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2010年5月

2010年5月31日 (月)

5月30日ETV特集「検事と死刑囚の44年」

死刑の問題について考えさせられました。

最高検察庁の元検事土本氏には
若き日に関わった、死刑判決をめぐって忘れられない記憶があります。
強盗に押し入った家で主婦を殺害した22歳の容疑者に死刑を求刑し、
最高裁で確定させた事件です。

死刑囚となった青年と土本氏は死刑が執行されるまで手紙を交わしました。
手紙から、死刑囚が社会に出られるほどに立ち直ったのを確信した元検事は
執行を止められないかと上司に恩赦をかけあいますが死刑は執行されます。

それ以後、ずっとこの死刑囚のことは心にわだかまっていましたが、
後日、別の死刑囚の死刑の現場にみずから立ち会うことを決心します。

土本氏は初老の死刑囚の隣で、その体に肱でふれながら読経もする。
彼がふるえおびえる様子も目の当たりにする。
階段の下へ連れていかれた死刑囚がみえなくなると
看守たちや立ち会い人が唱える読経が急速に高まっていく。
突然凄い音が響く。
次の瞬間元検事が目にしたのは
目を覆われ、両足を結ばれ、手錠をかけられ
首をくくられて苦しむ死刑囚の姿。
それを階段の途中から白衣の医務官が
時計で時間を測りながら見て、脈と瞳孔と呼吸を確認しつづける・・・

土本氏はその凄惨な現場に立ち会いながら
「私達が裁くのは罪か人間か」と痛感します。

死刑囚の青年は手紙で、死刑確定後も
「これからきっと立ち直ります」
「今年も検事さんにとっていい年なりますように。僕はもっといい年にしてみせます」
と生きることへの祈りのように書き記しました。
「立ち直っていくのが分かる、でもそれだけ苦しくなる。しかしそれも罪のあがないなのだと思う」とも記しています。
精神不安を静めるために飼うことを許された文鳥のために
自分の分の毛布で住み家を作ったことや
窓から鴉が雀を殺す様子を観察し
しかし鴉は巣に戻れば雛がいる、
自分は鴉以下だと思ったことなども書いています。
最後の勤め先の奥さんや国選弁護人には
獄中の内職で稼いだなけなしのお金を贈っています。

番組から感じられた青年の姿は
本当にまっとうで
そのような人間が人を殺したというのは、魔がさしたとしか思えません。

あるいは人を殺して初めて、自分を見つめることが出来たのかもしれませんが、
いずれにしてもどんな人間も変わりうるということを
この死刑囚の変化は物語っているのではないでしょうか。

番組の最後に、最近の調査で、85%以上の人々が死刑に賛成という事実を知りました。
「人を殺したから、殺されてあたりまえ」
「死刑が犯罪の抑止につながる」
「立ち直る人もいれば立ち直らない人もいるはず」
というような考えにもとづいていると思いますが、
それは一人の人間としての死刑囚がどんな生活をし、どんなことを考えているのか
何よりも、死刑の現場の実態がいかなるものであるのかを
知らないからだと思います。

しかし一方で、罪と人間は切り離されうるのか、
という根源的な問いかけもたしかに存在します。
けれどもう一方で、犯罪者とは、
その人間が追い詰められた時の仮そめの姿で
本当の姿ではなかったということもできるでしょう。

元検事は裁判員制度の開始をきっかけに
重い口を開いたのでした。
人を裁き、死刑を言い渡す義務を負わされる市民に
死刑の現実が全く知らされていないことを危惧して。

この強盗殺人事件は私が育った町で
私が十歳の時に起こったものだと知り、驚きました。
記憶にはありませんでしたが。
死刑囚の母親は、息子の死からほどなく、
やはり同じ町で電車にみずから飛び込み亡くなったそうです。
画面に映る風景にはたしかに見覚えがありました。

いったい罪とは何なのか。
罪と罰の関係とはどんな次元にあるものなのか。
これだけの人々が賛成しているならば、
死刑というものはなくならない、と元検事は言っていましたが
もしそうであるとしても
一人の人間のいのちを奪うことは
神にしか出来ないことだという真実を
それぞれがもっと自分の内側から感じとらなくてはならないのではないでしょうか。

