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2011年8月

2011年8月31日 (水)

8月29日付しんぶん赤旗「詩壇」 柴田三吉「希望が降り立つ場所」

8月29日付しんぶん赤旗「詩壇」 
希望が降り立つ場所         
                                                       柴田三吉(詩人) 

 震災から5カ月、宮城の被災地を歩いた。がれきの撤去はほぼ終わり、それらがあちこちで巨大な山となっていた。倒壊を免れた建物も内部は完全に破壊されており、ビルの4階まで達したという津波に恐怖を覚える。
 仙台で京都の詩友と会う。彼は職場から参加したボランティア活動を終えたあと、いくつかの被災地を歩いてきたのだった。見たもの聞いたもの、触れたものを語り合う。それはまだ意味をはらむ前の言葉、これから意味にたどり着こうとする言葉だった。
 留守のあいだに送られてきた詩誌を開く。最近は「後記」に、震災・原発事故と、表現の関わりを書いたものが多く、注意して読み通した。
 〈震災を素材にした詩作品をさまざまな詩誌等で目にすることになったが、それらの詩は、作品の体を成していても、なぜか隔靴掻痒(かっかそうよう)の印象を免れなかった。(略)筆者は現在のところ、震災を題材に詩を書こうとは思わない。書こうとしても言葉が出てこないからである。震災の惨状を見て心を痛めたが、筆者は自分の言葉に無力感を覚え、距離感を掴めずにいる。(略)想像上の絶望を書いても仕方がないと思った〉『山形詩人』74号・無署名)
 率直な心情の吐露。詩は簡単ではないと私も思う。だが論理の帰結にはうなずけなかった。言葉の無力を嘆く「後記」はほかにもいくつかあったが、書いても仕方がないのなら、どんな詩も意味がなくなるだろう。
 希望も絶望も、人の想像から生まれてくるものだ。想像力が現実に働きかける場所でこそ表現も成り立つ。目の前の現実と向き合い、自らの言葉で希望や絶望に触れることからそれははじまる。
 私たちはすでにこの出来事の内側に立っていて、つらい災禍を生きている。詩人の仕事は、その苦しみの中で、希望(ポエジー)が降り立つ場所を見つけていくことではないだろうか。

2011年8月30日 (火)

27日、石巻での「読み語り」の活動と京都からの絵本の支援についての話を聞く

27日の土曜に、
京都市の子どもの本屋さん「きんだあらんど」で
同店と連携し石巻市で読み語りの活動を続ける「NPO にじいろくれよん」の代表
柴田滋紀さんのお話をきくことができました。
同店代表の蓮岡修さんのお話とともに、大変心に訴えるものがありました。

「にじいろくれよん」の柴田さんはみずからも被災され、
避難所にいた時、そこで元気を失っていた子供たちに援助物資の絵本を読んであげたところ、とても喜んだ。そこから活動を始めたそうです。
現在8箇所の避難所で
遊び相手、読み語り、絵画プロジェクトなどを実施しています。

絵本や本の読み聞かせによる心のケア。
私にはとても新鮮な発想でした。
私自身もこれまで何度か詩の朗読をしてきて、
「書いた本人が思いをこめて自分の詩を朗読するのがとても心に響いた」
という感想を何度も貰ったことがあります。
そのことも思い合わせてお話を聞いていました。

柴田さんのお話は
言葉と声というものが持つ可能性の一端を知っていた私には
とてもうれしいものでした。
信頼する読み語るひとの声が子供に言葉への信頼を与え
言葉への信頼がひとや世界への普遍的な信頼につながっていく──
読み語りの初回はなんだろう?という顔をされるが
2回目以降、本を持って行くと夜な夜な読み続けていたりする。
そのことをお母さんがまず喜んでくれる。
お母さんとのコミュニケーションが取れて
継続して行っていけば「見守ってくれている」という信頼関係が生まれてくる、
ということです。

