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2011年5月

2011年5月31日 (火)

君が代条例のための戯れ歌

うたが強いられるという。
おのれの歌を奪われるという。
魂が殺害されるという。
理念と理想がひきずりおろされるという。
死者が見せしめにあうという。
言葉がぬけがらになるという。
未来が難破するという。
つまりは現在が果てしなく虚像化するという。

あるいは生きているふりをして時折ぴかぴかひかる死滅が
この社会を、不気味な青白い雪のようにうっすら覆っていく。
生きながら死んでいく大人を脇にして
子供たちもまた瞳と膝頭から急速に老いていく。

やがて生きながら死んで立ち尽くす大人たち。
この世はさむざむとだだっぴろい体育館だ。
空に受け止められなかった歌という歌は
次々するどい氷柱となり
雪げむりをあげて子供と大人の間に突き刺さってくる。

そしてついに死の天使が進み出る。
もっとも死んでいる天使は
死の膨大なエネルギーを眉間に集め
眼は欲望の真っ青な光でみちみちているのだ。

天使はいう。
こどもたちよ、元気がありませんね、
口をおひらきなさい、
おクスリの時間ですよ、
この国のデントウとブンカをまもるために
音符の白い錠剤をおのみなさい、こわくなんかない、
大きな声もでますよ、体の熱がどんどん下がるけれど
やがてきみたちの中の灰色の闇がつめたく燃えるんですよ、
光なんかいらなくなりますよ、
光がなくても育つ、この世の雪がふればふるほど育つ
氷の王子さまと雪の王女さまになるんですよ──

新聞読者の投書を転載「思想を条例で縛る暴挙」

本日の京都新聞朝刊の投書に、今回の君が代起立条例案提出について、的確な意見が掲載されていたので、転載します(お名前は省かせていただきました)。この方も言われているように、君が代について自由に議論が出来ない社会の果ては、必然的にファシズムです。

思想を条例で縛る暴挙
                                                           京丹波町 パート57才
                                       
 大阪府知事と大阪維新の会が「君が代不起立で職員クビ」条例を計画し、府議会に同条例案を提出したという記事が新間に載った。もし仮に、護憲派が大勢を利用して「改憲派議員・職員クビ」と言えば、反民主、独裁となって大混乱は必至である。逆の場合も同じだろう。 
 個人の行動、考え方を「ルール」という形で縛るとき、行き着く先は、硬直した、物申すことのできない社会になるのではないか、という危機感を持つ。
 
 第1次世界大戦後のドイツで、当時、世界で最も民主的と評価されたワイマール憲法の下、極度の混乱と未曽有のインフレの中、内閣は頻繁に交代して社会不安が増大し、それに乗じてナチスの台頭を許した。

 ニューリーダーを求めるあまり、新勢力が台頭して、後で「こんなはずではなかった」と後悔するなら、福島原発を安全と信じて導入た人々の二の舞になる。権力にとりつかれた者に独裁を許すと、ファシズムがやってくる。

 当たり前にもの言える社会を政治の大津波で奪われないようにしたい。東日本大震災の教訓が「リスクの分散」なら、一極集中の権力は大きなリスクを伴うことに、あらためて気付くベきだ。

石川逸子さんが『ハッキョへの坂』の書評を書いて下さいました

6月4日付図書新聞(3016号)で
詩人の石川逸子さんが、『ハッキョへの坂』の書評
「鋭い感性が促した行動から生まれた詩集──朝鮮学校無償化除外反対のなかで花開いたゆたかな時空」
を書いて下さっています。

この詩集が、リーフレットを作った時点からの私の行動から生まれたという観点から、
私の一年余りの活動を追いつつ、作品にも丁寧に踏み込んで下さっています。

詩の世界では、社会の状況に批判的な行動を伴う詩の活動は、政治的だと敬遠されがちで、存在をなかなか認められないのが現実です。理不尽だと思います。だから詩が感性と行動と必然的に連動するものである、と示してくださった石川さんの評は、私にとっても勇気と励みを与えてくれました。

一部をご紹介します。

 あとがきに、「詩とは、言葉の持つ出会いの可能性を、さらにゆたかにいきづかせる時空」であるはずで、「ゆたかな言葉とは、それぞれの真実からあふれ」、真実とは「他者との出会い」あるいは「他者の傷みを感じ取ることで研ぎ澄まされた感受性から摑みとるもの」ではないか、と記す彼女が、出会ったのは、ほかにも尹東柱、シモーヌ・ヴェイユであったり、身近にいて故人となった詩人、あるいは公園の片隅に現れた女性、朝の駐車場のタイヤの脇でゆれる草たちであったりする。