2010年5月30日 (日)

ふたたび花園

昨日も今日も新緑が美しく輝く京都。Image622

昨日午後三時頃、家からほど近いケーブル八瀬駅からケーブル比叡駅を経て、ロープーウェーで比叡山山頂まで行きました。

私の住んでいる所はすでに比叡山の麓ですが、時折思いたっては、地上の喧噪を離れ、山頂にぼんやりしに行きます。地上800メートルにある、まさに空中庭園のガーデンミュージアム比叡で、珈琲を飲むだけなのですが。

ここはとにかく私にとって不思議な所です。そして思い出深い場所。

「ふたたび花園」(『神は外せないイヤホン』という詩でもふれていますが、六年前のちょうど今頃、病院の診察で引っかかり(医者が体をさわって真っ青になった瞬間、もうだめだと思いました、実際だめでした)、検査結果を翌日に控えた日曜、死刑宣告前のまっくらやみの気持で地上からここに逃れてきました。モネの庭園を模した美しい花園は、折しもバラが満開で、色とりどりの花弁が、真空めいた薄い空気の中で、怖いくらいに非現実的に揺れていました。

昨日はあの時の非現実性がかすかにフラッシュバックしながらも、六年後のサバイバーの、それなりにしっかりした足取りになったな、と、庭園を歩きながら思いました。まだバラには少し早く、ポピーが咲き誇っていました。

ところで、ここまで来るには、ケーブルとロープウェーを乗り継ぎます。Image626

ケーブルカーは、1925年に開業。それに接続されているロープウェイは日本初のもので、1928年に開通したそうです。ケーブルカーの高低差は561m、これは日本最高だとされています。

しかしなかなか知られていないのは、そのケーブルカー・ロープウェイ工事が、多くの朝鮮人労働者で支えられていたこと。車窓から土砂を堰き止める石壁が見えましたが、その城壁めいた古い石組みにも、歴史の闇に忘れられた痛苦がこめられていると思うと、胸がつかれました。

たしか尹東柱も、京都に留学中の冬休みに、このケーブルカーとロープウェイを乗り継ぎ、琵琶湖へ抜けたはずです。京都を見下ろすこの風景は当時と変わっていません。どんな思いで見つめていたのでしょうか。

2010年5月29日 (土)

辺見庸『生首』(二)

なぜこの詩集が、今私の心に深く届くのでしょうか。
低く、押し殺した声で、
明るい希望を決して与えないのに。
諦念やシニシズムへも解放してくれないのに。
「私」の死後や「私」自身の屍を見つめるつらさに満ちているのに。

直接的な表現ではなく、むしろ書くことに淫する筆致にも
しかし、何者かが血を流すようにして
暗がりで泣いている。
それは作者自身というより、作者の死後の分身かもしれない。
それだけに痛ましく、真に世界が泣かれている。
むこうから。こちらから。
「反世界の究竟」と帯にありますが、
反世界の「反」には、いのちを裏返す痛みがあり
死者の痛みにさえ貫かれています。

「すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。

クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。夕まし、浜辺でますます青む一輪の花。もう暗れまどうことはない。あれがクレマチスというならクレマチス。いや、テッセンというならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのために、他を殺せるか、みずからを殺せるか、だ。

讒言。日ごと夜ごと、うわごと、たわごとを発せよ。どのみち善魔にしきられる。」
                                                     (「善魔論」第三連、第四連)

「どのみち善魔にしきられる」とは、しかしこちらを叱咤する唾棄ではないでしょうか。善魔とは誰か。私にも、様々な顔ぶれが浮かびますが、しっかり憎まないといけないと心します。みんな自分のしどけない顔となって溶けてしまわないように。

辺見庸『生首』

詩がうたうのは希望か、それとも絶望か。Image620
それとも両者が渾然となった、乳白色の闇で戯れるのか。
あるいは詩を書くという一種超絶した行為においては
三者の分け隔てなどなく
希望は絶望へ、絶望は希望へ
乳白色の闇を滲ませあられもなくうらがえるのか。

