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2011年2月

2011年2月27日 (日)

昨日の集会の様子がアップされています

ブログ「トンポ・トンネ日々イモジョモ」に昨日の2000人の集会の様子がアップされています

→URLはhttp://blogs.yahoo.co.jp/uil21/62900217.html

 

小さな光のメール

胸に小さな光がともるようなメールが来ました。

名古屋の詩人からの久しぶりのたよりでした。

先週、繁華街で初めて、朝鮮学校無償化適用をもとめるためにビラ配りをした、と知らせてくれました。

朝鮮高校の生徒や無償化実現をめざす活動をする人々と共に、道行く市民に訴えられたとのこと。

良い反応をしめしてくれたりする人もあれば、無関心で通り過ぎていく人もいた、と。

メールには書いていませんでしたが、もしかしたら冷たい反応をする人もいたかもしれません。

小さなさりげない報告でしたが、それだけに私の胸を打つものがありました。

この詩人は恐らく『アンソロジー』に参加することをきっかけに、初めて朝鮮学校の存在を意識し、無償化除外問題をくわしく知ったのだと思います。

長い間、お互いに詩作品を読んだり読んでもらったりしてきたのですが、お会いしたことはない人です。

ビラ配りは、実際、やってみるとかなりの心労をともなうものです。私も初めて街頭に立ち、雑踏をまえにした瞬間、足がふるえました。

この人の詩に私がずっと感じてきた、蜜蜂と花がひきあうような、優しく柔らかな世界や自己との交感を想います。 あの詩風のままに、自分の感受性に耳をすませて、やがてこの問題に関わろうと決意してくれたのだな、とじんときました。

ときとして、かたくなな世間の無理解は、まる岩壁のようにも思えますが、
また一人、そしてまたひとりと、岩にしずくが落ちるように少しずつ、すこしずつ波動がひろがっているのを実感し、たしかな希望を感じます。

2011年2月26日 (土)

「金銀花永夜」を観たsantaさんの感想

いつもコメントをくれるsantaさんがブログSantaNo Yumeで、昨日このブログで紹介した劇団タルオルムの「金銀花永夜」を観た感想をつづっています。私も数々の素晴らしいシーンを思いだし、ふたたび涙がこぼれました

→URLはhttp://ameblo.jp/santanomiruyume/entry-10813775606.html#cbox

明日が公演の最終日です。朝鮮学校を愛する人々の思いを、これほど感動をもって伝える劇はないでしょう。まだご覧になっていない方はぜひ足をお運び下さい!詳細は昨日の記事をお読み下さい。新宿タイニイアリスにて13時からです。

2011年2月25日 (金)

3月5日の講演会が紹介されました(本日朝日新聞夕刊文化欄)

詩人が語る「絵画と詩」 原勝四郎展でImage1231

 絵画に触発されて詩を書くとはどんなことなのか。H氏賞詩人の河津聖恵さんが3月5日、そんなテーマで講演会を和歌山県の田辺市立美術館で開く。開催中の展覧会にちなんだ「原勝四郎が放ち続ける詩の光」だ。
 原勝四郎(1886~1964)は田辺市出身の洋画家。第1次大戦下にパリヘ渡り、フランスやアルジェリアを放浪した後、故郷に居を構えて創作を続けた。
 河津さんはここ数年、紀伊半島を巡って詩作を繰り返す中で原の作品を知った。詩集「新鹿」の表紙には原の作品「江津良の海」をあしらい、収めた詩「白浜」は原がモチーフだ。「原がキャンバスに切り取った風景を実際に見ているうちに、創作意欲を触発された」と河津さんは語る。
 午後2時から。観覧料(大人600円、高校・大学生400円、小中学生200円)が必要。問い合わせは美術館(0739-24-3770)へ。

