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2010年6月

2010年6月30日 (水)

故郷/異郷の缶詰

故郷としてのハッキョ。Uchu
そう私に語ってくれたのは、在日二世の方でした。

生まれた場所は、母がいなくなった父を追う旅の途中。
それから日本のいくつもの場所を点々としたけれど、
どこも自分にとって故郷といえる場所はなかった。
けれどハッキョに通い始めて、初めて
大人たちに守られ、同じ仲間たちの中で落ち着いて
学び育つことが出来た。
そんなハッキョが故郷になった。
朝鮮語と朝鮮の文化を思う存分学べたし
仲間たちといるのはなんと嬉しかったことでしょう!

朝鮮学校出身者にとって
学校が故郷であるという真実を
私たちはもっと知らなくてはならないでしょう。
この社会のどこかで
いつも彼らは私たちに語りかけようとしているのだから。
語りかけようとした彼や彼女を
私たちは振り切ってきたのではないでしょうか?
しかしまるで群衆のようにかれらを黙殺してきたマジョリティもまた
一人一人はただマイノリティにすぎないのではないでしょうか?
老人にもなる。病気にもなる。貧者にもなる。
だからもっと耳を傾けなくてはならないのではないでしょうか?
なぜハッキョが故郷なのか。
自分が彼や彼女だったらどうだったか。
マジョリティという幻想に甘んじなおざりにしてきた
マイノリティの痛覚(誰しも一人一人はただマイノリティなのです)
を精一杯研ぎ澄まし
彼らの生きざまと魂の歴史を身の内から想像してみるならば
ハッキョが故郷であるという事実は
おのづから痛感できるはずです。

日本をどこでも大手をふって歩ける
日本人にとっては眩暈のするような、真実。
「ハッキョが故郷であること」
逆にいえば、学校の外に一歩踏み出れば異郷と変じうるということ。
日本という国家が周囲に自分を護るものとして?広がる日本人とは
真逆の空間感覚ではないでしょうか。

かつて赤瀬川源平のオブジェにあったじゃないですか。
「宇宙の缶詰」
作り方は簡単です。
缶詰の内側から「宇宙」と書いたラベルを貼ればできあがり。
今それにならってみましょう。
朝鮮学校の生徒は
まず外側からハッキョに「故郷」というラベルを貼るでしょう。
しかしハッキョの内側からは
生徒達が貼るまえにすでに誰かの手によって「異郷」というラベルが貼られてあるでしょう。
彼らより以前に生きた朝鮮人からの警告でしょうか。
それとも日本人が巧みに忍び込んで貼ったのでしょうか。
もしかしたらそうかもしれません。
今いっそう残酷になった私たちは、まさに小さなハッキョの外側からさえも
「異郷」とレッテルを貼りつけようとしているではありませんか。
マジョリティがマイノリティの大切な場所に
外側から排除のレッテルを貼ろうとしているではありませんか。あまりに卑劣です。

朝鮮学校の生徒たちは今
ハッキョの内側からはますます「異郷」の相貌を険しくする日本の
宇宙のような無限の外圧に耐えています。
いつかはエイリアンのような日本人たちが
神聖な校門を汚い手で揺さぶりさえしました。
かれらはハッキョ自体を見ようともせず
外側から「出て行け」などと暴力そのものである日本語を貼って
子供たちの心を追いつめました。極悪非道です。

「六畳部屋は他人の国」と
六十八年前東京に留学した尹東柱は書きました。
雨の夜の暗い部屋で。
「窓辺に夜の雨がささやいているが」とつづけています。
部屋の中にきこえる雨の音がそうささやいていた、というのです。
不思議な怖さのある詩です。
雨は母国語で語りかけたのでしょうか。
それとももしかしたら
日本語が悪魔のささやきで彼を追いつめたのでしょうか。

2010年6月29日 (火)

金里博さん無声一人デモ第Ⅱ回

事後報告になりますが、
本日金里博さんの第Ⅱ回無声一人デモが無事終わりました。Image665
今回は、26日、27日、28日、29日の計四日間。

私は第一日目と最終日の今日、伴走しました。

26日は雨でした。伴走三名。
市役所前から、河原町や、東山、烏丸、府庁前、丸太町、河原町、御池を経て、市役所にて解散。

久しぶりのデモ再開で、ちょっと緊張しました。
町行く人々は、前回と同じ人々であるわけもないのに、
「前回よりもちょっと反応が鈍いな」
などと思ってしまったのはなぜでしょうか。