避難所で行う読み語りの活動は
親御さんも読み語りをしてもらうことも含めて必ず関わって貰うのです。
つまり親御さんと子供と読み語り者との三者の「個」の関係となります。
あくまでも親を含めた「個と個」の関係が大切ということです。
そのとき子供も親も、「子供と親」だけでなく
第三者が介在することで「個」になって互いに社会化していくんですね。

読み語りとは、被災した子供に何を与えるのか。
「子供には父性と母性の双方が必要。違う大人が補うことで、家族を肯定的に見られるようになるのです。そのために必要な言葉は絵本の中にある。そしてそれを実際与えるのが読み語り者の役割」
父親とうまくいっていかない子供が、読み語りの結果、読み語りをしてくれたお兄さんの方が好きになるということにはならないそうです。
逆に、お父さんを尊敬するようになるということです。

私が思うに、つまり子供の本には、作者という個から、子供という個への
いわば投壜通信としての言葉が存在していて
読み語り者は、その壜を声によって空けてあげ
子供に人間としてのみえない滋養として与える役割を持っているのではないでしょうか。そしてその滋養は、子供が社会や世界で生きる時の大きな普遍的な力になる。
まさに言葉の力が子供の個としての成長を支えていくわけです。

一方「きんだあらんど」は
「にじいろくれよん」を通じて
避難所の子供の年齢、性別、状況を把握し
その情報を元にちょうど興味を持ってもらえる本を選書します。
本は同店が募集した「オーナー」に委託されたかたちで
蓮岡さんが選定します。
それらの本は「にじいろくれよん」と避難所を通じて親御さんに渡され
子供と一緒に楽しんでもらうよう両者にサポートしてもらうとのことです。

例えば親を失った小学六年生の少女には何を贈るか。
六才の子供にはどれがいいか。
(六才の子供には六才の子供が「ききたい」言葉があるそうです。
大人が六才の子供に「きかせたい」言葉ではなく)
蓮岡さんが本の選定をした時の話をされた時、
どれほど愛情と想像力をこめて一冊の本を選定したかを知り
感銘を受けると共にとても驚きました。
見知らぬ一人の子供に対して、どうしてそれほど心を砕けるのでしょうか。
そこには子供と子供の本を見つめてきた経験の深さがあり
さらには僧侶でもある蓮岡さんの次のような思いもあります。
「遠くの人を想い支援する心とは筋肉みたいなものではないでしょうか。継続的に使えば使うほど大きく太くなって、その強さが、周りの人たちに自然に手を差し伸べる力になると思います。できるだけたくさんのかたに豊かな心を味わっていただきたいと願っています」

蓮岡さんは被災した六歳の子供に贈った絵本「マリールイーズいえでをする」を
その場にあつまった私たちのまえで読み語ってくれました。
まさに母性ともいうべき父性のあふれる温かな声。
マングースの子供が家出をして母親の大切さを知る小さな魂の旅に
一同はひきこまれていきました。
私の奥に眠っていた六歳の子供も目ざめていくようで、とても新鮮な体験でした。

2011年8月29日 (月)

朝鮮学校に高校無償化適用へ 菅首相、文科相に指示

 菅直人首相は29日、昨年11月の北朝鮮による韓国砲撃を受け凍結していた朝鮮学校に対する高校無償化適用の審査手続きを再開するよう高木義明文部科学相に指示した。これを受け文科省は、適用に向けた手続きに入った。

 同省は今後、有識者会議の意見も聞いた上で、年度内に適用が決まれば、朝鮮学校10校に対し今年4月にさかのぼって支援金を支給する方針だ。

 菅首相は再開の理由について、朝鮮半島情勢が砲撃以前の状態に戻ったと判断したことなどを挙げた。

                              (本日共同通信12時23分)

2011年8月27日 (土)

