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2011年7月

2011年7月31日 (日)

長谷川櫂『震災歌集』

長谷川櫂『震災歌集』。Image1464
3.11から12日間よみつづけた短歌をまとめたもの。
「不安と混乱の日々」を、短歌という形式において発揮される
日本語の根の力、底力で受けて立った記録集です。

長谷川氏は俳人。
しかし震災の破壊を目の当たりにして生まれてきたのは短歌。
それがすごく面白い。

「そのとき、私は有楽町駅の山手線ホームにいた。高架のプラットホームは暴れ馬の背中のように震動し、周囲のビルは暴風に揉まれる椰子の木のように軋んだ。
 その夜からである。荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあがってきたのは。私は俳人だが、なぜ俳句ではなく短歌だったのか。理由はまだよくわからない。『やむにやまれぬ思い』というしかない。」(「はじめに」)

「荒々しいリズムにで短歌が次々に湧きあがってきた」。
自然の暴力によって、人間の文化や言葉の「バベルの塔」が崩れるのを目の当たりにしたことで、、
原初的な短歌の脳の部位が刺激されたのでしょうか。
それはきっと、かつてそこから挽歌や相聞歌が生まれてきた部位。
短歌とは、叫びに近い言語野の部分から生まれるものなのでしょうか。
だからなのか、いくつもの歌にはおのずと神話的なイメージも呼び起こされています。
とりわけ原発の歌に。
(短歌の著作権については分からないので、引用は少しだけにします)

「その母を焼き死なしめし迦具土の禍々(まがまが)つ火の裔(すえ)ぞ原発」

また首相や閣僚をきちんと名指しで批判しているのもいい。
「うったえる」という原義を持つという歌の本領発揮ですね。
こういうのを、俳句でやると川柳になってしまうのではないでしょうか。
(時実新子さんの『わが阪神大震災』は素晴らしかった。)

そして恐らく短歌だから
無数の死者と生者の代わりにうったえるという壮大なスケールが生まれたのではないでしょうか。
 
「かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを」

「みちみてる嘆きの声のその中に今生まれたる赤子の声きこゆ」

うたの古代に根を下ろした日本語に、喪の灯は美しく揺らぎ、蘇生への意志が煌めいています。

2011年7月30日 (土)

北島理恵子『三崎口行き』(ジャクション・ハーベスト)

北島理恵子さんの『三崎口行き』(ジャクション・ハーベスト)はImage1463
とても素敵な詩集です。

最初に序文の代わりに短い詩が置かれています。

遠景

わたしたちは
生まれる前の、海の水面のきらめきの話をする
幼い頃布団の中で見た、怖い夢の話をする
いまここにある
かなしみは話さない

「いまここにある/かなしみは話さない」
それは人の生における不文律の礼節とでもいうべきものです。
いまここにあると互いに分かっているからこそ話さない。
それは、怯懦というよりお互いに対する優しさであり
それこそが
ひととひととの関係をゆたかにしているものであることを
この詩人はよく知っています。
この人の詩は
「かなしみは話さない」という関係のあり方を撫ぜるように描きだします。
事物や光や風や音を
ことばに溶かすようにして柔らかく象徴化することで
自分と他者とのかなしい距離を
詩でしか描けない角度からとらえようとします。

ひととひととの間にじつは今も昔も存在する
ゆたかな「関係」の空気。
それをこの詩人は
ことばとことばを、まるでひとのようにゆたかにつなぎ、関係させることで
ことば自身におのずと語らせていくのです。

ことばとひととの共生感覚をもたらす、ゆたかでひらかれた詩、
ことばとひとの恋愛のような、ときめきをもたらす詩がここにあります。

Fade Out

うす暗い図書館のいすに座っている

左肩のあたりがあたたかい

机の上の白い紙に
見覚えのある
いくつかの地名が一列に書いてあって
あいだとあいだを
細い矢印がつないでいる

わたしのと
わたしのよりもすこし太い
人さし指が
いっしょにそれをなぞっていた

ゆっくりと しかし同じ速さで

〈よく憶えている、この場所〉

指した先には
かわらず
あかるい やわらかな光が
当たっている

ずいぶんと前に
わたしたちを照らした
同じ その光に
もう一度だけ守られて
ひととき
〈永遠のように〉
そこにいた

〈確かに わたしたちが生きていた場所だった〉

あと数分だけの 肩と肩

矢印が
薄くなって
そのあとを追うように
二本の指は一本になっていった

しずかに
白い紙ごと
Fade Outしていく

小さな声で 少しずつ
言い聞かせてくれる

そんな
やすらかな
おわり

2011年7月28日 (木)