劇団タルオルム「金銀花永夜」東京公演のお知らせ

以前このブログ(紹介記事http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-0cbd.html、 http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-55b9.html)でも紹介した「金銀花永夜(クムンファヨンヤ)」の東京公演のお知らせです!
ぜひ観に行って下さい!
       新宿タイニイアリス(http://www.tinyalice.net/)にて 
       2/25(金)15:00 
       2/26(土)19:00
       2/27(日)13:00
詳細はこちら→(http://hamoblo.com/talorum/index.php?type=1&entryId=379

2011年2月24日 (木)

2月21日京都新聞朝刊「詩歌の本棚」新刊評

「詩歌の本棚」新刊評(2月21日京都新聞朝刊) 河津聖恵  

 私たちは今、他者や自分自身や社会とどのように関係しているのか。「関係」は日常に浸かったままでは曖昧で掴みどころがない。他者だけでなく自分さえ見失うこともある。だが詩は、私たちを苦しめつつ根底で支え、日々忘却と沈黙に埋もれていく「関係」を、比喩やイメージの力で新たに築き直すことが出来るのではないか。「関係の病」を昇華させ、治癒さえするのではないか。
  なんどう照子『夜の洪水』(ドット・ウィザード)は、母と子と社会(または世界)との間に張り巡らされる「関係」を、詩の次元へ救い上げることに成功している。母と子を繋ぐ体温、あるいは時に鋭く向け合う感情の刃、不意に社会から浴びせられる冷たさ(それもまた傷を負った他者の涙だ)、そしてすべての関係を未知の物語としてまなざす宇宙──。作者は日常の光景を寓意として、もつれた「関係」を解き放っていく。例えば風呂の水が漏れ、子供たちが床下の住人から叱られた夜を「洪水の夜」と名ざすことで、生命の始まりへさえ遡っていく。
「お母さん/下のおっちゃんがおこってきてん/風呂の水とめるの忘れててん/仕事中に電話してごめん/その夜はなんか 寝られへんかった//水がひいた洪水の夜/親子は寝床の中で/さらさら さらさら/地下の水脈に耳をすませながら/水に流れていく/水はしずかに昂ぶっている//時間をさかのぼり/生のはじまりを/辿るように/しだいに眠る//夜の川の底/水に//なる//まで」(「夜の洪水」)
 季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』(書肆山田)は、父と息子という「関係」を、祖先と子孫への思いを軸に、大きな時空の中で築き直していく。父と息子とは絶対的に結ばれながらも、つねに戦い合う関係なのだ。「父なるものとの闘い、父なるものによる救済、これらは/歌いつがれた重ね書きとして放たれる。」(「聖家族」)また子が父を過去へと追って行けば、必然的に父たちが生きた未知の過去が現れる。作者は想像力を駆使し、死者の息遣い、遙かな風のそよぎまで、自分の知覚そのものとして蘇らせる。例えば「死後硬直した」リュックサックの中の小石を想像の基点にして。
「商社に勤めていた父の赴任先は満州国だった。リュックサックのなかの小石は、螢石の原石で、父は国境沿いにある鉱山との折衝係を担当していた。その頃、白い風をまとい、リラの梢をゆすって木戸をくぐる女がいた。中庭は、一瞬匂ったはずだが、すぐに静まりかえり、その後どのように忘れられたのか。変色した図鑑の切れ端のなかで、リラの記述は干乾びている。」(「薄明」)
 Yukko『欠けたビーナス』(編集工房ノア)の作者は、乳癌で乳房を喪失した。奥付に第一詩集とあるが、詩を書くことで大きな喪失を乗り越えたのだ。作者に、詩を書く「もう一人の自分」が生まれ、悲しむ自分との間にたしかな「関係」を築きえた時、悲しみは光へ向かい始めたに違いない。「欠けたヴィーナス」という鮮やかなイメージを獲得して、闇に蘇生の未来が輝き出したのだ。
「二つの乳房は残してください/代わりに二つ、他のものを差し上げます/彼女は そう言ったに違いない/そして 彼女は両腕を失ったけれど/(中略)/だが彼女の腕が存在し/代わりに乳房がなかったとしたら/彼女はヴィーナスと呼ばれただろうか/(中略)/光が 流れる/欠けたものがあるから/(光の粒がはじける)/輝くものがある」(「欠けたヴィーナス」)

『天秤──わたしたちの空』が電子本になりました!