一昨日25日東京での朝鮮学校無償化実現の要請行動に参加しました

一昨日25日に、朝鮮学校の無償化実現の要請行動に参加するために、東京へ行ってきました。文科省、内閣府への要請行動と、院内集会に参加しました。詳しくは以下にリンクした記事をお読み下さい(写真に私も少し映っています)。記事が伝える、「〈高校無償化〉からの朝鮮学校排除に反対する連絡会」代表の長谷川和男さんの言葉の末尾部分を、以下引用します。私もまったく同感です。政治の教育への介入、朝鮮学校だから除外という差別は明らかに憲法違反です。しかも昨秋の砲撃戦を受けて、超法規的措置という異常な事態を、菅直人首相はみずからもたらしながら、異常な措置を放置したまま、辞任してしました。あまりにも無責任です。その結果菅首相を信じて待っていた朝鮮学校生は、苦しみつつもついに国家賠償の提訴を決意しました。しかしこの事態の異常性は、日本国民にとっても同様に戦慄すべきもので、原発同様、国家自身が憲法=国民を裏切った罪は底知れません。

JANJANBLOG記事URL→http://www.janjanblog.com/archives/48038

「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(14条)

 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」(26条1項)

 菅総理大臣のおこなった審査手続きの凍結は、上記のような憲法の理念を著しく損なうものだ。且つ、菅総理は法令に従って審査手続きを凍結したわけではなく、本人曰く「超法規的措置」とのことであるが、この「超法規的措置」とは、――簡単に言えば「恣意的」「独断的」「思いつき」ということでもある。

 日本は法治国家であり、公務員は「憲法擁護義務」(憲法99条)が課せられているにもかかわらず、法令に基づかず、生徒たちの「教育を受ける権利」を結果的に侵害するような恣意的・独断的行為を、一国の総理大臣自らがおこなっているという点で、今回の菅総理の行為は非難されて然るべきである。1日も早い、事態の改善が望まれる。

なお、TBSのスポットニュースでも流れました。  URL→http://news.tbs.co.jp/20110825/newseye/tbs_newseye4810622.html

2011年8月24日 (水)

『見えない恐怖』の書評

松井英介さんの『見えない恐怖』についての北海道新聞の書評です。北海道がんセンターの西尾先生が書かれています。「科学的冷静に知るための格好の好著」。(画面が90度傾いております。)→2011.08.14.jpgをダウンロード

2011年8月23日 (火)

お盆に読んだ本②松井英介『見えない恐怖──放射線内部被曝』(旬報社)

お盆に読んだ二冊目の本はImage1485
松井英介『見えない恐怖──放射線内部被曝』(旬報社)です。

松井さんは岐阜大学医学部附属病院勤務、放射線医学講座助教授を経て、現在は環境医学研究所所長。

今最も読まれるべき素晴らしい本だと思いました。

放射線とは何か、内部被曝はどのようにして起こるか、原子力発電と内部被曝とはどのように関係しているのか、広島と長崎の被爆者や、ビキニ水爆実験の内部被曝がいかなるものだったか、劣化ウランなどの場合はどうか、放射性物質を掘り出すことの危険性とは何か──素人でも分かるように平易に、かつ素人には気付かない問題の死角を提示し、説得力のある論理と展開に、科学が苦手な私もぐいぐい引き込まれました。

例えば放射線というものがどうして癌を引き起こすのか。
それに対する以下の説明は、目からうろこでした。

「水は『H2O』ですが、放射線によってイオン化された水素イオンと水酸基イオンがくっつくと『H2O2』=過酸化水素になります。これは非常に強力な化学作用をもっていて、昔は『オキシフル』や『オキシドール』などとして、消毒に使われていました。つまり、微生物を殺す力=靜菌作用がある物質が人間の細胞の中にできるのです。それによって、細胞の中の小さな器官である染色体・遺伝子を損傷する、それが間接効果としての『被曝』です。/このように、分子をイオンに分解することができる放射線を『イオン化放射線』といいます。イオン化放射線には、エックス線のほかにアルファ線、ベータ線、ガンマ線があります。分子をイオン化する力のない『非イオン化放射線』を一般には『電磁波』といいます。」

