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2011年6月

2011年6月30日 (木)

ピョン・ジェス(卞宰洙)講演「安重根と石川啄木」

昨日、大阪・ドーンセンターにて
文芸評論家ピョン・ジェス(卞宰洙)先生による講演「安重根と石川啄木」が行われました。

ピョン先生は、2007年に文藝春秋に載った「プロメテウス」という私の詩を、2009年に、当時朝鮮新報に連載していた「朝鮮と日本の詩人」というシリーズの第87回で取りあげてくれました。そのことを友人を介して知り、お会いしてお話しするようになりました。ちなみにその「プロメテウス」という詩は、植民地時代に日本に留学して、結局はハングルで詩を書いたかどで逮捕され、解放直前に殺されたユン・ドンジュ(尹東柱)に捧げる短い詩で、よくこんな小さな作品を掲載されてから2年も経って、詩の専門雑誌ではない雑誌から見つけてくださったなと、今思い返しても不思議に思います。東柱が引き合わせてくれたのではないでしょうか。

さて、講演は大変刺激的なものでした。

石川啄木は日本の一般的な詩歌の歴史記述では、天才歌人という側面が強調され、その社会性の本当の鋭さ、とりわけ朝鮮との関わりがなかなか見えてくることがなかった。でも今回のピョン先生の視点は、伊藤博文を「暗殺」(しかし実際は、安は義兵を率いていた中将だったので、国際法では戦争の定義に当てはまるので「暗殺」とはいえない)した安重根という存在を切り口に、私にとって、啄木の姿を歌人として社会主義者としてより全体的なものにしてくれた気がします。

ピョン先生の語り口は、とても明確で、声に張りが、話の流れにリズムがあり、すべての言葉がストレートに入ってきました。何よりもそれは、啄木と安に対する敬愛の念が深いからです。とくに啄木について日本人はもっと知って誇りに思ってほしいと訴えられました。在日コリアンの文学者であるピョン先生の感受性のただ中からそう言われ、日本の詩人である私も、心がつよく揺すられました。そしてふいに啄木という存在がいのちをもって、私の中に立ちあがってくるようでした。

砂山の砂に腹ばい
初恋の
いたみを遠くおもい出ずる日

講演の始めの方で、ピョン先生はこの歌を歌曲にしたCDを流してくれました。とても美しい心に染み入る歌でした。

しかし「明星」の浪漫主義から出発したこのような抒情歌人・詩人である啄木はまた、閉塞した日本の時代状況の中で「国禁の書」を読み、「V NAROD! と叫び出るもの」を願う社会主義者でもありました。この観点はなかなか日本では一般的には深くは知られてこなかったのではないでしょうか。

地図の上
朝鮮国にくろぐろと
墨をぬりつつ秋風を聴く

この歌が書かれたのは「日韓併合」が発表された1910年8月29日から数えてたった11日後です。「この反応の早さから啄木が心の奥底から朝鮮の植民地化に反対していたことがわかる」のです。

当時の世界地図は、日本、朝鮮半島、台湾は赤。満州はピンクだったそうです。「日韓併合」を伝える新聞は、朝鮮地図を真っ赤に色塗りして報道しました。啄木はそれを墨でくろぐろと塗りつぶしました。植民地化に対し、そのような歌による抵抗を示したわけです。このような歌をうたうには、当時、どれだけの勇気と覚悟が要ったかと思えば、その意志が分かります。

われは知る テロリストの
かなしき かなしき心を

という詩「ココアのひと匙」の一節に出てくる「テロリスト」を、安重根だとするピョン先生の推論は、歴史的な事実にもとづいていて説得力がありました。

結局啄木は悲惨な死を遂げます。時代の暗黒におしつぶされるように。死の床には半分ほど飲みかけの強壮剤ひと壜があったそうです。そんな効きもしないものにすがりつくようにしながら、若山牧水夫婦などわずかな人々に看取られて亡くなったのです。