街頭において人はたしかに
個々人ではないのです。
マスとしての人々、
つまり群衆という別のイキモノになることを
このようなデモの伴走者となってみるとよく実感できます。

振り返ってみる人もいる。
無視する人もいる。
しかしその内面は分からない。
いいえ内面を持って見ているともかぎらない。
一人一人の思いもないとはいえませんが、
全体としては疑いもなく集合体、マスなのです。Image681

無声一人デモの沈黙の力は
このマスを動かすことはできるだろうか?
いいえ、そのことを祈りのように里博さんは信じているはずです。
黙々と歩く後ろ姿を追いながら、
これはもしかしたら祈りなのかもしれない、と思いました。
その後ろ姿を追う私自身のまなざしも。

今日29日は、雨もようかと思いきや、途中から日差しがきつくなって、蒸し暑さに疲労がつのりました。途中で日陰で休んだり、水分補給しながら、里博さんと伴走者四名は頑張りました。

北大路駅から、金閣寺、竜安寺、円町、四條大宮、烏丸、御池、それから市役所にて解散。昼食や休憩時間も含めて、計五時間以上かかりました。
伴走するだけでもかなりしんどかったです。

5キロのプラカードを掲げ黙々と歩く里博氏が
後ろから見ていて
心配でなりませんでした。
四日連続の疲労はピークなはずです。
しかも炎天下ですから。
 
このようにこの人を歩かせているものは何か?
つらい身体を内側から鞭打ちつづけるものは何か?

そんな問いかけが私の中に響き続けました。

「京都のハッキョへの坂は、生徒達みんなで力を合わせて舗装したんですよ、
だからでこぼこだったでしょう。
ハッキョのすべては、みんなの手作りなんです。
だから、絶対なくす訳にはいかないんですよ。」
初日に呟いた里博さんの言葉を思い出しました。

また、同時に、別の朝鮮学校出身の方から聞いた
「私の故郷は、済州島でもどこでもない。ハッキョなんです。」
という言葉も。

きっとこの無声一人デモは
朝鮮学校出身者たちの魂のよりどころである
ハッキョという故郷へ向かっているにちがいないのだ、とハッと気づきました。
ためらいのないたしかな足取りは
失われてならない故郷の救難へと向かっていたのでした。

2010年6月28日 (月)

血、フェイク、他者の欲望

昨日は、夜も遅く疲労した頭で書いたせいか
「セゼールの言葉は
流れ出た血という究極のすがたとしての自由がある。
流れ出た血という形でしか自由を与えられなかった奴隷たち」
など、まがまがしいことを
思わず綴っていました。
あとで色々変なイメージ(三島由紀夫の作品で読んだイメージとか)が
自分の無意識にあふれてきたようで
ちょっと気分が悪いです。

最近は色々連鎖していくのです(さらさらとした透明な血のように?)
「現代詩手帖」7月号の詩集評の渡辺玄英さんの文章にも
「血」とあったのにちょっと驚きました。

話の枕として、
昨年のベネチア・ビエンナーレのメキシコ館に展示されたという
社会派の作品の話題がとりあげられています。

「メキシコと米国の国境付近では様々なトラブルで治安が悪化し、ここ数年で犠牲者は七千人にものぼるという。展示会場には壁一面に旗や布が貼りめぐらされ、それらは犠牲者の血で染め上げられていたというのだ。また、犠牲者の埋葬土を塗りこめた壁があり、さらに会場の床をモップ掛けするパフォーマンスに使われる水には犠牲者の血が入れられていたらしい。確かに異様な空間になっていただろうことは想像に難くない。」

うーん、本当に生々しい展示会場だったのでしょうね。
恐らく喪の黒を基調とした部屋で、灯りも落とされていて・・・
そうすると血の赤はより黒ずんでみえていて・・・

しかしたしかにそれは黒い光を発していたことでしょう。

展覧会の解説文に「犠牲者の血が使われている」と書かれていたのだろうと
渡辺さんは推測します。
しかしもちろんその文章が嘘であることも
可能性がないわけではない、といいます。

「『犠牲者の血』という情報=物語が感動を保証しているならば、その情報=物語がありさえすれば、同様の作品効果は得られるのだろうか。(中略)おそらくだが、考えれば考えるほど、今のわたしたちは与えられる情報=物語を素朴に信じたり、判定したりすることが困難になっているのだ。もしも、テレサ・マルゴレス作品の会場の出口に「犠牲者の血はフェイクです」と書かれていたとしても驚けない。さらに、その次の「フェイクということもフェイクです」と表示されていたとしても。そんな地点に今の日本のわたしたちはいるのではないか。際限なく繰り返しても結局真偽は宙吊りにされるしかないわけで、物語の真実を判定する超越した視座はどこにも存在できない。」