というように、読んでしまえば恐らく誰しも
その語り口に遥かに憑依されてしまうだろう詩人、
辺見庸さんの詩集『生首』(毎日新聞社)が出ました。
この国で良識を持ちこたえようとするがゆえに
大きな絶望と小さな希望に今立ち眩む人々にぜひ読んで欲しい一集です。

ここには絶望というより
言葉がフェイクな希望を振り切っていく試みの果てに
詩がただ絶望の裸形として、魅惑的に立ち尽くしています。
絶望でなく絶望さえ突き抜けた裸形の詩が。

辺見さんと言えば約三年前
京都の丸太町にあるクラブメトロで講演会がありました。
病を押して(あるいは病ゆえの力で)三時間を語りきった。
死刑囚について。ベトナム戦争にいて。この世界の矛盾について。
闇の中であまりにも強く深く訴えられた聴衆は
そのインパクトにかなり動揺させられました(泣いていた若い子もいた)。
鮮烈に亀裂を入れられた夜となりました。
辺見さんが登壇する際に流れていたCCRの「雨を見たかい?」は
ナパーム弾の煌めきをうたっているものですが、
あの夜以来私の愛聴曲ともなりました。

曠野はまだ幽かに燻っている。
残夢がいまなお問うているのだ。
誤りかもしれぬと承知で
なお深く くみしえたか。
その問いに幾たび
蒼ざめたか。
骨まで蒼ざめたか。

つまり
誤りのために
すべてを賭す気があったか。
言ったかぎりのことを
一身に負う気組みがあったのか。
殺(や)る気はあったのか。
その問いに幾たび
蒼ざめたか。
骨まで蒼ざめたか。

後ろ影が遠ざかる。
はるかに遠ざかる。
闇に空足をふむ。
                      (「残照」の第三連から第五連)

このように、この詩集は、某国の首相に贈るのに勿体ない位タイムリーな詩集です。

2010年5月28日 (金)

「普天間で日米共同声明」

「日米両政府は28日、米軍普天間飛行場(沖縄宜野湾市)移設に関する共同声明を発表した。移設先をキャンプ・シュワブのある名護市辺野古崎地区とこれに隣接する水域とし、1800メートルの滑走路を建設すると明記。8月末までに代替施設の位置と工法の検討を完了させる方針を示した。埋め立てを軸に調整が進む見通しだ。沖縄の負担軽減策として、海兵隊など米軍の一部訓練移転先に鹿児島県・徳之島を挙げ、沖縄県外の自衛隊基地の活用を盛り込んだ。」

京都新聞一面記事のリードを書き写しました。
読んだだけでは頭に入ってこないので、キーボードを打つ指から理解しました。
しかし、一字打つごとに、心が暗くなっていきました。

結局、沖縄の人々の負担軽減どころか、さらに解決不能の心労を与えるだけの結果となりました。もし辺野古を着工する段になれば、大変なことが起きるはずです。また普天間がさらに身動きのできないなら、何か、決定的な無力感とシニシズムが、始まる気さえします(それは、朝鮮高校無償化除外の問題でも感じたことですが)。

沖縄のその現場に住む人々は、日々いやがおうでも武器の匂いを嗅がされ、感じたくもない無力感とシニシズムを感じざるをえない。そのことを、私も想像しなくてはならないと思います。

シモーヌ・ヴェイユは書いています。
「人間の中にある無限は、剣という小さな鉄の一片のなすがままである。・・・この鉄の一片をひとふりすれば、かならずたちまちのうちに、人間の中にある無限は、ひき裂くような苦痛をともないつつ、切先の一点か、つかの上の一点まで縮小されてしまう。存在全体が一瞬のうちに打ちのめされてしまう。」

この一節から、今次のように言えるのではないでしょうか。「沖縄を想像するために、武器の破片をだに肌身に着けておくこと」。もちろん比喩でなく、冷徹な物質の感触から想像しうることを想像するために。