中野重治は「啄木の最後の批判が天皇制国家でなければ、これほど悲惨な殺され方をしなかったろう。国家は薄緑色をした何かの幼虫ほどに指先でこすり殺すように啄木を殺した」と書いたそうです。

講演の終わりにピョン先生が聴衆(半分以上が日本人)に訴えかけるようにこう言われたのが、本当に本当に心に突き刺さるようでした。

「啄木のような歌人を生みだした日本人はりっぱです。ただ為政者との闘いで敗北したのです。日本人はこのような悲惨な啄木の死について泣かなければならない。冥福を祈ってほしい。そして現在の日本と朝鮮の関係もぜひ啄木の観点からみてほしい」

一生忘れない言葉です。

そうです。昨今メデイアでくるったように煽られる朝鮮に対する敵視政策の闇に対し、日本人もまた啄木の鋭い歌の精神で、啄木の血を引き継ぐ者として、光を射し込まなくてはなりません。

2011年6月29日 (水)

夏椿

玄関脇の夏椿が今満開です。Image1449
沙羅の木ともいいますが、夕方になると花ごと落花する一日花です。
今年は狂い咲きともいえるほど数が多く、一つ一つが大きいです。
(向かい合わせにある山法師の木もこの春は大きな蝶のような花にまみれました)

今年でちょうど植えて7年目。
病を得てへこんだ時に何か芽の出るものを、と苗を衝動買いしたのですが、
その時、枝に付いていた札にあった「夏椿」という墨文字の
靜かな佇まいになぜか惹かれたことを記憶しています。
どんな花が咲くかも知らずに。

花弁の縁取りと花心の造りがとても繊細で、ふと見入ってしまいます。

初めて咲いたのは私の背丈くらいになった三年目位。
その頃には心もふたたび空を思いだしていました。

2011年6月28日 (火)

共にあるために──朗読会のお知らせです

 来る7/9に、大震災を超えて行くために、そして、無償化実現、助成金の継続を求めた朗読コンサートが開催されます。もちろん、会場は東北朝鮮初中級学校です!

       <ヒムネジャ ハムケ 東北朝鮮初中級学校!>
         2011年7月9日 14時15分開始
1.学生達と共に1年生になったよ(初1)王かぼちゃ(初4)李明玉・高知司

2.イロ教科書から2作朗読
  ①金子みすず作 ふしぎ[初3]           朗読 河津聖恵
  ②阪田寛夫作  夕日が背中を押してくる[初3] 朗読 金子忠政
3.クゴ教科書から
お話  金の斧銀の斧[初3]              朗読 許玉汝

4.歌 私の祖国                     独唱 高知司

5.詩 ①モンダンヨンピル、②友達の花       金敬淑作 朗読 
                          
6.詩 チマのひだ                    康明淑作 朗読
7.二重唱 わが娘ヘ        康明淑作詞   李明玉・高知司 
 
8.詩 ①はだかのウリマル、②1等          李芳世作 朗読
9.詩 ハッキョへの坂                  河津聖恵作 朗読

10.歌 花の歌                      独唱 李明玉

11.詩 しっかり見るんだよ               許玉汝作 朗読     
12.詩 ①菊池正作 海を見に行く  ②金子忠政作 クチヨセ   金子忠政 朗読         

13.学生,同胞と共に 故郷の春(初4)
景色も良いけど暮らしも良いよ(中級教科書)(高・李)

14.バイリンガル詩 これが おれたちの学校だ(中)朗読 河津聖恵・許玉汝  
15.二重唱及び全員で ウリハッキョは 心のふるさと(ヤングムニョ作詞)
  
司会進行 金敬淑、許玉汝
ピアノ伴奏(尹吉順先生)(録音 梁久子) フルート伴奏 金主休

2011年6月27日 (月)

京都国立近代美術展「青木繁展──よみがえる神話と芸術」

昨日、京都国立近代美術展で「青木繁展──よみがえる神話と芸術」を見てきました。Image1454_2
暑さもあり、閉館まで時間もなかったので、一つ一つじっくり見る集中力はやや続かなかったのですが・・・。