7月24日丹波マンガン記念館見学

先週の日曜日002
京都市右京区京北町にある丹波マンガン記念館に行ってきました。
左京区からバスで約一時間半。
丹波の山の奥にその記念館はありました。

昨年11月、韓国のユン・ドヒョンバンドが行った
記念館の再建チャリティーコンサートに行って以来、
訪れてみたいとずっと思っていました。
今回、小さなツアーが組まれると知って、参加しました。

戦前から戦後にかけて
丹波高原から京都北山一帯に約300のマンガン鉱山がありました。

マンガンは鉄を硬くするのために必要な鉱物です。
アジア太平洋戦争中、大砲などに使う鉄の増産にマンガンは欠かせませんでした。
(他にビール瓶の硝子の色づけ、乾電池、など けっこう身近に使われます。)

マンガンの採掘と運搬の仕事は
多くの朝鮮人と被差別部落の人々が担っていました。
戦争中には、強制連行された朝鮮人が一部の鉱山において働かされていました。

前館長は実際マンガン鉱山で働いていた李貞鎬さんです。
苦しい生活の中、在日朝鮮人の原点を伝え残そうと
記念館を家族で手作りで作ったそうです。
しかし李さんは苛酷な鉱山労働のせいでじん肺になって亡くなりました。
その後、息子の李龍植さんに引き継がれました。
けれど行政からの援助は一切ないままでした(朝鮮人でなければ援助したのだけれど、とも言われたそうです)。
毎年多くの赤字を出し、20年目の2009年一時閉館を余儀なくされました。
しかし今年6月、再開を待ち望む声に後押しされ、再スタートを切りました。

まず労働者が暮らした「飯場」を見学しました。
3、4畳ほどの狭いスペースに何十人も寝起きしたそうです。
こまかく食事の内容まで丁寧に再現されていました。
隙間だらけの木の小屋は、
どこかドイツで見た強制収容所の空気を思い出させました。
あちらは石造りでこちらは木造りですが、
たしかに空気には非人間的な暗さと重さがあり
まだ癒えていない時の気配を感じました。
食事係のとても美しいマネキンの女性がこちらをじっと見ていました。
山には高さも幅もやっと人が入れるほどのいくつもの坑道口がありました。
実際、坑道の中に入りました。
中は上も下も迷路で、立ち入りが出来ない部分も多く
山の中に走る果てしない蟻の巣を想像させました。
ほとんど動力もなく手動で石を運んだそうです。
進むにつれ石の種類が変わる壁に触ると
地下水が染みていて冷たく、けれどたしかに人に掘られた滑らかさでした。
労働者マネキンたちが何体も今にも動き出しそうに生々しく
運搬や採掘のポーズを取っていました。

・・・・・・
この記念館を見学することで、強制労働の実際の現場を想像でき    Aut_1973
これまで抽象的だった在日朝鮮人の歴史が肉感的なものになった気がします。
しかし日本にはこのような加害の歴史をとどめる記念館は
私的なものはいくつかあっても
政府や行政からの公金で建てたものは一つも存在しません。
これは倫理的にという以前に、精神的また文化的にすごく貧しいことだと思います。
かつてドイツでダッハウやザクセンハウゼン(右写真)の記念館を訪れた時のことを思い出すのです。
そうした記念館は政府と国民が主体的に建ててきたもので、きちんと生々しい展示もしています。
そして多くの国民が見学に訪れています。
ノイエンガンメ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼン、ダッハウには記念館、
追悼施設や慰霊碑は1000ケ所といいます。
2005年には殺害された600万人のユダヤ人の追悼のために
ベルリンの中心部に広大なモニュメントを建てたのは有名な話です。
そのようなドイツの姿勢は
加害者側にとって
加害の歴史の喚起こそが大切であることを教えてくれます。
それは過ちを繰り返さないためだけでなく
自分が属する共同体の真の姿にすべて向き合っておくことこそが
人間にとって自己探求の精神を触発するからなのです。
自分という坑道を掘り進むことの大切さを彼国はよく知っています。
日本は、共同体という自分自身を主体的に成長させることの
素晴らしさを知らないまま、歴史と自身の坑道を閉ざしています。