以上のような渡辺さんの文脈は
いわばこのブログでも先日論議があった「相対主義」vs「絶対主義」に
つながっていくものです。
ただラストで
「であるなら、制度を揺るがし続けるにはどうすればいいのだろうか。当然、簡単には答えは出せないわけだが、いまここで言えることは、制度の内部にありながら内側から食い破るような運動をコトバが演じられないか、ということだ。はたしてそんなことが可能なのか。」
と詩へのかすかな希望を投げかけているのに注目しました。

ここで注意したいのは、
「制度の内部にありながら内側から食い破るような運動をコトバが演じられないか
というところにある
コトバの演技として制度を食い破るというそのこと自体の演技=フェイク性
です。
つまり、渡辺さんはその前までは
本物の血もフェイクである→そのフェイクもフェイクである→すべてがフェイクであるといういわば絶対的相対主義にも行きかねないようにも見えたのですが、
このラストでは
そこまで来てしまったフェイクの力による
制度への逆説的な力へ一抹の希望を託しているのです。
それは
すべてがフェイクである→すべてがフェイクであるから、すべてがフェイクであるとも言えない
というように
相対主義をふりすてる方向へ一歩踏み込んでいるのではないでしょうか。

フェイクといえば先日ここでも取り上げた辺見庸さんの文章を思い出しました。

「『ニセといってもニセアカシアじしんに罪はないのよ。想像妊娠に悪意がないように』。だが、フェイクをこしらえる者には責任がある、とでもいいたげだった。そのことを近ごろしきりにおもいだす。もしも、いま眼に見え、耳に聞こえているものを、現にそこにそのように在る、と赤子のようにうたがわないでいられたら、苦悩がないという意味あいでは大いなる幸せであるとともに、思惟することを課せられた人としてはたとえようもない不幸である。」

つまりはフェイクという意識を持つことは
今のフェイクだらけの世の中にはただひたすら不幸だということです。
気づき、思惟してしまう者には、とめどない不幸が始まるのです。

しかし私たちには

すべてがフェイクである→すべてがフェイクであるから、すべてがフェイクであるとも言えない

という論理の極まりにしか救いはないのでしょうか。
今私にただひとつ思い浮かぶのは
「自分の欲望は他者の欲望である」というラカンのコトバ。
例えば展示された血をまえにして
私が共感し敬愛する人がうちふるえていたらどうでしょう。
その血がどんなフェイクな色をしていたとしても
私は本物として感受するはずだと思うのです。

2010年6月27日 (日)

詩とは美しすぎる復讐かもしれない

今、よんでいるのは
アンドレ・ブルトンをして「生まれ出ずる酸素のように美しい」と感嘆せしめた
仏領マルティニックの黒人詩人エメ・セゼール(1913-2008)。
自らが二グロであることから
白い普遍に抗する詩の力を汲み上げた詩人です。
その詩はまさに
植民地としてのマルティニック島の悲劇と闇から身を起こす
黒い光に輝く言葉の氾濫、蜂起、進軍です。

 そして私は自分に言う、ボルドーそしてナントそしてリヴァプールそしてニューヨークそしてサンフランシスコと
私の指紋のついていないところなどこの世界にひとかけらもありはしない
そして摩天楼の背には私の踵骨が
そして宝石のきらめきの中には
私の垢が!
私以上にもっていると誰に自慢できようか?
ヴァージニア、テネシー、ジョージア、アラバマ
無効に終わった
反抗の化け物じみた腐乱
腐った血の沼
不条理にも口をふさがれたトランペット
赤い大地、血の大地、同じ血が流れる大地。(『帰郷ノート』砂野幸稔訳から)

「私の指紋のついていないところなどこの世界にひとかけらもありはしない」
この一行は私の詩的身体を垂直につらぬいていきます。
まったき非所有という、世界のまったき所有!
そうそう、このブログの副題のブランショの言葉である
「それを通してすべてが消え去るかがやき」
と同じ解放感です。
「そして宝石のきらめきの中には/私の垢が!」
えっ?!と
私はただうろたえました。