しかし有名な大作「海の幸」はじっくり見ました。
1904年、東京美術学校を卒業した青木は
友人たちと恋人の福田たねと連れだって
房総半島の布良海岸で約一ヶ月半滞在した間に
海を題材としたすぐれた作品をいくつも制作します。
「海の幸」もその一つ。

28才で亡くなり、生前は余り世に知られなかった青木ですが
(1882年生1911年没で、私の詩集『新鹿』の表紙装画の原勝四郎より4つ年上)
この大作に取りかかっていたときはすごく興奮していたようです。
私もこの作品は印刷物では何度も見たことがあるのですが
本物は初めて。

縦70.2㎝横182.0㎝の本物はやはり素晴らしかったです。
画面が静謐ながらも躍動感がありとても生き生きとしていた。
ところどころデッサンやグリッドの線描が残っていたりして未完成的でしたが
それも意図されたものという説もあるようです。

裸の男たちが
大きな銛と神の使いのような鮫をかついで
朝日を浴びて行進している。
画面の神話的で古代的な静謐さから
おだやかで力強い波音がきこえてくるようです。

他にも同時期に描かれたモネを想わせるような海の絵の波も
同様に素晴らしく繊細な筆致で、たしかに「目で見る音」を感じました。

群像の中で一人だけこちらを見ている白い顔があります。
かつて印刷物でこの絵を見たとき
何とも言えない胸を打たれる微妙な表情で
こちらに一人だけ気づいている女性はいったい誰なのだろう
と不思議に思っていました。
今回、身体の部分を見ると男性として描かれているのと分かりましたが
顔はたしかに女性のものです。
解説によればそれは恋人でやはり画家のの福田たねだろうとのことです。

二人には子供がいましたが結婚はしませんでした。
その事情は今日読んだ年譜からはよく分かりませんでした。
しかしこの絵の人物の表情を見ると
描く者に特別な想いを持つ存在であることが分かります。
恋人に気づいた女性の顔にしか生まれない微妙な表情。
困惑と喜びと悲しみのないまざった。

しかしこの絵の次の瞬間には
この人物も行進する群像の一員として横を向き
恋人を置いて去ってしまう運命にあるのだと感じます。
運命に捕らわれている者が一瞬、こちらを見て、秘かに何かを告げている・・・。

二人がいなくなってから遥かな未来である今も
(青木が亡くなってからは百年です)
顔はまだこちらを見ているというのが切ない。
この世にもう恋人はいないのに。
あるいは見る者に二人の愛を忘れないでほしいという思いで
私たちに別れを告げているのでしょうか。

2011年6月25日 (土)

6月21日ゲスト講義in横浜市立大学(三・感想篇)

横浜市立大学のゲスト講義の報告のさいごは、学生さんたちの感想をピックアップして締めくくりたいと思います。
たくさんの感想の中からいくつかの、全文あるいは一部分をご紹介します。

「昔、ことばがまだなかったころ、あふれる気持をどう表現したんだろうと考えたことがあります。こわいことをこわいと言い、素敵だと思ったものを素敵だとつぶやき、好きな人に好きと伝えることができる、人類全体のことばって、ほんとうにすごい機能だと思います。
 本日の講義で、その人類全体のことばから氷山の一角のように、私たちの問いかけ⇔応答がなされているという表現が印象にのこったし、なんだかすてきだな、と思いました。
 帰れない場所へ帰ろうとする干し魚、なんだか私はそんな気分です。
 我々はことばというパスポートで様々な世界にとびたてます。
 ただし、しっかりかえってこれる母国をもつことができるし、もつべきですよね。」

「先生は、中上健次さんが植えた水仙を見た時、それが中上健次さんが植えたものと知ったあとと前では、知った後の方がその水仙がキラキラして見えたことをおっしゃっていました。それを聞いて「星の王子さま」の〝大切なことは目に見えない〟という言葉を思い出しました。先生はその水仙から、中上健次さんが精神の病のようなものを抱えながら、小さくてかわいい花などを慈しむ姿や、それらを大切に思う中上さんの想いのようなものを感じられたのではないかと思いました。」