ツェランと原爆

アウシュヴィッツの悲劇をうたったユダヤの詩人、
パウル・ツェランが原爆の詩を書いていたのは余り知られていないと思います。
(ツェランの生涯などについてはこちらをご参考下さい→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%B3)

ツェランの詩には「迫る光」というキーイメージがあります。
それは死の世界と思われる彼方から、吹きつけてきて
この世のものをすべて石と化してしまうメドゥサのような光線です。

しかしこの光はじつは原爆の閃光でもあったのではないか、と今思っています。

石、盲目、死者たちのまなざし、雪、氷、発光する生き物、無機的な事物、気化する海、血、飛翔する小石たち・・・
詩にあふれるそれらのイメージもまたすべて原爆のものだとしてもおかしくありません。
言い換えれば、原爆もアウシュヴィッツも
史上最悪の人間による人間の破壊であり、
どちらも同じ極限的な狂気の光に集約されていくのではないでしょうか。

あるいは両親を強制収容所で殺され、みずからも苛酷な労働収容所体験を持つツェランは、
戦後間もなく原爆について聞き及び、
そして原爆がアウシュヴィッツと同じ人間の狂気の果ての出来事だと直感したでしょう。

次の作品はアラン・レネの『広島モナムール』の公開や、原子力についての国際会議の開催(1956年から58年)など、またフランス国内でも核戦争や核兵器についての話題が世論を賑わせていた頃の1959年に上梓された詩集に収録された作品です。
難解な作品ですが、全体に「白くて軽く」ひしめく光は、放射線がもたらす死の光ではないでしょうか。

「白い」そして「軽い」
                                           パウル・ツェラン(中村朝子訳)
                                           
三日月型砂丘、無数に。

風隠れで、千倍に──お前。
お前と、そして腕、
それでぼくは むき出しのまま お前に向かって伸びた、
失われた女よ。

光線たち。それらは一団となってぼくたちに吹き寄せる。
ぼくたちは その輝きを その苦痛を その名前を身にまとう。

白く、
ぼくたちに兆すものが、
重さを持たず、
ぼくたちが交わすものが。
「白い」そして「軽い」──
それをさまよわせよ。

遠いものたち、月に近く、ぼくたちのように。それらは築く。
それらは岩礁を築く、そこで
さまようものは砕ける、
それらは築き
続ける──
光の泡と飛び散る波と一緒に。

さまようものは、岩礁がこちらへ合図を送って。
額たちを
合図して呼び寄せる、
ぼくたちに貸された額たちを、
映すために。

額たち。
ぼくたちはそれと一緒にあちらへと転がっていく。
額たちの岸。

お前は眠っているのか?

お眠り。

海の挽き臼がまわる。
氷の明るさで 誰にも聞こえず、
ぼくたちの目のなかで。

2011年7月27日 (水)

言葉と戦車

ノルウェーでの凄惨なテロの詳細が分かるにつれ
私の中でも大きな衝撃が拡がっています。

被害者を有無を言わさず二度撃って確実に殺害したこと、
対岸の住民は1時間半もの間、数え切れない銃声を聞いたこと。

私はアウシュヴィッツなどの強制収容所での
ナチスによる「囚人」たちの虐殺を思い出しました。

ナチスは確実に殺すために「うなじ撃ち」をしたといいます。
そして収容所の解放前に何日も間断なく
銃声が止まなかったと周辺住民も証言しています。

私もドイツやポーランドで記念館となっている
いくつもの強制収容所を訪れたことがありますが
そのたびに暗く重い気持になりました。
話には聞いていても、いざ証拠物件である遺品の山を見たり
暗いガス室のひんやりとした空気の中に入ると
「いつ、歴史が繰り返すかもしれない、自分の身に起こるかもしれない」
と肌身でぞっと感じたものです。