なるほど、と思いました。例えば今問題になっているセシウム137は、ベータ線という粒子線を出すといいますが、そのエネルギーが直接遺伝子を傷つけるという以外に、細胞の周囲や内部の水をイオン化して、「オキシフル」を作って間接的に遺伝子にダメージを与えるんですね。
二重の損傷を受けることになるのだと知り、恐怖も倍化しました。

松井さんの本は、さらに社会や歴史にも踏み込んでいます。だからこそ説得力と読み応えがあり、放射線について、恐怖だけでなく知的関心を高めるものになっていると思います。

何よりも松井さんの医師としての姿勢が素晴らしいのです。
内部被曝研究に関わった原点には、幼少期、弟と妹を空襲で亡くした経験があります。
そしてイラク戦争──。

「そして9.11の後、米軍が、サハラ以北で経済的にもっとも貧しいといわれた国に空襲をかけたとき、これに抗議する行動に加わりました。ウラン兵器によって子どもたちが深刻な被害を背負ったのを知ったとき、二〇〇三年七月六日アフガニスタン国際戦犯民衆法廷で、ひとりの医師として、内部被曝の健康影響について証言しました。同年十月一六日から一九日にハンブルクで開かれたウラン兵器国際会議でその経験を報告しました。そこで私は、世界各地に広がる内部被曝と、それによる深刻な晩発障害を実感することになります。」

私がこのような素晴らしい本と出会えたのも、やはり『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を通してです。同書を介して知り合った、岐阜朝鮮初中級学校を支援する「ポラムの会」を主宰されている松井先生の奥様が、この本を贈って下さいました。

2011年8月21日 (日)

お盆に読んだ本①水野崇・渡久山章『地球の未来を見つめて──アメリカと沖縄からの発信』(新星出版)

お盆に二冊の本を読みました。Image1484
二冊ともタイムリーな書でしたので、酷暑の中でも集中して読めました。

まず、水野崇・渡久山章『地球の未来を見つめて──アメリカと沖縄からの発信』(新星出版)。

水野氏は、21年前、1991年に日本からアメリカ、ニュージャージー州デラウエア河畔にあるテイラー農園に家族と共に移り住みました。日本では有機農業を営んでいました。
アメリカ移住後、州立ラトガーズ教育大学院で複数言語・文化教育学を学び、ラトガーズ大学や琉球大学で教育の仕事にも携わっていました。

この書の半分は、水野さんが書かれたエッセイなどで占められています。
もう半分は、琉球大学名誉教授の渡久山章さんの沖縄についてのエッセイや提言。

水野さんは日本人の移民として、アメリカの自然と語り合いながら、地球の変化を鋭敏に感じ取る生活を送っています。
その間、アメリカから遥か海でつながった沖縄に行きリゾート開発問題に携わったこともあります。

この現代に、日本人がアメリカに移民して、農業を営む──そのこと自体、私には大変奇跡的なことのように思えます。
日本人が通常アメリカに行く場合、商用か勉学か旅行かだと思いますが、それが水野さんの場合、ダイレクトに異国の土を耕すことだったということです。

異国に移り住んだ時、まずアイデンティティにとって問題になる「根づき」あるいは「根こぎ」という問題が生まれます。
けれど水野さんはその異質であるはずの異国の土にまず触れてしまうことで、その問題にまっすぐに向き合うことが出来たのではないでしょうか。
人よりもまず土=自然に受容されることが大切だったのではないでしょうか。
アメリカというところは行ったこがないので分からないのですが、
大自然もまたアメリカの主体の一つだということでしょうか。