「『言葉の山』の説明などもそうだが、被差別部落の苦しみをぶつける手段として『文学』による言葉を使用したことは、言葉の力強さの証拠であると思う。また、以前にも詩を朗読して下さった先生がいらっしゃったが、詩を作る人には、詩の音やメロディーや流れが見えているんだなと思った。(・・・)詩というのは「曲」として在るのを好まない「音楽」であるのかもしれない。」

「詩というものはありふれた風景を言葉で記憶し、その言葉を紡ぎ出すことで作られる虚構だということを、今日の詩で強く感じた。この詩という虚構の中では、被差別部落という言葉を路地という言葉に置きかえることで、読む側の印象を変え、表現を広げることができるなど、詩の奥深さを知った。」

「『この子と、この子に生きる世界に、稲穂と野菜があまねく行き渡りますように』この中上健次の言葉が心に響いた。なんて温もりにあふれた言葉なんだろう、と思った。また、中上健次が身体を丸めて農作業にいそしむ姿は、私にもある種の感動をもたらした。そのひたむきさのようなものが、私の心を打った。」

「今日の講義で河津聖恵さんの詩を紹介してくれました。外国人の私には、ちょっと難しいけれども、リズムがはっきりしているので、意味はだいぶわかっています。そして、詩として、リズムがはっきりしているなら、理解しやすいだけではなく、とても美しいです。また河津先生の詩は中国の現代の女の詩人と似ていると思います。風景や人を対象にして、読む人は想像しながら、詩人の気持がわかります。とても美しい詩です。」

「詩をよんで、ブログのようだとおもいました。誰によまれているかわからない、よまれることを前提にしていないブログです。(とても複雑で何度もよみなおさないとわからないわけではないけれど、ただの日記でもない。)(・・・)リズムを詩に見出すには、声に出して朗読されることを前提にしている気がします。先生の詩もよんでいただくまではリズムをかんじることはできませんでした。わかりやすいこと、したしみやすいことが、必ずしも内容のないもの、学術的ではないものではないとおもいます。」

2011年6月24日 (金)

6月21日ゲスト講義in横浜市立大学(二)

テーマは「詩を導く土地」。Image1453
旅先の土地で見聞きしたことによって、詩を書いた経験を話しました。

2008年に『新鹿』、2009年には『龍神』を出した経緯。

2007年9月に田辺に住む倉田昌紀さんから
思いがけないオファーをいただいて、
始まったフィールドワークだったこと。

突然宅配便で小包みが来たこと。
その中に私の詩集が何冊かと、手紙と、お菓子が入っていたこと。
手紙にある通り、詩集にサインと言葉を書いて送り返したところ
折り返し電話があったこと。
「ぜひ、僕の好きな故郷である紀州に来て下さい」と
非常に明るい声で誘ってもらい、心が動かされたこと。
(鈴の形のカステラのお菓子を食べちゃったから、と話したところ、ウケたようです)

私はこれまで10冊の詩集を出していますが
その中でもこの二冊は特別であること。

紀州・熊野の自然は
それがどう素晴らしいか分からないくらい素晴らしかった。
その感動を京都に戻ってから言葉の山に投げかけたけれど
京都に戻ってから思いだした記憶の中の紀州・熊野は
現実よりももっと輝いていたこと。
その理由はきっと
それがどこかで言葉を通過してすでに虚構となっているからだ──。