野樹かずみさんと私による、短歌と詩の共作集『天秤──わたしたちの空』が電子本になりました!
下記URLを御覧下さい。
http://www.kozui.net/bksinkiro.htm

この一集は、世界の不幸に同苦して生き切った哲学者・詩人シモーヌ・ヴェイユへのオマージュ詩歌集です。現在や過去の不幸に対し、歌人と詩人は、ヴェイユの魂への共感の力によって何をうたえるか、うったえられるか──その模索と試みの私たちの結実が、電子本という新たな形でふたたび誕生しました。ぜひお手に取っていただきたく思います。もちろん紙版もまだ在庫がありますので、同じく洪水企画までご注文下さい。

「天秤は(十字架)悲惨なもののほうへはげしく傾く 見捨てられつつ/アッシジのフランチェスコをおもうひとは、それゆえに坂を降りていった//天秤から鐘の音は光のようにあふれだす/いま私たちにこぼれ落ちてくる音の影/石の広場で啄む鳩の声が隠されていた闇の水のように高まる/片隅の地獄によこたわる耳朶は/最後の聴覚で尖塔にかかるラオコーンの雲を見上げた/その紫の苦悶がゆるまり/物陰から差し出されるてのひらの窪みは慈しまれ/夕暮れがくずれる/ひとつの魂が夜を受肉した/あなたがオレンジのように存在する/また坂を降りる みしらぬ愛に包まれた素足で/今日を裸形に明日から昨日へと降りていく/左手に幼な子 右手にスーパーの袋/無垢な魂と売れ残りの硬いパンには 世界を静かに引き降ろす力がある/あなたは身を任せていく」(冒頭部分)

2011年2月23日 (水)

26日は「朝鮮学校への「無償化」即時適用をもとめる大集会へ!

2月26日に朝鮮学校への「高校無償化」の即時適用を迫る集会があります(詳細はこの記事の末尾に下記に転載します。この集会の趣旨に賛同する方は、ぜひご参加下さい)。

なぜこの日なのか? とあらためて過去の新聞記事のスクラップをめくっていくと、鳩山首相の「朝鮮学校除外を容認」という新聞報道がされたのが、ちょうど一年前です。26日の集会もそれを意識しているのでしょう。

その二週間前京都朝鮮中高級学校を見学していた私は、報道に絶句しました。「偏差値教育で生徒と先生の関係がめちゃくちゃにされた日本の学校とは大違いだよね」「すごくまじめに頑張っている、空気の澄んだ素晴らしい学校だったね、なんだかすごく嬉しかったね」と、見学した女性陣で息を弾ませて坂をおりつつ、口々に語り合った感動がさめやらぬ中に、えたいのしれない非人間的な暗黒の意志の存在を私たちは知らされたのです。

それから始まったすさまじい朝鮮学校バッシング。3月初旬の大阪府橋下知事の一連の暴言に、私たちは黙ってはいられなくなりました。

そもそもこの除外問題が浮上したのは、一昨年に朝鮮学校分を含めた予算が決まった時点で、中井拉致担当相が難癖をつけたという事実が、その時は報道もされず、また当時の文科大臣に「教育内容が判断の材料にはならない」と即座に断じられていたにもかかわらず、二ヶ月も経った支給直前に、歯牙にも掛けられなかった中井発言を口実にして、持ち上がった問題です。問題の浮上自体、まったく意図的なものです。

皆さんには、問題がここまでひきずられてきた経緯を振り返ってみて、まるで戦前のような意図がそこに働いていることに、あらためて恐怖を感じていただきたいとつよく思います。