「ゼロ年代」

「ゼロ年代」という言葉を昨年初めて知りました。

文字通りには西暦 二〇〇〇 年から二〇〇九年までの十年間。
時代的な意味あいとしては、二〇〇一年九月十一日のアメリカ同時多発テロ、構造改革、新自由主義による競争社会とそれに伴う格差社会意識の浸透によって、いわばバトルロワイヤル的な(生き残りをかけ自分の力だけを信じて闘う)生き方が主流となった時代、とでも言えるでしょうか。またその就職氷河期に社会に出た世代を指すこともあります。

これを初めて知ったのは、昨年の現代詩手帖4月号の特集タイトル「ゼロ年代詩のゆくえ」からでした。

はっきりいって、私はこの言葉が好きではありません。

まずゼロというカタカナ表現が嫌です。開き直っているみたい。響きを露骨に押しつけるのも気持が悪い。積み重ねられてきた歴史を、スルーするシニシズムを感じる。

しかしだからこそ、文字表記も響きも、この時代の空気を大変巧く表現した言葉だと思います。

でもなぜこの言葉が、実質的なゼロ年代が終わりかけに喧伝され、それが終わった今も、時代を名指す言葉として使われるのでしょうか。閉塞した状況をゼロにしたい気分は伝わってきます。

恐らくそれは、空洞化した用語としての「左翼」と対をなして生まれたのではないでしょうか。ネット上で顕著だと思いますが、歴史にきちんと向き合おうとする姿勢や、弱者へ寄り添おうとするまっとうな魂のあり方を見せれば、まるで危険を察知したように、話もきこうとせず、左翼だ左翼だとつめよってくる人々がいる。恐らくゼロ年代以下と思われるその人たちは、そう連呼することで、「左翼」を差別語にしていくのです。しかし逆に「ゼロ年代」といくら連呼しても、それは差別語にはならない。「ゼロ」の開き直りはそれだけ強烈なのです。

現代詩においても、すっかりゼロ年代的な価値観が、うっすらとですが、覆い尽くしています。現実やその基となる歴史との緊張関係からしか、詩は立ち上がってこないはずですが、そういう詩との対し方は面倒臭いのでしょうか。

しかし、じゃあおまえはゼロ年代的なシニシズムから免れているのか、といわれれば、即答できない自分がたしかにいます。けれどゼロ年代とは何かについて、その時代を生きてきた自分自身と対話しながら、その言葉と時代の罠を自覚しておくことは必要ではないかと思うのです。詩を、時代を昇華するというスタンスで書くために。

2010年5月27日 (木)

報道ステーション

先ほど報道ステーションでDscf0072
ゲスト出演の作家の澤地久枝さんが
普天間問題について真情あふれる言葉で、
基地の存在の根本的な不当性を訴えていました。
二年間宜野湾市に住んで、普天間の現実を見られたとのこと。
そういう方だからこそ
いかに沖縄が苦しんできたかを説得力を持って語ることができる。
戦時中、鉄の暴風と言われた凄まじい攻撃を仕掛け
すでに沖縄の基地化を図っていたアメリカ。
戦後、生き残った県民を収容し、次々土地を没収して基地にしていった。
アメリカとの外交努力によって、日米安保条約
(そういえば最近日米軍事同盟とばかり耳にしますが、正確には安全保障条約ですね。話し合いが出来る条約なんですね)
も解消しなくてはならない、そういう時期に来ている、と
おっしゃっていました。
また、憲法九条について
どんな国の憲法も理想を追求すれば、九条の理念に至るはずだ、と語っていた。
その時、「笑うかも知れないけれど」と前置きしていました。
そう、確かに九条を笑うシニシズムがこの日本には満ちています。

ふとチャンネルを変えれば、民報のBSでも普天間問題の座談会。
画面に軍事評論家が勢揃いしていた。
すでにもう戦時体制であるかのように
マニアックな武器の話までしていました。
しかし本当に目の暗い人ばかり。
命を奪われる人たちに対する想像力なんてひとかけらもない。
戦争になったら、こんな人たちが上官になって命令を下すんですね。
そうリアルに想像をすると、やはり戦争なんて、身が震えます。