 たしかに、朝鮮学校との「出会い」は、私にとって、真の詩との出会いそのものでした。
 「図書新聞」を書店で手にとって読んでいただければ、うれしいです。

ふくいちライブカメラ

東京電力が福島第一原発1号機から4号機のライブ映像の配信を開始しました。京都新聞によれば「1号機の北西約250メートルの事務本館付近にカメラを設置。1~4号機の原子炉建屋などをとらえた動画を24時間流す。ただし、通信機器を経由するため、現地の実際の動きと映像とは約30秒間の時間差がある」とのことです。「東電の松本純一原子力・立地本部長代理は記者会見で『これだけ大きな事故を起こしてしまった。リアルタイムで(映像を)お届けした方がいいだろう。都合が悪いことが起こったから(配信を)止めるということはない』と話した」。

ライブ映像のURLはhttp://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/camera/index-j.htmlです。

NHK「こころの時代 作家・辺見庸 瓦礫の中から言葉を」の再放送が決まりました

NHK「こころの時代 作家・辺見庸 瓦礫の中から言葉を」再放送(「アンコール放送」というらしいです)が決まりました!
今沈黙を強いられ苦しんでいる者たちに、確かな言葉への出口を与えてくれる番組です。

さらに多くの人が視聴し、真実の言葉の波動が拡がっていくことを願っています。

放送日時は以下の通りです。
6/5(日)5:00-6:00 教育
6/6(月)14:00-15:00 デジタル教育
6/11(土)13:00-14:00 教育

2011年5月30日 (月)

「ハッキョへの坂」書評 サラムとはサラン

5月27日付朝鮮新報に、「ハッキョへの坂」の書評が掲載されました。

さいごに口を閉じる「サラム」(人)と、口を閉じないままの「サラン」(愛)。発音の違いはありますが、私は「なぜ朝鮮語で、「愛」と「人」はこんなに似ているのだろうか」とずっと思っていたのでした。そうか、愛とは人なのです。なんて深く熱い認識でしょうか。李さん、ありがとうございました。

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〈本の紹介〉 「ハッキョへの坂」 河津聖恵詩集
  サラムとはサラン       

                             李芳世(詩人) 

サラム(人)とはサラン(愛)。あかね色の表紙を閉じながらふと呟いた。一篇々の詩が、一つひとつの言葉がすっくと立ち上がり迫ってきた。

詩の芥川賞と呼ばれているH氏賞をはじめ数々の賞に輝き、雑誌の巻頭詩を飾る最も注目されている詩人の素顔は意外なほど質素であった。偉ぶらず、見下さず、生まれたままの赤子のような純粋無垢で、なにものにもこだわらず、恐れず、決して譲らない毅然とした姿はただまばゆいばかりだ。

河津さんはまっすぐな人だ。「朝鮮学校無償化除外」は言葉による暴力と民族差別であると受け止め、広く人々に訴える行動を起こした。昨年4月にリーフレットを出し、7月には朝・日詩人79人によるアンソロジーが刊行された。800部はすぐに売り切れ、増刷した1千部も完売した。

アンソロジーの本は在日文学史に残る貴重な一冊になるだろう。

今日ますます右傾化していくこの国で出版の意義は大きい。

表題にもなっている詩「ハッキョへの坂」は、〝まっすぐかかりやまない重力〟でずしんと心に響いた。朝鮮学校に通う生徒たちを見つめる眼は限りなく優しく、温かく、美しい、それはただ眺め詠うだけではなく、奥へ奥へと分け入り一体化し、詩人自ら一緒に登っている。時代の隠喩である坂は険しく果てしない。だけど子どもたちは〝輝くことそのものにあるよろこび〟に満ちあふれ、〝花ふぶきのように笑い〟坂を登っていく。その先に何があるのかをしっかりと見据えながら…。

河津さんの詩は常に自分と深く鋭く対峙し、幾度か葛藤を繰り返しながら魂の領域に到達したとき、言葉に生命を宿し真実に向かって激しく抗う。そして人間を信じて人間の言葉を発する。詩の元始である「叫び」がこだまする。

時には切ないほどの悲しみに浸り、「美しい女が散逸していく」。また、1人の友に惜しまぬ声援を送る「ムグンファ」。歴史の川を渡る少年に母親のような愛情を注ぐ「サラム」。

詩「友だち」を読みながら〝私は呼ばれていたのか/それとも私が呼んだのか〟という箇所にはハっとした。朝鮮を代表する詩人・李相和の詩「奪われた野にも春は来るのか」の一節によく似ていたからだ。〝遥かな遺伝子が/今もそこへはらはらと流れている〟証なのかもしれない。

