶ったといいます。
以後軍事政権によって詩人の名は文学史から抹消されますが、
長い時を経て政権崩壊をきっかけに復権します──。

彼のモダニズムには不思議な強さがあって惹かれます。
それは彼のモダニズムが技巧や修辞ではなく、
平和へのつよい思いから生まれているから。
詩人がモダニズムに期待したのは、
民族主義を乗り越え世界的な原理を見出す力でした。
歴史と現実を冷静に見つめながら、
「来るべき民族文学」を今いかに創出すべきかを考え抜いた、
真摯に感じ思考する詩人です。
ぜひ読んでください。

2010年2月26日 (金)

マイノリティ

今朝の京都新聞朝刊の一面にあったImage329_2
「高校無償化、朝鮮学校除外を容認」
という記事にショックを受けました。
部外者の私でさえ心痛んだのに、
当事者の方々はどんなに絶望感を抱かれたことでしょう。
政治的な思惑は私などには分かりませんが、
「朝鮮学校がどういうことを教えているのか、必ずしも見えない中で」
という首相のコメントの中の
「必ずしも見えない」という言い回しが詩人としてとくに気になりました。
曖昧模糊であるためにかえって誤解を招きかねないし、
それこそ自分を傍観者にできる
日本語の婉曲表現の悪用だと思います。
「見えない」なら「見てみよう」って
なぜ動こうとしないのでしょうか。
私などですら京都朝鮮中・高級学校を見学させて頂いて、
生徒さんが日本の学校以上に日本のことを真剣に学んでいるのに驚きましたし、
逆に日本の教育は、日本人はどうすべきだろう、と
自分自身を考えさせる契機を与えられたのです。
もっと優れたトップの方が見られたら
どんなにか私たちの蒙を啓くような
見解を抱かれることでしょうか。
ぜひこの機会に学校へ足を運んでいただきたいです。

先日金校長先生がして下さったお話でも
日本のカリキュラムに極力合わせる教育をしているとのことですし、
自民族の国土での他民族の民族教育が行われることを保障するのは
国連の条約でも義務化されているそうですし、
もちろん日本国憲法でも「ひとしく教育を受ける権利」
は明文化されています。
しかしそうした制度的・法的なこと以上に、
自分がより自分らしくあることとはいかなることか
そのためにはどうしたらいいのか
という問いかけを
今日の報道はこの国に生きる私に
あらためて突きつけてきました。
じつは先日の京都朝鮮中・高級学校の訪問から
私の底にはその問いかけが海鳴りのように響いていたようです。

そこから考えさせられているのは
「自分とはなにか」ということ。

私とは
のっぺらぼうな抽象的な存在ではなく
風土や歴史がつねに編み上げる「今ここ」という中心に存在する
とてもとても具体的な、たった一人の者です。
その上で私はたった一人のかけがえのない者でありながら
人類や民族の一人である者でもあるはずです。
その後者としての私とは
愛すべき他者との関係に抜きがたく
生まれながらにして巻き込まれてある。
とりわけ苦難を経て
この私たちという存在を創りだした
膨大な死者を含むその人々に対しては
少なくとも無意識に無限の責任を負わざるをえないはずです。
それは意識で否定してもだめでしょう。
民族の文化を学ぶとは
そうした他者への無限の責任に応答する自分
をそれに値する者として創り上げるために必要なことだと思います。
とりわけマイノリティにとって
後者としての自分こそが
ともすれば負けそうな、前者としての自分を支えてくれるはず。
「死ぬ日まで天を仰」いで生きていくために。
そして
よりよく生きる人とはみなマイノリティではないでしょうか。

2010年2月25日 (木)

小林多喜二

昨夜、NHKでたまたま小林多喜二の特集番組をみました(「歴史秘話ヒストリア」午後10:00-11:45)。
私も昨今のブームに促され
最近初めてちゃんと「蟹工船」を読みました。
高校生の頃も少し読みましたが、
よく分からなかったという記憶があります。

しかし今読むと、
斬新な比喩、大胆な擬態語と擬音語、生き生きとした会話など、
最底辺の労働の「地獄」をリアルに描き出す
その言語感覚はとても鋭敏です。

例えば
「カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子のように、えどなみかゝってきた。船はまるで兎より、もっと弱々しかった。」
小樽高商時代詩も書いていたというそうですが、たしかに詩人ですね。
音の詩人。
今の時代に耳からつよく訴えかけてきます。

昨夜の番組でとても印象的だったのは
多喜二の故郷への深い思いです。
以下は小樽にある文学碑に刻まれた
獄中からの手紙の一部。

「冬が近くなると ぼくはそのなつかしい国のことを考えて 深い感動に捉えられている
そこには 運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは 人は重っ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上がっている街を ぼくはどんなに 愛しているか分からない」

この文章が番組の中で読みあげられた時
とりわけ「どれも背をまげて歩いている どの人をも知っている」
に感動しました。
獄中にいるのに
まるで今故郷でうつむき歩く人々の顔を幻視するかのように
「歩いている」「知っている」と進行形で止めている。
これを書いたその時
暗い監獄の闇の中で
故郷・小樽はどんなに輝いて見えたことでしょうか。

他者の尊厳と他者とのつながりのために
身を挺して書き続けたこの詩人について
もっと知らなくてはならないなと思いました。

2010年2月24日 (水)

「鳴き声」倉田昌紀 

紀州・熊野の倉田昌紀さんからまた投稿がありました。
投稿文として書かれていますが、私には詩作品のようにも思えました。
ほんの少し詩的に変更させてもらい「作品」としてアップします。
「ウィー、ウィー、ウィー」は私には「肯定」の意志に思えます。
みなさんはどうですか?

追伸 春の陽射しに誘われ、ブログのデザインを変えました。

  鳴き声
                           倉田昌紀
ウィー、ウィー、ウィー
フュウー、フュウー、フュウー
ワォー、ワォー、ワォー 鳴き声か、泣き声か
鳴いています
泣いています
人が、人間が、鳴いています
泣いています
もしかしたらお地蔵さまかもしれないな…

深夜の廊下に声が響き渡ります
音声に意味がくっついているのでしょうか
それとも離れているのでしょうか
そのことが解るのは誰なのでしょう…
地上にいるのでしょうか
天空でしょうか

大阪のガン病棟でも、
紀州の口熊野の病棟でも、
ウィー、フュウ、ワォー
の声なのです
この音に決めたのは誰?
何処から出てくるの?
身体からそれとも真空から?

ぼくも鳴いてみたい
どんな音質を発することができるだろう
無声かもしれない
楽になるかもしれないのに困ったものだ
ぼくも鳴きたい
ほんとうは大きな勇気で

紀州の五階の病室から見える海の碧のように
山々の濃い緑のように
青空に点在し浮遊する雲の白のように
無償で透明な音
意味はいらない

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