「(注:気候変動のために大雨が続いた後で)このような異変の中で、染織芸術に携わっている志村ふくみさんの言葉の中にある『語りかける花』を味わっているうちに、私にとって語りかける存在は何かな、と考え始めました。それは土ではないかということに気付きました。一ヶ月ほど前、畑に馬糞と麦のわらを撒き、トラクターで土を起こしました。冬の間に固くなっていた土は砕かれ、下の土は上に出され、空気にあてられました。その後さらにトラクターで土を細かく砕かれ、微生物の栄養分を補給され、酸素も十分に供給された土は、見事に変身をとげ、野菜たちを育てる準備を始めているように思いました。畑に入って土の色や過ぎたを眺めていると、土と私との間にあるつながりが確かに感じられました。」(「語りかける土」)

アメリカの移民の言語教育について書かれた第二章も、日本における朝鮮学校の問題を考える時に、とても参考になりました。
多民族国家において、国家語=英語と移民の母語の関係は大変複雑です。しかし「英語を母語や第一言語としない児童に対して児童の学習の権利を保障する措置」=ラウ措置というものがあるそうです。一方、世論は、移民に「母語の維持を認めようとしない」。自由と抑圧が同時に存在する国なんですね。

ちなみに、私が水野さんと知り合ったのは、今年1月に、前田朗さんのブログでの「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」の紹介記事を見た水野さんが、直接メールを注文して下さったことから。
その後、とりわけ原発事故が起こってからは、アメリカからだからこそ、世界的な視野で集めうる情報を、毎日のように送って下さり、日本の内部によどむ諦めの空気に沈みかけていた私を、いつもハッと目ざめさせてくれます。

2011年8月19日 (金)

8月16日付京都新聞「詩歌の本棚」

8月16日付京都新聞「詩歌の本棚」
                                                          河津聖恵 

 東日本大震災から五ヶ月。今詩の方向性は、大きく二手に分かれつつあるように思う。未曾有の悲劇を目の当たりにして、これまでとは全く違う詩の次元を見出そうともがく詩人たちがいる一方で、早々と詩の無力=比喩の死を断言してしまう詩人たちもいる。私は後者の「平静さ」に驚いた。彼らは総じて「3.11以後無理に書いてしまえば、野蛮な言葉になる」という危惧を表明するが、それは本当に実感から来るものなのか。アドルノの有名な、「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮だ」というテーゼに倣って引き出された結論に過ぎないのではないか。たしかにフクシマもアウシュヴィッツもその悲劇性は言葉では捉えきれず、まして美的な詩語で表象化するなど「野蛮」以外何物でもない。だがアドルノの過激なテーゼは、じつは詩人を挑発しているのだ。詩が不可能にもかかわらず、いや不可能だからこそ詩を書き続けよ、と深く励ましているのだ。
 
 有馬敲『新編現代生活語詩考』(未踏社)は、生活語(「生まれた土地のことば、共通語に近い遠いに関係ない話しことば」)で書かれた詩を、万葉集の時代から現代までのスパンで考察する。現実に抗う庶民の言葉の生命力をあらためて感じさせられた。引用された詩で目を惹いたのは、原民喜の原爆告発詩「コレガ人間ナノデス」。
「オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ/爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ/「助ケテ下サイ」/ト カ細イ 靜カナ言葉/コレガ コレガ人間ナノデス/人間ノ顔ナノデス」。
 これを含む「原爆小景」九篇中八篇はカタカナと漢字で書かれているという。なぜか。小説「夏の花」で原は、人間的なものが「抹殺された」風景の「妖しいリズム」や「痙攣」は、「片仮名で描きなぐる方が応はしいやうだ」と述べている。破壊の風景を目にして、未知の書法を直感したのだ。
 