詩友・許玉汝と共に文科省を訪れ要請活動を皮切りに各地の朝鮮学校や集会所で開いた朗読会は数えきれない。今も同胞たちを励まし支援する日本の人たちに勇気を与え続けている。

すばらしい人間に出会うより、人間のすばらしさに出会えたことに感謝している。

詩集を手にするたびに聞こえてくる。〝サラムと非サラムとの/希望と絶望との…「これはたたかいである」という声が。

                     (土曜美術社出版販売 TEL 03・5229・0730)

                                           

                                             

2011年5月29日 (日)

さらに「しんぶん赤旗」の記事です。

Image1412 さらに昨日のしんぶん赤旗の記事です。

例えば右のような写真の風景、私もこれまで苦手でした。
時には「あー、またやってる、回り道をしたいな」などと目をそらしたり。

しかし、このような風景が、今やもはや、希有なものになっているはずです。
この国から失われつつある、貴重な人間の風景であるのではないでしょうか。
(記事にも、警官に止めろと言われたとあります、通報っていったい誰が?)

本当は詩人もまたここに立っていなくてはならないのですが。申し訳ない!

大阪府議会に提出 「君が代」起立強制条例案」
撤回せよ 街頭から大宣伝
労働・法律・教育の7団体

 「君が代」起立強制条例反対の共同アピールを発表した大阪労連(全大阪労働組合総連合)など労働・法律・教育関係7団体は、府議会本会議が開かれた27日、府庁前で80人で宣伝し、「条例づくりは許さない」と訴えました。府庁に向かって横断幕を広げ、アピールを配布。通りがかる市民がしばし足をとめる姿がありました。
 自由法曹団大阪支部長の伊賀興一弁護士は「クビになりたくなければ自分の思想信条を捨てろという条例案です。教育内容と無関係のことを強要し、いやならクビにする、公務員をやめよという知事がどこにいるか」と批判。新日本婦人の会府本部の川本幹子会長は「先生たちが管理される学校では、自由にのびのびと自分の意見を言える子どもは育てられません」と訴え、大阪市学童指導員の久松康一さんは「子どもたちは戦争はこわい、いやだと言います。条例案は、こうした、これから学んでいく子どもたちの意欲にはつながらない」と力をこめました。
 宣伝中、警宮が「やめよ」と警告。伊買弁護士らが法的根拠をただしましたが、具体的に示さないまま「通報があった」として強圧的な姿勢をとり続けました。参加者は「とんでもない言論抑圧だ」と怒りと抗議の声をあげました。

2011年5月28日 (土)

本日付「しんぶん赤旗」より 橋下知事の発想は憲法違反

本日付「しんぶん赤旗」に、憲法・教育法に詳しい丹羽徹教授の見解が載っていました。たしかに、橋下知事の条例案提出は、まさに憲法への暴力的な挑戦であり、未来の子供たちの人権の侵害につながる恐ろしい行為です。───────────────────────────────────────────────────────

本日付「しんぶん赤旗」より
「国旗・国歌法」制定時 強制せずを確認
橋下知事の発想は憲法違反

大阪経済法科大学 丹羽徹教授に聞く

 橋下知事は「君が代がいやなら公務員を辞めろ」と言っていますが、憲法を守れないなら、あなたこそ知事をやめろといいたい。
 なぜ憲法か。まず第一に決定的に問題だと思うのは、公務員は憲法を守ることが義務付けられていて(憲法99条)、それに反する行為をすることは義務付けられていないということです。憲法に反する行為については国民が監視する権利があります。ですから、公務員に求められているのは職務の中立性です。職務の中立性というのは、その時々の政治に左右されず、憲法に対して中立であるということです。強制は憲法と矛盾する前提
 そもそも「国旗・国歌法」が導入されるまで起立とか処分などは問題にされていませんでした。「君が代」を歌わないということで思想・良心の自由を侵害したとは言わないし、歌わされることになって初めて思想・良心の自由との関係で問題になっているのです。
 1999年に「国旗・国歌法」が強行・制定された際の国会の議論でも強制しないことを確認しています。強制は憲法と矛盾するという前提があるからです。明らかに政治的に強制を導入してきたのです。そのこと自体が政治的中立違反です。問題を起こしているのは強制を持ち込んだ側なのです。
 橋下知事の発言は、憲法ではなく自分の考えに従う人しか公務員に採用しないということです。時代錯誤としか言いようがありません。公務就任権といいますが、普通に生活を送っている人が誰でも公務員になれる道をひらいています。それを否定しているわけですから、発想自体が憲法違反です。
 次に、学校の先生に免職など厳しい処分を背景に強制するという問題です。
 先生が従うようになると、次は子どもたちへの強制となるでしょう。起立に従わなかった生徒に対してどうしたかとか、生徒の調査書や指導要録に国旗や国歌に対する態度を書き込むとかです。それが生徒への評価の対象になり、結果的に生徒に何らかの不利益を課すことになります。
 起立を強制する条例は、教師個人の思想・良心の自由の侵害だけにととどまりません。児童や生徒に対する思想・良心の自由を侵害する問題に発展しかねません。さらには教育内容への介入につながる危険性があります。
 教育公務員は一般とは区別
 教育公務員は一般公務員とは区別して雇われています。それは専門職だからです。教育公務員としての専門職性とは何か。子どもの教育を受ける権利を具体化する。それは子どもの権利、自由を確保しながら教育を受ける権利を具体的に保障していくことです。専門職として教育公務員に与えられているその仕事をできないようにするのがこの条例です。
 教育行政は、一般行政と違って命令を押し付ける上意下達型の組織ではあってはなりません。教育行政が一般行政から離れたのは、教育が政治的多数などで決めることになじまない営みだからです。
 知事が「公務員なら命令に従え」と口を出すのは教育行政への政治的介入です。知事も特別公務員ですから、憲法を守る義務があります。憲法を守らないでいいと言うなら、憲法を変えるために知事を辞めて政治運動をしたらいいんです。

