本日付「しんぶん赤旗」より 橋下知事の発想は憲法違反
本日付「しんぶん赤旗」に、憲法・教育法に詳しい丹羽徹教授の見解が載っていました。たしかに、橋下知事の条例案提出は、まさに憲法への暴力的な挑戦であり、未来の子供たちの人権の侵害につながる恐ろしい行為です。───────────────────────────────────────────────────────
本日付「しんぶん赤旗」より
「国旗・国歌法」制定時 強制せずを確認
橋下知事の発想は憲法違反
大阪経済法科大学 丹羽徹教授に聞く
橋下知事は「君が代がいやなら公務員を辞めろ」と言っていますが、憲法を守れないなら、あなたこそ知事をやめろといいたい。
なぜ憲法か。まず第一に決定的に問題だと思うのは、公務員は憲法を守ることが義務付けられていて(憲法99条)、それに反する行為をすることは義務付けられていないということです。憲法に反する行為については国民が監視する権利があります。ですから、公務員に求められているのは職務の中立性です。職務の中立性というのは、その時々の政治に左右されず、憲法に対して中立であるということです。強制は憲法と矛盾する前提
そもそも「国旗・国歌法」が導入されるまで起立とか処分などは問題にされていませんでした。「君が代」を歌わないということで思想・良心の自由を侵害したとは言わないし、歌わされることになって初めて思想・良心の自由との関係で問題になっているのです。
1999年に「国旗・国歌法」が強行・制定された際の国会の議論でも強制しないことを確認しています。強制は憲法と矛盾するという前提があるからです。明らかに政治的に強制を導入してきたのです。そのこと自体が政治的中立違反です。問題を起こしているのは強制を持ち込んだ側なのです。
橋下知事の発言は、憲法ではなく自分の考えに従う人しか公務員に採用しないということです。時代錯誤としか言いようがありません。公務就任権といいますが、普通に生活を送っている人が誰でも公務員になれる道をひらいています。それを否定しているわけですから、発想自体が憲法違反です。
次に、学校の先生に免職など厳しい処分を背景に強制するという問題です。
先生が従うようになると、次は子どもたちへの強制となるでしょう。起立に従わなかった生徒に対してどうしたかとか、生徒の調査書や指導要録に国旗や国歌に対する態度を書き込むとかです。それが生徒への評価の対象になり、結果的に生徒に何らかの不利益を課すことになります。
起立を強制する条例は、教師個人の思想・良心の自由の侵害だけにととどまりません。児童や生徒に対する思想・良心の自由を侵害する問題に発展しかねません。さらには教育内容への介入につながる危険性があります。
教育公務員は一般とは区別
教育公務員は一般公務員とは区別して雇われています。それは専門職だからです。教育公務員としての専門職性とは何か。子どもの教育を受ける権利を具体化する。それは子どもの権利、自由を確保しながら教育を受ける権利を具体的に保障していくことです。専門職として教育公務員に与えられているその仕事をできないようにするのがこの条例です。
教育行政は、一般行政と違って命令を押し付ける上意下達型の組織ではあってはなりません。教育行政が一般行政から離れたのは、教育が政治的多数などで決めることになじまない営みだからです。
知事が「公務員なら命令に従え」と口を出すのは教育行政への政治的介入です。知事も特別公務員ですから、憲法を守る義務があります。憲法を守らないでいいと言うなら、憲法を変えるために知事を辞めて政治運動をしたらいいんです。


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今日の朝日川柳が橋下知事を「俺が代」と皮肉っていたのは痛快でした。
「国旗・国歌法」の制定は1989年ではなく、1999年の小渕内閣の時でしたね。
投稿: しょうた | 2011年5月28日 (土) 23時46分
私のミスでした。訂正しておきました。ありがとうございます。
投稿: 河津聖恵 | 2011年5月29日 (日) 00時37分
いつも情報をありがとうございます。「維新の会」の彼ら彼女らは、なぜ「国旗・国歌」に対して彼ら彼女たちで、共通なものを持つことが出来るのか、もっともっと考えなければならない、と僕は学ばせて貰っています。{「他者たちとなぜ共通なものを持つことが出来るのか。」僕にとっての難問です。}
なぜなら、個{人}とは不可分なもの、ひとり。個体化・脱個体化の雑種的で力動的な過程は解き難く、いまだ歩まれたことのない新たな関係性の発生であることを、果てなく今日も明日も解き続けねばなりません。「すべては震えている」のに、どこかに何か不動のものがあるかのように同一性を求めて信じようとしてはいないか。人間の存在への思い込み、そのような人間が取り結ぶ諸関係が何よりも恐ろしい。何か土台を求め、誰かが誰かの手段とみなされてはならない。
言語とは、「故郷をもたない放浪者」。何一つ確実でも不動でもない。個にせよ自己にせよ他者にせよ、システムにせよ国家にせよ、意味にせよ。他者との合意はいかに多数であっても普遍性を保証しはしないのに。反面教師として。
投稿: 倉田昌紀 | 2011年5月29日 (日) 17時45分
倉田さん、
御文章が少し難解でしたが、しばらく時間をかけて読むと、見えてきました。維新の会の人々のが、関係性の中で育まれる個体化の過程を経ずに、「共通のもの」「不動のもの」とみえる「同一性」に真っ先に飛びつくことの恐ろしさをおっしゃっているんですね。
すべては「故郷をもたない放浪者」としての言語によって成り立ち、言語の関係性によってうちふるえているのに、彼らは、「職務命令だから歌うべきだ」という「上意下達」という言語の石化を主張しているわけですね。
投稿: 河津聖恵 | 2011年5月31日 (火) 14時10分