虚構、物語。
私たちの中でそれがおのずと作られている不思議。
そこでは、言葉は自由になる。
意味やイメージの重さから逃れ
リズムを取り、読みやすくなる。

あと観光とフィールドワークの違いなども話しました。

しかし私が一番話したかったのは、「新鹿」について。

1980年アメリカから帰ってきた中上さんが精神的に疲れて
自給自足をしようとしてひきこもった山あいの土地。

熊野市からさらに山の方に入っていって
誰もいない心細い山道やトンネルをいくつもくぐって
散々迷って聖地?を探したこと。
道を尋ねた地元の方が親切にも軽トラックで案内してくれたので
ようやく辿り着いたこと。
海鳴りのきこえる開墾地にぼんやり立っていると
当時中上さんに農業の指導をされた方がたまたま出てきて
作家が植えた椿の木や水仙や柿の木などを指さしてくれたこと。
早春の夕暮れの風にそよぐ花や木を見つめながら
ひととき作家の何かに出会ったような気持になったこと。
巨体をまるめて水仙を植えている姿が幻視されるようだったこと。
その時の何とも言えない風景の記憶から、あとで言葉が次々生まれてきて
二篇の連作「新鹿」になったこと。

そんなことを話した後で
「新鹿(一)」「新鹿(二)」を朗読しました。
あの日の夕闇が濃くなるにつれてぼうっと灯るようだった
黄水仙たちを思い出しながら。
そう、あの黄水仙たちについて話すことができた時
今回の講義の目的が果たせた気持にもなりました。

2011年6月23日 (木)

6月21日ゲスト講義in横浜市立大学(一)

一昨日6月21日、
横浜市立大学の講座「芸術と現代」で、ゲスト講義をしてきました。
タイトルは「「詩を導く土地」──『新鹿』『龍神』を中心に」。
国際総合学科を中心とした一、二年生180名を対象に行いました。

大学一、二年生というと、18、19才。
今の私からすると、生まれたばかりとしか思えないので
どんな内容にするか悩みましたが、
担当の鈴村和成さんから「文学の初心者なので、入門的な話をしてもらえたら」
と言われていたので、
自分の詩についての今の基本的な思いを話したらいいのかな、と思って
他の参考文献や詩人のことは忘れ
詩を書く自分と自分の詩に焦点をしぼって素朴に正直に話しました。

15才の時に書き始めた当初、
教科書の詩を見よう見まねで、もやもやした気持を投げかけるように書いたこと、
学習雑誌に投稿した日々のことから始めました。

それから今詩をどう思っているか。
なぜ、わざわざ普通の言葉で満足せず、詩の言葉で表現したいのか、について。

それは
自分が本当は何を考えているのか、感じているのかは、自分が常日頃意識的に使っている日常の言葉だけでは分からないから、
本当の自分の考えや思いは、恐らく言葉を超えたものだから、と。

そして、言葉の山というイメージについて話しました。
誰しも、どんなに言葉から遠ざかっている人間にも
それぞれ、それなりの言葉の経験があり、築いてきた言葉の山というものがあるはず。
自分の忘れていた言葉もそこにはあるかもしれないけれど、
言葉で生きる存在である人間は誰しも
言葉の山はそれなりに大きい。
だからそこに問いかける。

「自分は何を考えているのか」「この感動は何なのか」「この悲しみや怒りをどうしたらいいのか」。

すると、そこから思わぬ答えが、木霊のようにやってきて
それを聴取した私たちは感性や知性でチューニングして、思わぬ言葉や表現を生みだす。
それが詩の生まれる瞬間であり
詩以外でも、思わぬ表現や的確な表現は
そのように木霊を受け止めることから生まれるはずだ。
言葉の山は、各個人の読んできたり書いてきたり話してきたりした言葉の山であり
それだけでも大分大きいが
しかしそれもまた氷山の一角で
その下には、人類の言葉の山というものが埋もれている。

言葉を発明してからもう何千年、あるいはもしかしたら何万年
人が語ったり、書いたり考えたりしてきた。
そして積み重ねられた言葉の山の根は深い。
それは自分にとってはまだ隠されているけれども
自分の経験した言葉の山の下に必ずある。
そこにも、自分が問いかけた声の響きは伝わっているはずで
きっとそこからもかすかに木霊がきこえている。

みえないそれぞれの山が大きければ大きいほど
そして山への問いかけが真摯であればあるほど
かえってくる木霊はよりたしかな、新鮮な、普遍的な表現へとつながっていく。
受け止める感受性を磨けば磨くほど、聴取力を鍛えれば鍛えるほど。