たしかにナチスドイツの記憶を風化させまいという
主体的意志のつよいヨーロッパは
外国人差別に対しては市民レベルでも
確固たる反対運動が根強く存在しつづけています。

しかしベルリンの壁崩壊以降、外国人に対する空気は変わりました。
その前後に訪れた私もそれはたしかに感じました。
さらに9.11以降は、移民や異民族に対して
市民の無意識には生体反応ともいうべき恐怖が拡がっているはずです。

極右の動物的で陰惨な嗅覚はそこにつけ込み、魔手を伸ばしているのです。

悲劇のあった島ではきっと
若者たちはそんな社会の空気を変えたいというそれぞれの思いについて
語り合っていたことでしょう。
交わし合うことばの一つ一つには真剣な陰影と共に
新鮮な未来の予感が輝いていたでしょう。
その輝きを残忍な犯人は憎んでいたはずです。
憎悪の対象である普遍的なことばの存在に対し
暗く物質的な武器の力で押しつぶす欲望に身を踊らせたのです。
9.11以降の世界は何という悪魔を生み出したのでしょうか。

しかし、犯人は決して勝利しない。
「これはノルウェー にとって“新しい感情”なんだ」(容疑者の車を襲おうとした男性)。若者たちは死者のために、未来のために考え抜き、
この世界を生き抜くため新しい感情を必ずことばにするでしょう。

加藤周一さんの「言葉と戦車」から引用します。

「言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することができない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものをみずから正当化することだけはできないだろう。自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。すなわち相手を沈黙させるのではなく、反駁しなければならない。言葉に対するに言葉をもってしなければならない。一九六八年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。その場で勝負のつくはずはなかった。」

2011年7月25日 (月)

『環』(藤原書店)46号に「詩獣たち(三)・幼獣──中原中也」を書いています

『環』(藤原書店)46号に「詩獣たち(三)・幼獣──中原中也」を書いています。Image1462

この連載の趣旨は
「詩獣たち」というタイトルが表しているように
詩人を現実や世俗や時代によって負わせられた傷の中から
うったえ、うたう「手負いの獣」として「捕らえる」ことです。
そして詩を、そのような獣たちの「うた」として聴き取ることです。

毎回、かなり場当たり的に書いていますが
不思議なことに私が愛する「獣たち」はすべて
詩作品に「獣」というセルフイメージを残してくれているのです。

第一回で導入的に触れた尹東柱も、パウル・ツェランも。
第二回のアルチュール・ランボーも。
そして今回の中原中也もこんな詩を残しています。

黒い夜草深い野にあつて/一匹の獣(けもの)が火消壺の中で/燧石を打つて 星を作つた。/冬を混ぜる 風が鳴つて。//獣はもはや、なんにも見なかった。/カスタニェットと月光のほか/目覚ますことなき星を抱いて、/壺の中には冒瀆を迎へて。/(二連略)/黒い夜草深い野の中で、/一匹の獣の心は燻る。/黒い夜草深い野の中で──/太古は、独語も美しかった!……(「幼獣の歌」『在りし日の歌』)

「幼獣」は、詩人自身です。
太古の黒い夜の草はらの火消壺の中で
小さな星の火花を散らす詩獣は、孤独な魂の燧石を打ち
うたをけなげに蘇らせようとするけもののこども。
そして蘇るうたは、太古の闇におびえるようなきれぎれの火花です。

そのような聞き届けられないうたの火花こそが
幼獣中也の詩なのでした。
明治期からの詩の変遷との関わりの中で
中也が選んだうたのけもの道を
私なりに共鳴しながら描き出しました。