セゼールの言葉は
流れ出た血という究極のすがたとしての自由がある。
流れ出た血という形でしか自由を与えられなかった奴隷たちの
黒い宿命を、大地の重力をねじまげるようにして
太陽の方へぎらぎらと射返していくのです。
「わが赤貧のいきいきとしたゼロ」というところから
発せられる言葉は本当に今生まれた酸素のよう。

うーん、詩って美しすぎる復讐なのかもしれないと
新たな定義を与えられています。

2010年6月26日 (土)

歴史学研究会の抗議声明文を読む(四)

昨日は、夏椿に申し訳ないことを書いてしまいました。Image662
「咲いていたのに、今日初めて気づいた」
いえいえ、夏椿は朝に開花し、夕方には落花する一日花だったのでした。
すっかり忘れていました。
今朝、枝先には花がなく
見れば下に討ち死にしたような、無惨な姿が。
(ごめんね)
しかし目をこらせば、いくつもの蕾が、睫でこの世に触れて
淡い光の夢を見ているところでした。
明日またひとつ、花は目覚めてくれるでしょうか。
今度はもっと心をこめて見つめますから。

今日は、友人たちと喫茶店で少し会話。
ふと、日本人って何だろう、という話に(私が誘導したわけでもないのですが。いえどうだったでしょうか?)。
「もし血統だったら
何代も遡れば、南や北から海流に乗ってやってきた人たちと入り混じっちゃうよね」
「韓国から見下ろせば、日本列島って、まるい湾のように見えていて、優しい感じ。
きっと来たくなっちゃったんだよね」
そんな他愛なくも心ときめく話になりました。

私も、混じる、とか、雑種、という発想が好きです。
どこからか流れ着いた、怪我で動けない野性味あふれる若者を、
岩場でひそかに手当しつづける千年前の私・・・。
素敵なまれびとの肌に触れるうちに、あふれる心を抑えきれなくなり・・・。
しかしやがて傷が癒える頃、彼は記憶をとりもどし、
妻子の待つ海の彼方へと帰ってしまう。
残された私にはすでに新しいいのちが・・・。

なにかかつて少女漫画で読んだことがあるようなシチュエーション(里中満智子の絵がふいに思い浮かびましたが)。
しかし、そんなどきどきするロマンスが
大昔にはきっとあちこちで生まれていたはず。
私の遺伝子にはきっと無限のロマンの記憶が眠っているはず。
ならば今こそ目覚めよ、と遺伝子に命じてみたいです。

それで、また国籍の話(もうやめてよ、といわれそうですが、ここに書こうと決めてしまいました。そうでないと、勉強しないままですので・・・すみません)。しかしここまでくると、「歴史学研究会の抗議声明文」自体からはかなり離れてしまったような。

1951年のサンフランシスコ条約まで
朝鮮人は日本国籍を保持していたのでした。
じゃあ、戦後からその時点まで選挙権を持っていたかといえば、
昨日書いたように
1945年衆議院議員法付則の「戸籍法の適用」を受けていないから
(「戸籍法」ではなく「朝鮮戸籍令の適用」を受けていたから
敗戦前までわずかの人々が持っていた選挙権までも剥奪されたのでした。
そのような基本的な権利の剥奪の一方で、
1951年までは日本国籍保持者とみなされていた。
日本国籍を持っているんだから
おまえたち朝鮮人が民族教育を行う朝鮮学校は認めない!と
無慈悲なアナウンスの下で
1948年には阪神教育闘争という形で大弾圧も加えられた。
しかしその直前の1947年には
外国人登録令(また「令」です・・。「戸籍令」と「戸籍法」を想い起こしますが、この「登録令」と「登録法」の違いは??)
が出されるのです。
(この登録令は1952年に廃止され、現行の外国人登録法へと移行しました)
この登録令で
「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」
とされました。
つまり、朝鮮人は、ここで今度は、外国人とみなされてしまったわけですよね・・。
えーっ、と?
一方で朝鮮人は1951年以前は、日本国籍保持者だし、
他方で1947年以降は、外国人でもある。
いったい何がどうなっているんでしょう???
頭が痛くなってきました。ではまた。

2010年6月25日 (金)

歴史学研究会の抗議声明を読む(三)

玄関脇の夏椿が咲いていました(右から傘を差しかけています)。Image662_2
目線より高い位置に咲いていたので、今日初めて気づきました。
苗を買ったのが6年前ですが、今では私の背丈をゆうに越えるほどに。
生まれて初めての手術の後に、何か希望を掴みたくて買ったのでしたが、
希望や絶望といった人間の思惑を越え、
植物は逞しくただ太陽の方向へのびていました。