2011年5月27日 (金)

日本の臍にて苗とたはむる

日本の臍にて苗とたはむる
今日は急遽、田植の助っ人として呼ばれ、日本の臍へ。実際田植えをするのは退職後はこの道一筋の義父ですが、「苗箱を少しトントンとして、土をずらすのが出来ないから来てほしい」という、何のことやら現場に行かなくてはさっぱり分からない要請を受け、出動しました。昨日の電話で義母は、雨が降るから田植えは延期と言っていたのですが、朝「明日から台風だから今日どうしてもやる」と言われ、やむなく緊急出動。しかし田舎に来ると、気分は一新。すでに水の入った田んぼの、曇天を映す水面の拡がりを見ているうち、何だかふーっと気持が穏やかになったのが、不思議です。瑞穂の国に生まれ育った者としての原意識が、風景に触発されていく…ああ、まほろば…。しかし詩的な気分もそこまで。手渡される重い苗箱を、次々「トントン」していかねぱならず、また可愛い苗たちの緑の髪をちょっと引っ張り上げなくてもならず、狭く勾配のある畦で結構泥と格闘していました。田んぼはこの道20年、マシーンを見事に操る義父の一人舞台。うーん、次々点描される苗のラインが、ま
っすぐで美しい…。(慣れないとかなり曲がるそうです。私がやれば、きっとミステリーサークルが?!いえ、冗談抜きで来年からは私が乗るかも…)ともかく、色々こまかな仕事をこなして、田植は無事終了。しかし実際、田植はそこに至るまでの過程が大変なようです。前年秋からの土起こしやら、苗の育成やら、いくつものプレイベントがあってこその、お百姓さんの晴れの舞台です。しかしこれから秋の稲刈りまでの、水の管理や病虫害対策もまた大変。でもそんなお百姓の努力と思いを、遠い都会の政治家がもっと分かってくれたらいいのに。一年でいいから、あの人たちもお米を作ってみたら、日本のお米を大切にするんじゃないかな。

舌もつれと抒情

最初140字で何が言えるとあなどっていたツイッター。
しかし先ほど自分の呟きの数が300を超えたことに気づき、
ちょっと驚きました。
開始してから一ヶ月足らずですが、随分鳴いてきたものです。

先ほども、ひとつ投げこみました。

「かくてわたしは舌もつれしながら抒情するのだ──働きます」。こんな一行を日記にすっと残した中也が好きだ。 舌もつれと抒情。いまその二つが、この世界にはとても足りない。うつくしい雨のように。

引用は1927年4月4日の日記から。
しかしわれながら奇妙なツイートです。
中也を引用してとりたてて何が言いたかったわけでもないのです。
舌もつれと抒情という掛け合わせの火花をちょっと放ってみたくなったのです。
別に特定の誰に向かって放ったわけでもないのでした。

この何がというわけでもなく、誰にというのでもない
というのがツイッターというコミュニケーションのあり方の
不思議な特性です。
他者との曖昧な距離は霧のようで
また霧のようだからこそ
舌もつれと抒情、うつくしい雨などと、恥ずかしげもなく呟いてみたくなったわけです。

しかしじじつとして、舌もつれと抒情は、とても足りない。
今、世界には足りなすぎる。
すらすらとかたられる嘘などいらない。
詩人が舌をもつらせながら、全身を抒情させてうたううたを
私はききたい。
夢の中のうつくしい雨に打たれるように。

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