写真はひきつづき久高島でみかけた猫。この猫は違いますが、名護では脚が長い猫ばかり見かけました。

7年前の海

新聞で、普天間移設問題の記事を見るのがつらいこの頃です。Dscf0067_2

本日の朝日新聞朝刊一面の記事から。
「社民党党首の福島瑞穂・消費者担当相は26日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先として「名護市辺野古周辺」が日米共同声明に明記された場合、鳩山政権が閣議に諮る政府声明などの関連文書が「辺野古」に触れていなくても、署名を拒む考えを明らかにした」

これについて、野党のある党首が、「閣僚と党首の使い分けは国民には通用しない。政党の主張をしたいなら、閣外に出るべきだ」という意見を出したようですが、ひどい同調主義だと感じました。誰が考えてもおかしいことをおかしいと主張するためには、多方面的、多次元的に動くはあたりまえです。

先日、国民の過半数が現行憲法を変えるべきではないという調査結果が出ました。
私も絶対、日本には他国の軍隊も自国の軍隊もいらないと思います。

7年前、名護市を訪れました。
オーシャンビューのホテルで海を眺めながら、珈琲を飲んでいたとき、
ドーンドーンと花火のような音が。
対岸に鋭い光が次々炸裂しているのが見えました。
ボーイさんが「いつもの米軍の大砲の演習ですよ、山がどんどん欠けてきているんですよ」
と盆を抱えまっすぐに立ったまま、平然と笑っていたのには凍りつきました。
辺りをドライブした時も、突然匍匐前進の顔を黒く塗った兵士たちが、何かを叫びながら一般道路に突然現れ、すごく怖かったです。
もちろんそんな経験を沖縄の人々は無数に被っているはず。
その苦痛に対する想像力を、もちろん政治家こそが持っていて当然です。

写真はその7年前の沖縄・久高島の冬の海。
神が降りてくるというとても美しい島でした。

2010年5月26日 (水)

シナリオ『空と風と星と詩』

趙漢信(チョ・ハンシン)作、ピョ・ジェスン演出の『空と風と星と詩』の日本公演台本(日本語版)を、入手しました。公演は、昨年11月に日本の立教大学などで行われました。

 趙氏は1966年ソウル生まれ。創作集団「鏡と灯盞」代表。

 タイトルから分かるように、これは尹東柱の半生を描いたもの。

  舞台は解放後、『空と風と星と詩』の出版記念会から始まります。鄭芝溶や姜處重や文益煥といった、東柱にゆかりの人物たちは、詩集を賛嘆すると同時に、それゆえ東柱の死を深く悲しみます。物語は、平壌崇実中学からソウル延禧専門学校、そして日本留学時代と続きます(ラストの部分は欠落していました)。

 東柱が友人たちに創氏改名と日本留学への決意を語る場面は、場面転換の鮮やかさと共に迫力があります。あの、神への懐疑を滲ませた「八福」(「悲しむものには 福(さいわい)があるはずだ」)を八度繰り返した後、「彼らは永遠(とこしえ)に悲しむだろう」という一行で締めくくる)を朗読した後、東柱は以下のような決意を述べます。

「(決意したように)このままではいけません。私は名もない詩人であり、才能といっても粗末な詩を作ることしかありません。再びペンを持ち、書き続けます。私の血と魂に約束します。いつか自らを犠牲にしなければならない日が訪れるとしても、私が栄光に包まれた殉教の道を歩まねばならないなら・・・・・・・その時が来たら、ためらうことなく飛び込むでしょう。慰めだけでは足りない世の中です。(宣言するように)これから私の詩は私の武器です。」