ワールドカップで日本がデンマークに勝って、
大変な騒ぎです(今も夫が見るテレビの音量が大きすぎる・・・)。
遠い南アフリカで素晴らしい快挙だなあと思いつつ、
選手のインタビューで「日本国民の期待にこたえて」とか
「日本人になってよかった」というものがあって
こういう場面ではいつものことですが、不思議に感じました。
しかし「日本国民」も「日本人」について
いったいどんな定義なの? 突っ込まれれば
私も答えられない。
そもそも、国って何なのだろう。
「~~人」って血統なのか、住民を表すのか。
一人一人の個人である場合と、集団である場合とは違うのか。
日本の国境って一体どんな風に決まっているのか。
恥ずかしいことですが、じつはよく分かりません・・・。
朝鮮学校の除外の問題などを機縁に、
自分という一人の人間が持つ属性をじっくり考えなければ
と猛反省しています。

ふたたび、その日本国籍の問題を徐さんの本から考えます。
在日朝鮮人の側から考えると、国籍とは何かが具体的に分かるはずです。

昨日書いたように、
1952年のサンフランシスコ講和条約発効までは
朝鮮人は国籍変更を認められず、
日本国籍を保持したままでした。
しかし、だからといって戦後、女性と一緒になって
選挙権が与えられたわけではないのです。
むしろ敗戦前までは、一部の朝鮮人には選挙権がありました。
(朝鮮半島には議会も議員もなかったのですが、内地では一定条件を満たす人には参政権があった)
けれど日本は敗戦直後、これをまず取り上げます。
「戸籍法の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権は当分の間、これを停止する」(1945年衆議院議員法付則)
この「戸籍法の適用を受ける者」とは内地の日本人を指します。
昨日も書いたように、
外地の朝鮮人や台湾人は、戸籍令の適用を受ける。
朝鮮人は朝鮮戸籍令、台湾人は台湾戸籍令です。
だから上の付則の文章は、朝鮮人、台湾人の選挙権を否定するという意味なのです。
旧植民地出身の人々を、このように
多くの日本人の側にとっては大変分かりにくい形で、
(「戸籍法」と「戸籍令」の違いなど、一部の専門家以外誰も知らなかったはず)
国政から排除するところから
戦後の日本は出発したのでした。

このような
意味をあえて分かりにくくすることで
その意図を知らせないようにする、
というやり方で
朝鮮人と日本人は国家によって分断されてきたのではないでしょうか(もしはっきりと「旧植民地出身者には選挙権を与えない」と書けば、日本人の側からももちろん反対意見が出たはずです)。

またまた続きを書きますので、お付き合い下さい。

2010年6月24日 (木)

歴史学研究会の抗議声明を読む(二)

戦後建設された朝鮮学校は、植民地支配によって奪われた民族教育の機会を取り戻し、民族的尊厳を回復しようとするところから始まった。しかし、日本政府は戦後も朝鮮人の民族教育を弾圧し、植民地主義的な同化政策を継続させていった。

なぜ、日本は戦後も朝鮮学校を弾圧しようとしたのでしょうか。
そのことは、次の徐さんの記述が説明となると思います。

「そのとき(注:戦後、徐さんの祖父が朝鮮半島に戻るが、祖国の荒廃のために、父は日本に残って仕送りをすることになったとき)日本国政府は、講和(サンフランシスコ講和条約)以前の朝鮮人の国籍変更を認めず、日本国籍保持者であるとという立場をとったのです。日本は確かに戦争に負けたけれども朝鮮人も台湾人もまだ日本国籍保持者なんだと、戦勝国との講和条約でそのことは解決される。だから講和条約締結までは朝鮮人、台湾人、旧植民地出身者は日本国籍者として扱うという立場なのです。そうであるから在日朝鮮人が民族学校を作っても認可しない。日本国保持者は日本の学校教育令に基づいて日本の公立学校に行けということで、それを潰したんです。」(『秤にかけてはならない』)

この辺り、私の頭もこんがらがってしまいそうです。事実関係を整理しなくちゃいけません。

そもそも国籍の話です。
日本が朝鮮半島を植民地化して、朝鮮人は日本国籍になったということでしょうか。
なかなか錯綜していて理解が難しいのですが、上記の徐さんの本や若干の資料をもとに整理してみました。
付け焼き刃で書いているので、間違っていたら指摘して下さい。