 『香山雅代詩集』(土曜美術社出版販売)は、思索的な言葉で現実と自身との関係を模索し続ける詩人のアンソロジー。ある時は激しくある時は静謐に、思考と共に歩む詩行のリズムは、作者の能に対する造詣の深さから来るのだろう。知的に張りつめた言葉の地平には、戦争の悲惨な記憶と悲しみの炎が、濃く冷たく鎮められている。
「悲しむためではなく/あなたを/わたくしを/理解するために/円筒の曠野に 風をとおすために/世界のほんものの死地を 獲得するために/放してはならない/悲しみまで 解いてはならない//円筒形の世界の涯で/あなたの傘は/わたくしたちの傘は/いま/どのような雨を うけとめているのであろう/はじているのであろう」(「世界が円筒にみえたところから」)
 
 北島理恵子『三崎口行き』(ジャンクション・ハーベスト)は、人と人との関係を、そこにある空気を撫ぜるようにして巧みに描き出す。事物や光や風や音を、まさに言葉に溶かすように柔らかく象徴化しつつ、自身と他者とのかなしい距離を詩でしか描けない角度から捉えている。序文の代わりに置かれた詩「遠景」が印象的だ。
「わたしたちは/生まれる前の、海の水面のきらめきの話をする/幼い頃布団の中で見た、怖い夢の話をする/いまここにあるかなしみは話さない」
「いまここにある/かなしみは話さない」という人の生の根源にある礼節と優しさ。それこそが関係をゆたかにする源泉だと、この詩人はよく知っている。人と人、人と言葉は再び必ず繋がりうる、ということも。

2011年8月17日 (水)

許玉汝「ふるさとへの道」

昨年夏、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』の共同編集者である許玉汝さんが、8月15日を前に、以下のようなエッセイを書かれました。一人の在日コリアンがたましいの旅の中でようやく探りあてた「ふるさと」、沢の水の冷たさ、母の笑顔──。

随筆 「ふるさとへの道」
                                    許 玉 汝

  「朝鮮学校無償化除外反対」を広範な日本の人々に訴えるため、「ふるさと」という詩を書いた日から一年が経った今年の夏、私は生まれ故郷、青森県平川市碇ヶ関(いかりがせき)を生後初めて訪ねた。
 
 63年前、身重であった私のオモニ(母)は、北海道にいるというアボジを探すため、6歳の姉と3歳の兄の手を引いて京都から列車に乗り、何回も乗り継いだ。

  途中、列車の中で産気づいてしまったオモニが、やむなく碇ヶ関で下車し、あてもなくさまよっていたとき、親切に声をかけてくださった方がいた。その方が営んでいた木賃宿にたどり着いたオモニは産婆の到着を待てずに赤子を産み落とした。その赤子がまさしく私だったのだ。
 
  6ヵ月後に北海道に渡り,行商をしていたがうまく行かず、やむなくドブロクを作ったことが「罪」になり刑に服していた父を待つ間、馬小屋で暮らした日々、父の出所後、函館に移り零下20度の浜で私をオンブしたままイカ裂きをしながら私たちを育てて下さった両親。
 
  学校に通うことになった姉が、あまりにものいじめに耐えかねて登校を拒んだ為、東京の朝鮮学校を探して池袋に引っ越した事、空襲で片足になった祖父が京都にいるという便りを聞き一年足らずで京都に戻ったこと、坂の下の半洞窟の家で暮らしながら、祖父の引くリヤカーに乗り<ボロおまへんかー>と京都市内を回りながら生活した日々…
 
  5歳になるまで出生届も出せず、自分の生まれた場所の住所も知らぬまま、青森から北海道、北海道から東京、東京から京都、京都から大阪へと転々と引越しを重ねてきた私たち家族にとって故郷とは一体なんであろうかといつも思っていた。
 
  今年の3月11日、想像を絶する東日本大震災が起き、津波のため故郷を根こそぎ流されてしまった人々の痛ましい姿をニュースで見ながら、私は何かにとりつかれたように思い続けた。(行かねば、行かねば、今、生まれ故郷を探さねば必ず後悔する。)
 