 末尾の「これから私の詩は私の武器です」という言葉には、私も色々思いがめぐります。、抒情詩こそが武器たりうるという、東柱が体現した、詩が本来持つ謎の力について。

 また、東京で知り合った同じ留学生朴チュネという女性との、甘やかな会話も、素晴らしい詩論になっています

東柱「どうです? 声楽を習うのは面白いですか?」
朴「ええ、とっても面白いわ。私の好きなことですから。どうですか?詩はずいぶん書かれているの?」
東柱「本当におかしなものです。世の中は更にむごたらしくなっているのに、詩は書かれつづけます。果てなく。」
朴「情が深いからですわ。」
東柱「そうですか?」
朴「情が深いゆえ、たくさんの悲しみを感じるんです。だから、詩が果てなく生まれるのです。」
東柱「理解してくださってありがとう。」
朴「一度、聞きたいわ。直接書いた詩を。」
東柱「今度持ってきてあげましょう。」
朴「いいえ、直接読むのを聞きたいんです。詩人が直接読む詩を。」
東柱「(気分が良く)僕が詩を読んだら、チュネさんは歌ってくれますか?声楽家が直接歌う歌を聞きたいですね。 
朴「(笑顔を見せて)いいわ。(嬉しそうにうなずく)」

「情が深い」とは、たしかに東柱の詩の本質を名指しています。たくさんの悲しみを感じるゆえに詩が果てなく生まれる。つまり詩とは感受性の産物でもあること、なおかつ「たくさんの悲しみ」=悲しみの数と質を経験しなくてはならないこと、つまりリルケが言ったように、詩とは経験であることをも語っています。

 そして別の場面(恐らく最後の逢瀬のシーン)で朴との会話。

朴「どんな方のことを思って詩を書かれるの?」
東柱「(こみあげる悲しみをどうにか堪え)僕に許されないものが何かを悟らせてくれた人です」

 その人とは、恋人朴のことを直接には指しています。しかし詩とは、そのように、つねに悲しみの中に失われていく他者のためにこそ書かれる、書かれてしまう、という、詩の真実を語っている気がします。

 東柱という詩人の人物像をいかに現実化、実像化するか。それは最終的には詩を読む一人一人の中で行われる営為だとしても、このように演劇というジャンルにおいて、台詞だけでなく、他者との関係性や、空間的配置や、美術や音響とのコラボにおいて、浮き彫りにすることは、詩人と詩の謎に迫る、画期的な試みでしょう。

2010年5月25日 (火)

クリプタ

今日、京都に帰ってきました。Image616
朝、昨夜までの雨とは打って変わって、晴れ上がった東京の空の下を
中央線で新宿へ。
そこである人とお会いしてから、四谷にあるカトリック教会へ。

じつは今日は亡父の命日だったので、
教会の地下にあるクリプタ(地下納骨堂)にお参りしました。
クリプタには事務室の方からもお御堂からも行けるのですが
何となくお御堂に足が向きました。
螺旋階段で降りていきながら眺められる
美しいステンドグラスを久しぶり見たいと思ったからです。

お御堂ではちょうどミサが執り行われていたところで
外国人の神父が読みあげる
かすかに外国語訛りの聖書の言葉が
天井にかすかに反響していました。
昼間にしては意外な数の信者たちの背中はやはり神々しく思え
私も足音やキャスターの音も立てないように注意して
階段への扉もそっと閉めました。

太陽の高さがちょうどいい頃だったのかImage618
キリストの物語を描いたステンドグラスは
燦然と輝いてとても美しかった。
しかし足元にもご覧のような宝石のような反映の光が。
何だか降りるのが勿体ないようにも思えました。

クリプタには誰もおらず、とにかく静か。
やはりここでもキャスターの音は
死者たちの眠りを妨げるようで気が引け
重い荷物を抱えて歩きました。
日光が永遠に当たらずこもっている空気には
強い百合の匂いが染みています。
クリプタ内の小さなお御堂に生けられたものから発散しているのですが
百合の匂いはおのずと父や母の葬儀の日の記憶を
私の中から誘いだします。

父が亡くなった10年前の今日という日にも
真っ青な空が拡がっていて
しかし風が強かったのを覚えています。
讃美歌も風に吹かれてどこかに行ってしまうような
そんな悲しみがかなり長く続きました。

しかし10年はやはり一昔。
今は死後の父と母さえイメージ出来るようになっています。
きっと二人とも、
生からの別れという最大の苦しみから癒された
思い煩うことない光となって
いっしんに神に祈りながら復活の時を待っているに違いない、と。
そのように思うのは生者の身勝手でしょうか。
見回せばクリプタには
何百人という光になった死者たちが眠っていました。

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