多くの方に本を手に取っていただければ、大変嬉しいです。

なお今号の特集は「東日本大震災」。
後藤新平の会を主宰し、沖縄の自治などを提唱してきた『環』のスタンスでの震災特集は必見です。
被災地の短期連載として今回は石巻の人々の声も聴くことができます。
この震災を問うことは私たち自身を問うこと、という主張がこの一冊にはみちています。
各所に挟み込まれた市毛実さんの、とりわけ被災地のモノクロ写真は、つよい霊性さえ感じさせて素晴らしいです。

2011年7月24日 (日)

ふるさと

昨夜NHKスペシャル「飯館村・悲劇の100日」をみました。

飯館村は当初は避難区域に指定されず、住民は村に残りました。
しかし、実際は村の土壌は高濃度の放射能に汚染されていました。
四月になってようやく国によって計画的避難区域に指定されました。

阿武隈山地に位置している、農業が基幹産業の村。
30年前冷害で被害響を受けてからは畜産業に力をいれ、
努力して「飯館牛」をブランド牛にまで育てました。
有機農法で野菜や米を丹念に作り、都会へも売り出していました。
その矢先の、福島第一原子力発電所の事故です。

村人は皆、突然奪われたものの大きさに、茫然としていました。
悲しみと諦めと怒りのないまざった表情と声音から、苦悩の底知れなさが伝わってきました。
見ていて、胸がえぐられるようでした。
有機農法の農家の奥さんの、凍み大根の袋の山を叩きながら
ちっとも売れない、事故の前に作ったのに、という嘆き。
25年の間、交配を繰り返して、作りだした大切な素晴らしい牝牛を
ついに手放し、嫌がる牛を何とか乗せたトラックを見送っていた酪農家のまなざし。
家族がばらばらになる前夜、アルバムを見て回想する家族。
農業を辞めて、原発からほど近い東京電力の火力発電所で働くことになった青年の
原発に行く車を見ながら
原発で働く人はいっぱいいる、と自分に問いかけるようにこぼした呟き。
村の最後のお祭りで、最後に顔を合わした村人たちの淋しそうな姿。

飯館村は、映像で見るだけでも、どれだけ美しい村であるか分かりました。
緑と水の煌めきが、本当に痛切でした。
原発は、途方もない罪を犯したとあらためて思います。
ひとから、ひとがその自然と共にそこで生きてきた場所、ふるさとを奪うことは
そのひとの命を生きながら奪うことにもひとしいのではないでしょうか。
村人たちは都会の避難先で、奪われた緑や水の煌めきを毎晩夢に見るでしょう。
そして見るたびに、目ざめてから辛い涙を流すでしょう。

ところで『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を出してから
早いものでそろそろ一年になります。
同書を一緒に共同編集し
ご自身も自分の半生を叙事的に描いた「ふるさと」という作品を寄せた許玉汝さんが
仙台の東北朝鮮初中級学校での朗読会の翌日の7月10日
生まれ故郷である青森県平川市碇ヶ関を初めて訪ね、
現地の方々の尽力で、自分の生まれた場所を探し当てました。
許さんは記念として連作「生まれ故郷碇ヶ関を訪ねて」を書かれましたので、
「ふるさと」を読まれた方はぜひご一読下さい→kinenshi.PDFをダウンロード
日本で生まれた在日コリアンにとって故郷が二つあることの悲しみと喜びに
私も想像を馳せたいと思います。

2011年7月21日 (木)

7月20日付朝鮮新報文化面書評「闇の中でなお美しい言葉の虹──辺見庸『水の透視画法』」

■7月20日付朝鮮新報文化面書評■

闇の中でなお美しい言葉の虹──辺見庸『水の透視画法』
                                                                 河津聖恵
 