日韓併合条約が1910年。
ここで朝鮮人は日本国籍となったことになるのでしょうか。
いったい戸籍はどうなっていたのか。
そのまえに、朝鮮では「十八世紀頃には人口の七、八割が本貫と姓を持つ者として戸籍に登録されるようになった」(水野直樹『創氏改名』)ということです。
つまりまず朝鮮独自の戸籍があったのです。
それから1905年に日本と大韓帝国のあいだで保護条約が結ばれ、日本は韓国を保護国とする。実質的な植民地支配の始まりです。
1909年に韓国の法律として民籍法が公布・施行されました。
それは当時の日本の戸籍をほとんどそのまま取り入れたものだったそうです。
1922年に朝鮮戸籍令を総督府が出しました。
そこで内地への転籍が禁じられました。
なぜなら「1920年代から徐々に徐々に朝鮮人が日本に渡航するケースが増えて」きて、「同じ帝国臣民だと言いながら、このまま放っておくと日本人と朝鮮人の区別がつかなくなるんじゃないか」という不安が生まれたからです。
その逆の、日本人が朝鮮に戸籍を移すこともできなくなったそうです。
戸籍が、民族を分ける強固なシステムとなったのです。
ここで「朝鮮戸籍法」ではなく「朝鮮戸籍令」という「命令」であるのは、「朝鮮では法律はありませんから、総督がそういう命令を下したわけです」(しかし、「法律がない」とは、法に守られないということではないでしょうか・・)
この戸籍令以後、朝鮮人は日本へ移動(当時朝鮮は日本の一部ですから、日本への移動は、海外渡航ではなく、日本国民が日本国内への移動となります)したとしても、戸籍は移動できなくなった。
だから、日本に長年住んでも、戸籍はあくまで朝鮮にあるままとなりました。
つまり日本人だったら、他県へ転籍できるが、朝鮮人は戸籍を動かせない。
だから戸籍を見れば、「朝鮮人かどうか何代さかのぼってもわかる」ようにできた。
「それが敗戦直後に生かされたのです」と徐さんは書いています。

これが戦争が終わるまえまでの、朝鮮人の戸籍が置かれていた状況です。
うーん、複雑すぎますが、戦後も同じく複雑になっていくようです。

歴史学研究会の抗議声明文を読む(一)

歴史学研究会の抗議声明文で、私が立ち止まったいくつかの箇所を、ゆっくりと読んでいきたいと思います。

歴史的に見ると、朝鮮人の民族教育に対する日本政府の差別政策は、100年にわたり形を変えながら続けられている。その淵源は、いうまでもなく植民地支配下での民族教育抑圧にある。

「植民地化での民族教育抑圧」の具体的な姿は、
日曜日(6月20日)のNHKの番組「プロジェクトJAPAN 日本と朝鮮半島」というシリーズの
「第三回 戦争に動員された人々 皇民化政策の時代」
で見ることができました。

日本は朝鮮半島の人々を、戦争に動員するために
教育や制度を通し、急速に徹底的に同化しようとします。
言語も氏名も宗教も、日本人へと同化させようとした。
国語常用。創氏改名。宮城遥拝。神社参拝。皇国臣民の誓詞。
日中戦争や南方の戦線が泥沼化し
日本人の兵士が不足する中で
同化には相当時間をかけなくてはならないという意見もあったのに
日本は朝鮮人の兵士を育成する政策を強行します。
兵士というのは武器を持つ訳ですから
抗日の思想などなく、徹底的に天皇に従順でなくてはならないし
また、兵士同士の意思疎通のために日本語は堪能でなくてはならない。
だから戦局が悪化する中、朝鮮人を兵士にするために
かれらを急速に、しかも徹底的に、日本人へ改造する必要があったわけです。
しかしこれほどの徹底した同化政策は世界でもまれにみるものだそうです。
(その異例さが、今の朝鮮学校に対する政策や態度にもつながるのでしょうか)

]1944年に朝鮮人に対しても徴兵制が施行される。兵役こそが朝鮮人を一人前の日本人にするというように喧伝した結果。

南方の密林で他国のために犬死にしたり
特攻隊員として死んだ朝鮮人もたくさんいた。
しかも、戦後そうした人々は、対日協力者として非難されました。
何と苛酷な運命を日本は与えたのでしょう。
この番組で、植民地主義というものの凄まじさを実感しました。