そしてそれがまた言葉の山をゆたかにふくらませ──。

しかし木霊から自分が摑みとる言葉は
決して難しい言葉あるいは宗教的な言葉である必要はない。
日常の言葉よりちょっと深いところの言葉を掴むことが大切である。
ちょっとだけ日常から外に出た感性あるいは音域でとらえる。
そんな言葉ならば書いていても自分が納得して前に進めるし
人にも伝わるし、何よりも日常の中で新鮮に響く。

と、以上のような話を導入にしたあとで
「日常からちょっと外に出る」ということにつなげて
実際、紀州・熊野という土地をめぐって旅をした経験と
そこから生まれた詩集『新鹿』と『龍神』について話していきました。

2011年6月21日 (火)

6月20日付京都新聞朝刊「原発と国家第2部④東北電も福島に計画」

原発には「おっとり」も、「たけている」もないのですが・・・。建設の背景には、封建社会そのままの日本の実相が存在していました。

6月20日付京都新聞朝刊
原発と国家第2部④東北電も福島に計画

写真は東北電力が計画している浪江・小高町の原発予定地↓ ) Image1451_2

 福島県大熊、双葉両町が原発県建設の熱気に沸いていた1960年代後半、東北電力によるもう一つの原発計画が、隣の浪江町で動きでしていた。
 68年1月4日、知事の木村守江が年頭の記者会見で建設内定を明らかにし、翌日には東北電が発表。実は約7カ月前に町議会が誘致決議をしていたが、多くの住民に計画は寝耳に水だった。
 「相談もなく誘致して許せない」「土地は絶対に売らない」。無視された形の農民らは「反対同盟」を結成。根強い抵抗に、電力や行政側による切り崩しが始まった。
 原発は浪江町と小高町(現南相馬市)に一部またがる約150万平方平方メートルに建設する計画。反対運動にかかわった浪江町の元中学教諭大和田秀文(78)によれば、予定地は、高台の北部と低地の南部に分かれていた。
 「北は入植者が多く、南は先祖代々からの土地で愛着が強い。北が狙いをつけられ、崩された」
 相場の地価より4、5倍は高い額を示され「お土産付きの原発旅行」もあった。「最初は団結していたが、懐柔工作は強まった。飲ませ食わせ、あとは金。土地の売却を約束すると、役場や東北電への就職の日利きもあった」と大和田は話す。
 40年以上たった今、ほとんどの地権者が用地買収に同意した。しかし一部の根強い反対に、いまだ買収は終わらない。
 対照的に、東京電力は80年代までに、浜通り地方の沿岸に第1、第2原発合わせ10基の原子炉を並べることに成功した。
 「おっとりと構えている東北電と比べ、地権者対策にたけていた。強引に説得し、狙った獲物は逃さない」。浪江町の町長馬場有(62)が両社の社風の違いを説明する。
 立地は順調だった東電だが、運転開始後は放射性物質を含む廃液漏えいなど多くのトラブルが明らかになり、地元対策の中心は「利益誘導」から「不安解消」に移る。
 「東北大卒の医師が第2原発の建設に反対したときは飲み屋の2階で説得した。5、6回会って『おまえがそんなに言うなら間違いないだろう』と最後は納得してくれた」。元東電副社長の豊田正敏(87)は振り返る。
 公民館での説明会に住民を集めるため『男はつらいよ』を上映したことも。原発の所長経験者は「住民は技術面を理解して安全だと納得するわけではない。日ごろ酒を酌み交わし『所長が言うから大丈夫』という信頼を得てきた」と胸を張る。
 大熊町の元原子力担当課長も東電を信頼していた。77年、ノズルのひび割れが相沢ぎ、立ち入り検査に立ち会った。何十センチものひび割れを間近に見たが、社員は「表面だけで、修復は可能です」と事もなげに言った。
 「ああそうですか」としか返せなかった。元課長は「専門的なことになると分からない。大丈夫ですと言われれば、大丈夫と思うしかない」と自嘲気味に話す。
 専門用語を振りかざし強調される安全。ある住民は「催眠術のようだった」と語る。「安全神話」が深く浸透していく。
 大震災の後、東北電は浪江町の計画を「検討中で未定」としており、白紙となる可能性も。しかし、馬場は避難先の二本松市にある臨時役場で言葉を選ぶ。「議会の決議もあるし土地を提供した人もいる「軽々には結論は出せない」。いまだ迷路の中をさまよう。(敬称略)