 本書に収められたエッセイの大部分は、2008年から2011年まで共同通信社配信で全国各紙に掲載されたもの。折々の時事的な話題や日常に触発され書かれた。著者の言葉には固有の鋭敏な論理と深い響きがあり、読む者が今抱える言葉にならない闇に巧みに微光を当て、言語化のためのヒントを与えてくれる。この本は今言葉と最も誠実に向き合う書き手による、「わたしという、よるべないひとりのこころが、読者という、よるべないひとりのこころに、か細い橋をかける行為」の結実である。
 今二つの闇がせめぎあう。一つは、資本の非倫理的な力がうすっぺらな悪を蔓延させる、透明で虚無的な闇。もう一つはこの世の奥から暗い川のようにひそかに流れ込む、いのちの闇。私たちが今生きる世界は、前者が席巻するかに見えて、じつは後者にこそ凝視されている。著者の筆致はそのせめぎあいの脈動を伝える。著者の世界への絶望感は深い。だが言葉を差し入れられ、闇は各所でヒカリゴケのように未知の希望を孕み光り出すのだ。
 著者の世界や社会についての認識は、まっとうで鋭い。「この世界では資本という『虚』が、道義や公正、誠実といった『実』の価値をせせら笑い、泥足で踏みにじっている。そのような倒錯的世界にまっとうな情理などそだつわけがないだろう。なかんずく、実需がないのにただ金もうけのためにのみ各国の実体経済を食いあらし、結果、億万の貧者と破産者を生んでいる投機ファンドの暴力。それこそが世界規模の通り魔ではないのか」。秋葉原事件の〝真犯人〟は、「眼鏡をかけたあの青白くやせた青年」ではない。彼の犯罪はじつは狂った世界で「起きるべくして起きた人間身体の〝発作〟」なのだ。
 加害者と被害者、善と悪の区別もなく、人間の想像を超えて自走する世界。この世界で傷ついた者たちが、各所で再び身を起こし呻く。「大恐慌、きますか。きたら、ガラガラポンですよね」と吐きすて、ペットの死骸を入れた箱をさするプレカリアートの青年。「半端ねえ。まじ、半端ねえよな……」と「蟹工船」を読んだ感想を慨嘆する学生。赤ん坊の手に感動し、「痛覚が静かによみがえるのを感じて泣いた」新聞記者。生死の汽水域に孤独な眼を深くして佇む母。吐く男をさする異国の青年、いまだ祖国へ深い愛を表現する老共産主義者、すさみのない眼の死刑囚、清掃業の面接を受けるけなげな老女、熱中症で死んだ貧しい老人──。
 一方、かれらを高みから押しつぶそうとする者たちの力はますます強い。「理想主義と現実主義の自己断裂」のような眼の翳りを見せるオバマ大統領、食人的関係を強いる資本家、倨傲の塔を建てる富者、今もひそむ天皇制ファシズムの亡霊、バナナの叩き売りに似た元総理が象徴する日本の腐敗した権力、画一的なエコ運動に走る人々、そして「在日コリアンいじめに手をかすような〝朝鮮学校は対象外〟の方針」を打ち出した民主党政権──。弱者たちはまさにあとひとひねりのようだ。
 しかし三月十一日、日常は崩壊した。故郷の喪失を目の当たりにして著者は綴る。「けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の『個』が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。(…)家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか」。この切実な問いかけに対し、「生きることができる」あるいは「生きねばならない」と一人一人が応答し、新たな共同体を模索すべき時が来たのだ。
 ずっしりと量感のある一冊が響かせるのは、言葉から見放されるな、世界と「膚接」し、「パルレシア」(率直に真実を語ること)を実践せよというメッセージだ。それは、悲惨な世界越しに私達の魂へまっすぐ架けられた、闇の中でなお美しい言葉の虹である。

2011年7月20日 (水)

詩の欲望は3.11へ向かって(四)

今被災地には、その何割さえもまだ手の付けられない瓦礫の風景が拡がっています。
私自身も先日宮城県石巻市の瓦礫の原に立ち
まさに空襲や原爆投下による焼け野原とのアナロジーを感じました。
正確には映画やテレビで見た空襲や原爆投下の映像とのアナロジーですが、
しかしもちろん単なる情報的なレベルの既視感ではありません。
映像の記憶が肉感的に、情動的に多重露出されてきた
というような既視感を抱いたのです。

それはなぜか似ていた。
爆撃されたサラエヴォ図書館に。
フアン・ゴイティソーロが「記憶殺し」と言った
その場所に。
渚に散乱する記憶。

それはなぜだか似ていた。
ヒロシマの小学校に。
子どもたちがそれぞれの影になって
石や鉄にはりつけられた
そのときの無音に。

                  (辺見庸「それは似ていた」(「文學界」6月号)冒頭二連)