今日も千葉県が千葉朝鮮初中級学校への補助金支出を見送ったという報道が飛び込んできました。その理由も教育とはまったく関係のないものです。

戦前から続く執拗な非人間的な国家の意志。人間を人間に決してならせまいとする意志。

この国はいつになったら人間になれるのでしょうか。
いえ、人間になろうと思い直すのでしょうか。
政府、世間、地方行政機関、メディア、得体のしれない勢力・・・
しかし「あなたたち」も自分自身と向き合うならば、一人一人人間として考え、感じ、生きざるをえない存在でしょう?
その「一人の人間としての自分」に思い至れば、朝鮮学校の子供たちへの共感、自分自身もまた関わるこの国の未来への希望が、おのずと生まれてくるはずではないでしょうか?

今、一人一人がこの国の闇を振り切る力を持たなくてはなりません。それぞれが自立したモラルと未来への希望と自己変革の意志を持つ人間になろうとすることが、今緊急にもとめられています。この国が国家でも世間でもなく、ただ人間であろうとするならば。本当の政治も文化もそこからこそ始まるはずです。

どうか下記の集会へご参集下さい!(チラシはPDFファイルから入手下さい)

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2.26 朝鮮学校への「無償化」即時適用をもとめる大集会

昨年4月に施行された「高校無償化」法から、朝鮮学校だけが「一時除外」されている状態が、いまも続いています。これは朝鮮学校への重大な民族差別・人権侵害であり、またかつての朝鮮にたいする植民地支配と戦争動員や、戦後もつづいてきた在日朝鮮人の民族教育への弾圧といったことと地続きの抑圧であって、絶対に許してはなりません。昨年11月には菅政権が、ようやく始まった適用へのプロセス(審査)を、朝鮮半島での軍事衝突を口実に停止。そしてついには、この「審査停止」への朝鮮学校の異議申し立てに対しても、文科省は「当面は再開しない」と回答しました(今年2月4日)。もはや一刻も待てません。差別的・植民地主義的な政策をとりつづける現政権への怒りの声を結集し、朝鮮学校への「高校無償化」の即時適用を迫りましょう。

2011年2月26日(土)
代々木公園野外ステージ(JR原宿駅から徒歩10分 地図はPDFファイルに→IMG.pdfをダウンロード

10:30~12:30 集会
13:00~14:00 デモ行進

主催 「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会
共催 フォーラム平和・人権・環境

2011年2月22日 (火)

寮美千子さんの詩「ウリナラ ウリマル ウリハッキョ」 

奈良の『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』朗読会に参加してくれた詩人・作家の寮美千子さんが、素敵な詩を書いてくれましたので、ご紹介いたします。

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ウリナラ ウリマル ウリハッキョ 
                           寮美千子

    大和三山は耳成山のふもと
    朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー朗読会の懇親会に参加して詠める詩

ウリナラ ウリマル ウリハッキョ
その夜 わたしは いくつもの言葉を覚えた
教わったのではない
まだ語ることを知らぬ 幼い子どものように
見知らぬ言の葉の渦のなか
母の乳が やさしく体にしみいるように
それは わたしにしみてきたのだ

日本語と朝鮮語のちゃんぽんが
手鞠のように ぽんぽん弾む
ここでは わたしは少数派
スミダ スミダ とテレビで聞きなれた
語尾だけが くっきりと耳に届く
わたしは 目をまん円くして
人々の顔を見つめる
わたしたちとよく似た面立ちのこの人々は
いったい何を語っているのだろうか と

ああなぜ わたしは この言葉に触れず
この人々の仲間の たった一人にも出会わずに 
半世紀を超え 生きてきてしまったのか
話さないでも 生きてこられる世界だった
出会わないでも 生きてこられる世界だった
あなたがたはみな 日本人と顔を合わせ
日本語を覚えずには
生きてこられない世界だったのに