2011年6月19日 (日)

interview 詩集「ハッキョへの坂」(「月刊イオ」7月号) 

「月刊イオ」7月号に掲載された「ハッキョへの坂」についてのインタビュー記事です。取材・編集して下さったのは、編集長の琴基徹さん。Image1450

interview 詩集「ハッキョへの坂」 作者・河津聖恵さんの詩への思い

 昨年2月に朝鮮学校の授業を見学した後、朝鮮高校は除外する方針だという新聞記事が出たんです。それを見て、ショックというか、これはひどいという気持ちがありました。自分自身が悲しく、とにかくこれを誰かに訴えたいという気持ちが先に立ち、書いたのが「ハッキョヘの坂」です。3月19日でした。生徒たちの印象とそれに対する日本社会の罵声、そのギャップに、ただただ、これはひどいという気持ちでした。
 この作品は、朝鮮学校を訪ねたときのことを思い出して書きました。時間を追うように書いています。私の作品はこういふうに時系列的に書くものが多いんです。

「春の光に梢が煌めく/うれしそうに鳥たちがやってくる/鳥たちを呼ぶのは/輝く木のよろこび/光の 輝くことそのものにあるよろこび/長い冬にたえてすべてが輝きだした」

 イメージなんですが、春の光がきらめいていて鳥の鳴き声がしていた。桜は咲いていませんでしたが、少女たちから桜が降ってくるというイメージが生まれたり・・・。
 最初は、断定形で書いていたんです。「靴も履いて間もないだろう」というふうに。しかし、それだと詩が途中で途切れて続かなくなってしまいました。どうしようかなと思って、じゃあ想像なので疑問形にしたら詩の情景が軽くなるかな、自由になるかなと思って、疑問形にしたら書き続けられました。こういつ手法は初めてでした。

「この朝も/あなたはハッキョヘの坂をあゆんでいく/雨あがりなのか/靴はちょっと汚れたか/靴はまだ履いて間もないだろうか/桜舞う頭か/きれいにといた髪に/なつくようにまつわる花びらを/後ろから見つけたトンムは/オンニのように笑って肩を叩き/つまんで見せてくれるだろうか」

 この作品を書いた後に、許玉汝さんら在日コリアンの詩人たちと出会います。「ハッキョヘの坂」の最後に、日本人の高校生としての「もうひとりのあなた」を登場させましたが、これは自分のことでもあるのではないかと思っています。

「麓からたちのぼるざわめき/静かな高台のハッキョで/歌のようなウリマルを話すあなたを知らないまま/黄砂でかすんだ地上のグラウンドで/もうひとりのあなたは/携帯電話を片手に佇んでいた/風に肩を叩かれて/ふと透明な日本語を喋りやめふりむけば/ひらひら舞いおりながら/こぼせない涙のようになかぞらをたゆたう不思議ないちまいの花びら/もうひとりのあなたは/思わずてのひらを差しだし/花びらを受け止めまだ見ぬあなたに出会おうと/爪先立ちになる」