私もまた石巻で、ここで「それ」といわれる建物のモデルと思われる
被災した小学校を見ました。
津波だけでなく火事にも襲われ、焼けただれた姿の鬼気迫る校舎は
たしかに残虐な戦場を実感させるものがありました。
校舎の前にあるプールに溜まっていた赤茶けた水は
血をも想起させたのです。
実際この学校では児童の犠牲者も出ています。

学校の被災の光景は
私のような戦後生まれの者にも、戦争の記憶を激しく触発しましたが
一方で重苦しい無力感をももたらしました。

焼かれても焼かれても蘇る風景。
焼いても焼いても生まれてくる悪夢のシーン。

悪い汗のように滲みだしてきたことばがありました。

「大量殺戮の現場」(引用した詩はさらにそうアナロジーしています)
はなぜつねに立ち戻ってくるのでしょうか?
それが繰り返し私たちの前に現れるものだとしたら
私たちの文明とは歴史とは一体何なのでしょうか?

2011年7月19日 (火)

詩の欲望は3.11へ向かって(三)

3.11という表現は、恐らく9.11に擬せられています。
そのようなアナロジーを安易だとして抵抗を感じるひともいるでしょう。
震災の悲劇だけに限ればそれは天災によるものだから
テロと同一に論じるのはたしかに誤りであるし、
不謹慎だという気持があるのも当然です。
それは十分分かります。

けれどだからといって
被災の光景に、かつての戦争がもたらした焼け野原を重ねて見ることは
決して間違っていないと思います。

そのような戦争とのアナロジーを
たとえば戦後左翼的な思考パターンにはまったものとして冷笑する論調が今あるとすれば
私は承認できません。
そのような冷笑主義にのっとり
歴史的、社会的、思想的な奥行きをあらかじめ欠いた、素朴な心情だけを臆面もなく吐露する「震災詩」を称揚していいものでしょうか。

戦争とのアナロジーを語る文脈が
たとえ旧弊な「戦後左翼的」な文脈に過ぎないとしても
またそのことばが画一的で観念的であり、今回の事態の実相を掬い上げられないとしても、それが時代遅れであるからといって、あるいは硬直しているという口実をもって
一方で「今」のうすっぺらな書き割りしか背景に持たない詩の方を
現在的価値があるとして称揚するのは間違っていると思います。

なぜ、3.11を歴史的に見ることを忌避するでしょうか。

この震災による犠牲者の多くは
「今」しか見ようとしない非歴史的な経済成長神話の中で
津波の危険があるにもかかわらず無理に開発した住宅地に居住していた人々ではなかったでしょうか。

また、原発の起源には、
無謀な戦争の結果この国が蒙った原爆という最大の歴史的凶器があるのではないでしょうか。

そして今回の過酷事故は、
大きな津波や地震を「想定外」と正当化し
歴史の教訓に学ぶ謙虚さを忘れたから起こったのではないでしょうか。
電源喪失対策などを怠っていたのは
人のいのちを無視し、未来からも過去からも目を背け
ただ場当たり的に原発マネーの獲得に狂奔した結果ではなかったでしょうか。

つまり今私たちが見ている瓦礫の光景には
この国の非歴史性の歴史が多重露出しているのではないでしょうか。

もちろん瓦礫の原を見て
安易に無媒介的に「あれは戦後の焼け野原と一緒だ」と断言してすますこともまた
間違っています。
しかしだからといって瓦礫の原を
「天災によるもの=自然によって作られたもの」という狭い視野に閉じ込めて
この国ならではの非歴史的な価値観におもねるように
被災の風景を
諦念や悲哀感の演出のためのうすっぺらな「書き割り」として利用するのは
まったく間違っています。

そのような間違いを犯している詩や詩論がもしあるとすれば
今回の震災による犠牲者に対してだけでなく
かつての原爆犠牲者や戦死者たちをも冒瀆していると思います。

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