ウリナラ ウリマル ウリハッキョ
ああ ウリ とは わたしたち のこと
教わらずとも わかってくる
わたしたちの国 わたしたちの言葉 わたしたちの学校
ウリナラ ウリマル ウリハッキョ
覚えたての言葉を 舌の上で 転がしてみる
異国の香料の香る 飴玉のように
それは わたしの舌にほのかに甘く
やがて 薬草のようにほろ苦い

遠い遠い時の彼方 この国のはじまりのころ
半島は憧れの地 新しくきらめくものは
みなそこから 海を越えてやってきた
わたしたちは 赤子が乳をむさぼるように
半島の文化をむさぼり 
すくすくと育ったのではなかったか

それなのに 
まるで一人で育ったと思っているドラ息子のように
敬いもせず 感謝することもなく
それどころか 軽んじ 蔑みさえして
あなたがたを 苦しめてきた
その事実さえ 素手で触れることなく
ここまできてしまった わたしなのに 
わたしたちなのに

あなたがたは 笑顔で迎え
ありがとうと 微笑み 涙さえ流し
高らかに民族の歌をうたい 踊りをおどる
その笑い声と歌声の渦のなかで
わたしは 遠い時代のこの島国の人のように
いまだ言葉を知らぬ 幼い子どものように
あなたたちの言葉を覚えては 歓びを覚えるのだ
ウリナラ ウリマル ウリハッキョ
かなしいまでに 美しい言葉たち
いまやっと出会えた
あたらしく なつかしい人々よ!

「山下菊二コラージュ展」をみました

日曜日に、東京からの帰途に、鎌倉の神奈川県立近代美術館別館で開催されている「山下Image1229 菊二コラージュ展」をみました。
新幹線の時刻を気にしながらの40分位の駆け足の観賞となりましたが。
ずっと以前にNHKで紹介されていたこの画家の世界に出会いたくて
ちょっと無理して行きました。

1919年徳島県生まれ、1986年没。
「戦争と狭山差別裁判」というコラージュの連作で知られていると思います。
私もこの作品をテレビ画面で見て、すごいインパクトを与えられました。
今回、ガラスの覆いもない絵から直接、突きつけられるようなひりひりとした画家の危機意識を感じました。Image1228

一作一作から、鋭い言葉がこちらに投げつけられます。
たとえば能面があかんべえをし、骸骨の口封じをしている絵では
「もし死刑がほんとうなら〝善枝ちゃん殺し〟を自白すれば十年で出してやる、と言った。長谷部警視は裏切ったんだからね」
戦闘機の下で首のない天使がダンスをし、遠くの夜空で照明弾が上がる絵では
「善枝さんの姉さんの登美恵さんが、一審の裁判の一年後の七月十四日に、農薬自殺をした」とあります。
そのようにすべて、この裁判の判決がいかにえん罪であるかを、不気味なImage1230 コラージュとの呪いのような響き合いの中で、証そうとしていきます。
コラージュには必ずドイツの木版画の「マクシリアン一世の凱旋」から切り抜かれた図版が貼られています
それが権力者=死神の執拗な魔性を見事に現していて、恐怖を倍増させます。

そのようにこれらのコラージュは怖いのですが
見事な構成と美意識に支えられているために、
恐怖がすれすれに魅惑に変じています。
それでもアート的に遊んでいるという感じはもちろん一切ありません。

山下菊二がこうした権力批判を作品化した動機の奥底には
戦争中に二度にわたり戦地に渡り
中国南部の戦線で日本軍の残虐な行為をまのあたりにしながら
組織の中で何もできなかったことに対する自責の念があるといいます。

そう、これらのコラージュに
中世的なあるいは古代的な恐怖の印象をもたらしているのは
作者が、日本が犯してきた罪業への、被害者の呪いを代弁しているからでしょう。

また山下は、装丁家でもあって
あの新潮文庫の大江健三郎の『空の怪物アグイー』などの顔が大きく描かれた表紙絵も、彼の作です。
木島始の『沼の妖鳥』という詩集も装丁していて、これも今回展示されていましたが、中身と合っていてすごく良かったです。もう入手できないみたいですが。

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