なぜあんなことをしたのでしょうか。
そしてあんな凄まじい植民地主義はやすやすと終わるわけもない。

「植民地主義というのはひとつの制度であり、その制度を支えるイデオロギーである。そのイデオロギーを無言のうちに支持する多くの人たちの文化や思考方式とかの、その集積です。これに終わりを告げるということは、その制度そのものに終わりを告げることであり、その制度を支えていたイデオロギーや文化を乗り越えるということです。」(徐京植『秤にかけてはなならない-日朝問題を考える座標軸』

つまり植民地主義、あるいは差別とは
制度として廃止するだけでは足りなくて、
その制度を支えていた、つまり
植民地主義を当たり前だとしてきた考え方や文化を乗り越えた(=つまりきっと、それらの存在をないものとするのではなく、まずは認めて、感じたり考えたりして、自分自身と共に変化させていく)ときに初めて
それは終わりを告げる、
あるいはもう繰り返されることはない、とようやく思えるものなのです。

日本は植民地主義をどれだけ克服したといえるのでしょうか。
戦後65年経って、制度においてはたしかになくなっています。
しかし一向になくならない差別や偏見、そしてそれにもとづいてまたうごめきだした排外主義など、
つまり考え方や文化の次元では、
植民地主義がじつはまったく克服されていないことに、気づかされます。
空気のようにみえない植民地主義を
私もまた日々呼吸してきた一人でしょう。
それはしかし、どんな形で、私の血となり肉となっているのでしょうか。

今みえているものの、あるいはここにいる自分の自明性を疑わないこと。
今私がここにいるのがなぜか、
私がどんな歴史や関係性に編まれた存在としてあるのかを問わないこと。
そんな日常的な意識のあり方もまた、植民地主義のひとつの現れなのかもしれません。

つまりたとえば
アルチュール・ランボーのいう「私は一個の他者である」というテーゼを
感じつくし、考えつくすことが今必要なのでしょう。
詩人として、植民地主義の克服へとつなげるために。あるいは言語における植民地主義の克服こそが、詩なのではないでしょうか。

2010年6月22日 (火)

歴史学研究会による抗議声明

日本の代表的な歴史研究の学術団体である「歴史学研究会」が、さる5月22日、以下のような抗議声明を総会で決議しました。同会の許可を得て、ここに転載します。歴史学研究者の団体だけあって、鋭い歴史認識に裏付けられた、説得力のある文章だと思います。これをもといに、今回の事態の根底にある歴史的な流れを、私たちもあらためて確認し、押さえていくことが出来ると思います。私も、さらに一歩深く考えるヒントをいくつか貰いました。少しずつこのブログでも検討していきたいと思います。みなさんはどのように読まれるでしょうか?
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朝鮮学校を「高校無償化」措置から除外する日本政府の動きに対する抗議声明