 玉汝さんもそうですが、同時並行的に生きていて、お互いに知り合ってはいないけれども、何か自分と共通の魂をもっている人が、民族は違っていてもどこかにいる。それは人間としての希望です。純粋な魂を持っている。そういう人が朝鮮学校の卒業生には多いと思うんです。そういう人たちと出会う、これから出会う可能性があるというのは、日本人にとって希望なんだと思います。
 それまで日本社会に対して何か違うなという意識があったからこそ、詩を書いてきたわけです。詩でしかあげられない声があって、そういう下地があったから無償化の問題に触発されたんだなと思います。例えば沖縄の問題など、当事者の声を聞いたことがありませんでした。だから抽象的というか、関心がないわけではないけれど、身体で入っていけないところがありました。無償化問題は、生徒や先生の姿を実際に見て話を聞いたりしました。その声がすごく響いてきた。だからすごく自分の身体で入っていけました。
 詩は、日常の言葉では伝えきれない、散文的な言葉では言えない、そういう思いを伝えるための手段としてありました。散文やエッセイだと、書いている内容が先に立って、何が書いてあるのかなと、頭の中で読み手に整理させてしまう。しかし詩は、頭を整理する前に、余計な理性や先入観とかが働く前に、読み手の意識、無意識にダイレクトに浸透する力をもっているんじゃないでしょうか。詩の魅力は浸透力ですね。
 言葉には二つあって、自分だけが良ければいいというデマゴギー的な言葉は人と人を切り離していきます。もうひとつは普遍的な言葉。人と人をつなげたり、人に関心をもったり、人と出会おうとしたり、そういう言葉です。文学は普遍的な言葉を扱います。言葉を普遍的にするのが文学の役割なのだと思います。文学の使命はこれからますます大事になっていくでしょう。人がそれを読んだときに、こういう言葉もあるんだ、ネット上や学校では見たことがないような胸のすく言葉もあるんだと、一つの希望を見せ続けるという使命です。
 高校無償化の問題だけでなく、大阪の橋下知事が「君が代起立条例案」を通し、それに従わない教師を首にしようとしています。ますます自分の歌がうたえない時代になり、自分の主張をもっている人は、排除されていく風潮が強くなっています。文学が何かを直接変えるのはなかなか難しいですが、片隅から火をつけていきたい。 一人ひとりがもっと力を蓄え声を出し続けていかなければいけないと思っています。

劇団タルオルム第六回公演、マダン劇「我が家のイヤギ」

劇団タルオルム第六回公演、マダン劇「我が家のイヤギ」をみてきました。Image1438_2
会場は、なんと中大阪朝鮮初級学校運動場。

昨年はあの「金銀花永夜」で大感動したタルオルムのマダン劇です。
マダン劇とは観客が舞台を囲んで、演者と観客が声を掛け合う劇。

しかも今回は、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』の共同編集者の許玉汝さんの
在日二世としての生い立ちを素材に作られた劇とあって、とても楽しみにしていました。
許さんは『アンソロジー』の詩「ふるさと」でも
朝鮮学校が心のふるさとであるというテーマで、生い立ちをうたわれ、
大きな感動を呼びました。

けっこう本降りの中、どうなるかと心配していましたが、
大勢の観客も来ていて、決行となりました。屋台も出ていた。
観客は傘をさしカッパを着て、
出演者はびしょぬれになりながら。
しかし観客席からはかれらにだけ雨が降っていないようにも思えました。

ヒロイン・オギを演じる金民樹さんが大活躍。
いつもながら凄いバイタリティーでした。
テンポ抜群の展開のタルオルムの劇は、とにかく情熱的、エネルギッシュ。

スポットライトに雨に煌めく演劇の時間は幻想的でした。
青森、北海道、東京、京都、大阪と移り住む
許さんとその家族の歴史と朝鮮学校への思いを
団員が心を一つにしてうたいあげていきました。
実際ホンモノの朝鮮学校を大道具に使った臨場感は素晴らしかったです。

朝鮮学校がテーマの作品からはいつも歴史のことを色々教えられる。
とりわけ今日は朝鮮籍という国籍のあり方にこめられた三つの意味を
知ることができました。

帰ってくると月刊「イオ」7月号が届いていました。
詩集『ハッキョへの坂』をめぐっての私のインタビュー記事が載っています。
インタビュアーの編集長琴基徹さんの話の引き出し方がうまかったので
訊かれなければ言葉に出来なかった
朝鮮学校を主要なテーマとするこの詩集への私の思いが
とてもうまく整理されまとまった形になっています。

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