  私はインターネットで見つけた碇ヶ関総合支所に「私の生まれ故郷を探してください。碇ヶ関という村の自炊旅館だったそうです。」という手紙と、自伝史のような詩「ふるさと」をFAXで送り協力を求めた。
 
  交信を始めてから一ヶ月が過ぎた頃、碇ヶ関支所から「お探しの木賃宿跡がついに見つかりました。隣に住んでいた方も見つかりました。着いたらすぐ支所に来てください」という夢のようなメールが送られてきた。
 
  7月9日、東北朝鮮初中級学校での慰問コンサートを無事終えた次の日の朝、私は高速バスで弘前まで行き、奥羽線に乗り換え「碇が関」に到着した後すぐに総合支所を訪ねた。
 
  日曜日だと言うのに支所長さんと、交信を続けていた黒滝さんが迎えてくださった。
 
  碇ヶ関関連の書物や地図、明日の予定表、おまけに青森リンゴやジュースばかりか、生まれ故郷での夜を楽しんでくださいと70匹もの平家蛍までガラス瓶のホテルに入れて持たせてくださった。あまりにもの手厚いもてなしに言葉が出なかった。
 
  翌朝、支所長さんと一緒に木賃宿の跡地に向かった。小高い山のふもとの閑静な場所に跡地はあった。跡地の入り口には江戸時代に山から引っ張ってきたという白沢の水場が残っていた。手を伸ばし沢の水に触れて見た。
 
  冷たい!手のひらで水をすくい一口含んでみると、なんともいえない感慨に胸が震え優しかったオモニの笑顔が浮かんだ。
 
  支所長さんと一緒に木賃宿があった頃から隣に住んでいたという花岡チエさんにお会いした。花岡さんは60数年前のことを一つ一つ思い起こしながら話してくださった。
 
 花岡さんのおかげで木賃宿の御主人の名前が外崎さんだったことも、この木賃宿が旅館代の払えない貧しい人々をいつでも迎え入れてくれた有難い自炊旅館であったことも知ることが出来た。
 
  終戦間もないあの時代に、一目見れば朝鮮人であることが分かったであろうに見ず知らずのよそ者を暖かく迎えてくださった外崎さん。私の命の恩人、感謝してもしきれない。貴重な証言をしてくださった花岡さんの手を取り心から感謝した。
 
  驚いたことはそればかりではなかった。木賃宿の屋号だけはどうしても探せなかったのだが、三笠食堂で食事をしていた時、御主人の阿部さんが思い出して下さったおかげで木賃宿の屋号が「大黒屋」であることまで判明したのだ。
 
 その後、支所長さんの案内で碇ヶ関の名所をひとつひとつ回りながら私は思った。碇ヶ関の人たちは何故こんなにも親身になってくれたのであろうか?「探せませんでした。」の一言で片付けることもできただろうに、詩「ふるさと」を読んで、同じ郷里を持つ者として他人事とは思えなかったと一緒に泣いてくださった黒滝さん。自分の事のように心配してくださった総合支所の皆さん!

  碇ヶ関の人たちのおかげで無事この世に生を受けたばかりか、人生の黄昏期にまた大きな恩恵を受けてしまった私。母のように心優しい人々が住む村が私の生まれ故郷であったことが何よりも誇らしく嬉しい。
 
  瞼を閉じれば碇ヶ関の人々が、三笠山や平川が、白沢の水場が、リンゴ畑が目に浮かぶ!紛れも無く碇ヶ関は私のもう一つのふるさと!
 