 4月1日からいわゆる「高校無償化法」が施行される中、文部科学省は4月30日に外国人学校31校を無償化の対象に決定する一方で、朝鮮学校については外交ルートなどで教育内容を確認できないとして、就学支給金の対象から除外した。検証機関を設置して教育内容を検証し、除外措置を解除できるかを今後判断するとしているが、情勢は楽観を許さない。なぜなら、そこには長い朝鮮学校差別の歴史が存在するからである。
 歴史的に見ると、朝鮮人の民族教育に対する日本政府の差別政策は、100年にわたり形を変えながら続けられている。その淵源は、いうまでもなく植民地支配下での民族教育抑圧にある。戦後建設された朝鮮学校は、植民地支配によって奪われた民族教育の機会を取り戻し、民族的尊厳を回復しようとするところから始まった。しかし、日本政府は戦後も朝鮮人の民族教育を弾圧し、植民地主義的な同化政策を継続させていった。1948年には大阪等で朝鮮学校に対する苛烈な弾圧を行ない、1949年には運営母体であった朝鮮人連盟に団体等規正令を適用することで、当時500校以上あった朝鮮学校の閉鎖を強行したのである。現在の朝鮮学校は、こうした弾圧をくぐりぬけながら、1950年代半ば以降に再建されてきたものである。
 日韓条約締結直後の1965年12月に出された文部次官通達(「朝鮮人のみを収容する教育施設の取扱いについて」)は、「民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められない」ので、各種学校として認可すべきではないとの姿勢を示した。朝鮮学校の各種学校としての「公的」認可は、1968年に美濃部亮吉東京都知事が朝鮮大学校を認可したように、各都道府県の知事が行ってきたのであり、日本政府自体は文部次官通達を現在まで正式に撤回することなく、朝鮮学校を排除する姿勢を維持している。今回の「高校無償化」措置をめぐる問題は、こうした民族教育敵視政策の歴史の延長線上に位置づけられるものである。
 また、こうした長い歴史を持つ民族差別が、グローバル化の進む中で、他の外国人学校との差別化という形でより露骨になった点も見逃すことができない。文部科学省は2003年以降、国際的な評価団体の認定を受けた、主として欧米系の外国人学校や、外国の正規の高等課程と位置づけられていることの「公的確認」が可能な学校には大学受験を認めるという基準を新たに設けた。その一方で、「公的確認」ができない朝鮮学校の生徒についてのみ例外とし、各大学に大学受験資格審査を委ねる仕組みを作った。これは今回「高校無償化」問題をめぐって持ち出された、「外交ルートで教育内容を確認できない」云々という、朝鮮学校を排除する論理と共通している。
 日本政府による今回の措置は、すべての者に中等教育の無償化を求める国際人権規約および子どもの権利条約に抵触している。既に今年3月の国連人種差別撤廃委員会においても朝鮮学校の除外を懸念する「勧告」が出されており、国際人権の観点から見てこれは明らかな民族差別である。民主党は当初、政権交代に際してすべての外国人学校に「高校無償化」措置を適用するとしていたが、それでも結局、朝鮮学校を排除する方向に舵を取った。人権より長い差別の慣行を重視していると言わざるを得ない。
 深刻なのは、今回の朝鮮学校排除の動きが、「拉致」問題を理由とする、中井洽拉致問題担当相の提起(2月)に端を発しているように、「北朝鮮」問題を利用して日本国内の国家主義を煽ろうとする流れと結びついていることである。こうした流れから、朝鮮学校についてのみ「教育内容」に干渉しようとする強硬な主張が平然となされている。文科省による「確認」の含意は、あくまで「教育課程」に関するもの(教科、カリキュラム、授業時間数など形式的・外形的なもの)に過ぎなかったはずが、橋下徹大阪府知事のように、支援の代償として大阪朝鮮学校に肖像画撤去を要求するなど、民族教育の内容そのものに介入する動きが出てきているのである。これは民族教育権に対する重大な侵害である。
 歴史学研究会は「高校無償化」措置から朝鮮学校を除外しようとする日本政府の姿勢に抗議する。日本政府は朝鮮民族の尊厳を蹂躙し、民族教育の権利を奪ってきた植民地支配を反省し、その負の遺産を清算するという歴史的責任を果たすためにも、朝鮮学校の民族教育権を十分に保障するべきである。

2010年5月22日
歴史学研究会2010年度総会

月刊「イオ」7月号

今年の4月号から購読を始めてImage660
毎月楽しみにしている月刊誌「イオ」(朝鮮新報社)。

在日朝鮮人社会の現在や歴史や文化を
おもねることなく、まっすぐに、
そして分かりやすく伝えてくれます。
まだまだ不勉強な私が頼りにしている雑誌です。

今月の特集、「朝鮮八道料理紀行文」は
写真も文章も食欲を誘ってやみません。

巻頭は「一世の軌跡を辿る・旅篇」で、「軍艦島」の取材記事です。
ここにある炭坑で朝鮮人が強制労働をさせられていたとは
私は初めて知りました。

ふと思い出しました。
先日、戦争中毒ガス工場があった
広島の大久野島に行ったときのことを。
うさぎが跳ね回るうららかな春の観光地のそこここに覗く
むき出しの赤い煉瓦の痕跡に衝撃を受けたのですが、
この軍艦島の写真にある炭坑の赤煉瓦の事務所の建物が
大久野島で見たのとよく似ているのでした。
さらに記憶の奥にある
アウシュヴィッツで見たかまどのある建物の赤煉瓦にもつながっていきます・・・。

いずれにしても悪夢の空間です。
でもつらい歴史であってもそれを知らなくては
悪夢は決して終わらないのですから。

あと李英哲さんの「連作小説1910/2010・穴を掘る女」にはとても触発されました。百年を往還する、鉄塔の根もとで穴を掘り続ける女のイメージが心に刻まれました。

ところで40-41頁の「ブロガーズ@io」にImage661
私がブロガーとして文章を書いていますので
ぜひ読んでみて下さい。
(それから金里博さん、ヤドリギ金子さん、野樹かずみさんのブログを「おすすめブログ」として紹介させて頂きました。事後承諾にてすみません・・)

なお、「イオ」は「○│○┤」の朝鮮語読みで
「継ぐ」という意味をもっているそうです。

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