  誰しも故郷を持つが私たちのように、異国で生まれ育った者にとって故郷とは一体どんな意味を持つのだろう。私たちの国が植民地にならなかったなら私が日本で生まれるということはありえなかったし、貧困と差別がなかったなら根無し草のように流されるままに生きることもなかったはずだ。
 
  私は自分の生まれ故郷を探していたが決してそれは場所ではなく、私のルーツである父と母の人生そのものを知りたかったからかも知れない。二度と奪われてはならない祖国と、国を奪われた民がたどらねばならなかった人生を、後世に伝えなければならないという使命感があったからかも知れない。
 
  ウリハッキョを守るため書いた拙い一編の詩がもたらした生まれ故郷との再会。私はこの日の感激を胸に、まだ見ぬまことの故郷を必ずや訪ね、亡き父母の霊前に花を手向けたい。そして碇ヶ関の人々のように国籍や民族を越え1人の人間として隣人を愛し朝日友好の架け橋になりたいと思う。

                                                                   2011年8月15日

2011年8月12日 (金)

8月11日付毎日新聞夕刊「真実の言葉に耳を澄ませ」

Bunkaなう 震災と表現①圧倒的な破壊の後
真実の言葉に耳を澄ませ 

                                     河津聖恵                                                         

 七月初め、私は宮城県石巻市で行われた「復興ウォーキング」に参加した。炎天下、画面でしか見たことのなかった風景を360度、五感で体感しながら瓦礫の原を歩いた。空気には聞こえない音波が満ち、乾いた瓦礫はつねに波動をこちらに送ってきた。津波に内部をさらわれた家々は声なく絶叫していた。水産加工場跡の異臭は体の底から言葉を奪った。覆うもののない瓦礫の原は一面、ものみなの悲鳴によって強く発光していた。
 言葉を奪った鋭い音波の余韻。だが無意識に投げ込まれたそれは、未知の言葉の核を作った。3.11の圧倒的な現実を前に途絶えていた詩作が、その後私に再び始まった。心に突き刺さった音波のナイフが、塞がれていた詩の通路をこじあけてくれたといえよう。あの日私もまた自分のものともつかない悲鳴を上げたが、それが少しずつイメージや意味の姿となり始めてきている。もちろん悲鳴の根の辺りはまだ闇に残しながら。
 悲鳴と言葉。塞がれたその間を突破できないことが、今詩人たちに深い無力感を与えている。悲鳴は実際の光景に対してだけではない。言葉や文化の「バベルの塔」が一気に崩れ落ちた、一人一人の「世界崩壊感覚」から上がったはずだから。
 悲鳴vs言葉。その対立項が今、「沈黙vs言葉」に代わり詩の現場に迫り上がってきている。だが求められているのは、悲鳴を引き写す言葉や、観念にねじ伏せる言葉ではない。悲鳴を素通りし、型通りの美意識のまま書かれる詩ではさらにない。現代詩はポストモダン以降、現実との関わりで「詩とは何か」を考えることを避けてきた。脆弱で曖昧なモダニズムを享受し続けた結果、言葉の力は急速に失われた。3.11の破壊は、詩を根こそぎにするのか。あるいは詩は、破壊の現実と向き合うことで「復興」できるのか。破壊の後にもなお、いや破壊の後だからこそ、ひとは真実の輝きを放つ言葉を求めている。
 悲鳴と言葉の間。私の中の通路はだが、被災地で拓かれる以前すでに他者の言葉によって掘り進められていた。被災者が体験や思いを語り続ける真実の言葉、あるいは故郷の被災を目の当たりにした痛苦から、「瓦礫の中からことばを」とTVで熱く訴えた作家・詩人辺見庸の言葉、そして3.11以来、応答を求めるように読み続けた、それぞれが史上最悪の破壊を体験した詩人たち─原民喜(原爆)、石原吉郎(シベリア抑留)、パウル・ツェラン(アウシュヴィッツ)等─の詩によって。かれらはみな言葉を奪われた悲劇の後に、言葉への信頼と使命感を取り戻そうとしている。
 今日も悲鳴はどこかで上がる。瓦礫の中で応答して言葉が輝く。復興と共に忘却の明るい闇が深まろうとも、詩人は耳を澄ませ聞こえない悲鳴を捉えて、言葉に未知の輝きを見出さなくてはならない。悲鳴と言葉をつなぐ「声の道」(ツェラン)を拓くために。

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