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2011年10月

2011年10月31日 (月)

寺山修司の青森・三沢をたずねて(二)

三沢市にある寺山修司記念館はとても素敵でした。Terayama4_2

外壁にはたくさんのタイルが
(寺山が高校生の時にたしか好きだった)花札のように埋め込まれていました。
その一つ一つには絵や写真が描かれていたり、
短歌や文章の一節が記されたりしています。
あらゆるマルチの才能で現実と拮抗する虚構世界を創造した天才の世界を
美しく象徴している外観だと思いました。

内部のメイン展示室は、教室のように木の机と椅子が並んでいてTerahaku_2
そのどれかに座ると、ふいに机の上に寺山の人生を紹介する
とても美しいビデオが投射されてくる。
また各所で関係映像を見ることができたり
資料を集めたブースでもアーカイブを見ることが出来るようになっていました。

私も大学生の時、京都の太秦で初めて天井桟敷の演劇を見ました。
野外劇場前の長い行列に並びながら白い息を吐き(真冬でした)
「別の時間」が現出するのを胸を高鳴らせて待っていました。

今回記念館の薄闇の中で様々な懐かしい映像や言葉にふれながら、
久しぶりあの頃の、未知との出会いに憧れた自分にかえったような気分になりました。
この博物館はまさに、寺山の世界を一つの精神の糧として持つ者にとって
寺山体験という原体験が「かくれんぼ」してくれている空間だと思います。

それでは次は少し寺山の短歌について書きます。

寺山修司の青森・三沢をたずねて(一)

少し前のことになりますがTerayama1
先日日光へ行ったあとで、青森県三沢市にある寺山修司記念館を訪れました。
(後日述べたいですが、私は寺山修司という詩人は、現在の日本の現実から言葉をあらためて立ち上げるための、とても大切な詩的ヒントを提示してくれていると思います。)

三沢という町に行ったのは初めて。
中心街では、広い道路と沿道にならぶアメリカ様式の店舗が目を惹きました。Misawa_kinenhi
そして空からはたえず、米軍のものか自衛隊のものか分かりませんが、
雷鳴のように聞こえてくる航空機(戦闘機?)の騒音が、耳につきました。
ここは基地の町なのだとあらためて実感しました。

寺山母子(父親は5歳の時出征しやがて戦病死)は、寺山が9歳の時、空襲を受けた青森から逃れこの三沢にやってきます。
三沢駅前には、父親の兄から間借りして住んだ「寺山食堂」のあった場所がありました(今は別の店舗が建っています。写真上)。
そして戦後、母子はここから、同じ三沢の米軍払い下げの小屋を改築した家に転居します。

三沢での寺山母子の生活は、敗戦直後の日本のありようを反映したものでもありました。Terayama2_2

町に進駐軍(「山猫部隊」)がやって来た日について書いたエッセイ「西部劇」(『誰か故郷を想はざる』)は凄く面白いです。
現実に起こったことを、現実のままそっくり演劇的に虚構化しています。

町の人々は最初、進駐軍を怖がって息を潜めています。
それに対し、兵士達はまずチョコレートを投げる。
するとそれに誘惑されて町にはドタバタの「西部劇」が始まっていきます。

「そのチョコレートカーブによって、古間木(注:三沢の旧名)共同防衛隊はもろくも崩れてしまった。駅前食堂のウサギが、母親のとめる手もふり切ってとび出して行ったのだ。みんなは一斉に息をつめた。ウサギが、やられると思って目をつむった者もいた。路上で爆破されてもんどりうって転げ死ぬかわいそうな小学生のウサギ! それは見なれた戦争映画の一ショットだった。
 だが意外なことにウサギは何ともなかった。まき散らされたチョコレートをぜんぶポケットにしまい、その一枚を紙ごとかじると、それを投げ捨てた樫の木のような黒人兵がひくい声で、
『ヘイ・マイフレンド』と言った。」

 そして「ウサギ」はためらいつつ、やがて誘惑に負け、自分から兵士に近寄り、握手さえします。

「すると『樫の木』は、その握りあっている手を高くあげて駅前通りの、『閉じている人たち』へ向って『マイフレンド! マイフレンド! マイフレンド!』と叫んだ。そのことばでせきを切ったように、他のアメリカ兵たちも一斉にガムやキャンディやチョコレートを取出して、節分の豆まきや有名スターがステージから客席へサインボールを投げるように投げはじめた。
 死んでいた古間木の町はたちまち甦り、閉じていた商店街の戸があいて、われさきにとマイフレンドたちがチョコレートやキャンディを拾いに駈け出して行った。(・・・)」

写真(中)は、駅前の神社の「日支事変帰還記念碑」(「寺山食堂」の家主であるおじの名が刻まれている)、写真(下)は、恐らく小学生の寺山が遊んだであろう(と勝手に直感した)丘の木々。

2011年10月28日 (金)

11月27日でソウルで開催される『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』朗読会へのお誘い

ソウルでの朗読会へのご案内

この11月に『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』ダイジェスト・韓国版が、彼地で上梓されます。韓国の詩人たちが『アンソロジー』から作品を選定して翻訳しまとめたものを、ソウルの出版社オルピョ社が刊行します。

今回の出版企画は、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』韓国版と、朝鮮学校の生徒たちの絵に、「冬のソナタ」の次長役の俳優、権海孝(コン・ヘヒョ)さんがエッセイを付けた絵本を、セットにして売り、その売上金を朝鮮学校へ贈るというものです。

その出版記念として、版元のオルピョ社が下記のように朗読会を開いてくれることになりました。日本側からは現在のところ詩人3名、各地の朝鮮学校支援者5名以上の計8名以上が参加します。演奏者としてチェリスト1名も同行します。

みなさまにもぜひ来ていただきたいと思うと共に、現地ソウルにご友人・知人がいらしたら、ぜひお知らせいただければさいわいです。

晩秋の美しいソウルの観光もかねて、朗読会と韓国の詩人たちとの交流のひとときをいかがでしょうか?
                        
『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』韓国版出版を記念したソウルでの朗読会の内容

タイトル: 〈ハッキョへの坂〉、〈心のふるさと朝鮮学校〉出版記念会

日時:2011年11月27日19時~

場所:カトリック青年会館タリ5階 リコーラオホール
(ソウル特別市マポ区 ワールドカップ北路2キル49=トンギョ洞158-2)    070-8668-5795
        地下鉄2号線弘大入口駅 2番出口から2分
        http://www.scyc.or.kr/new/hall/map.asp

※なお2次交流会もあります。カフェ・スルロビ(2号線弘大入口駅9番出口から5分、http://blog.naver.com/slobbie8/)にて21時から23時までとなっております。

※問い合わせ・申し込みは、kiyoe51803291@kib.biglobe.ne.jpまで。

10月27日「ならっていいともセミナー」講演フォロー

  昨日奈良人権部落研究所での「ならっていいともセミナー」で、許玉汝さんが「在日コリアンとして生きて」という講演をされました。そのフォローとして私も少し話をしました。そのおおよその内容を以下アップいたします。朝鮮学校の除外反対の活動を始めてから、1年半以上が経ちますが、振り返ればあっという間のようでも、10年位の時が経ったような気持にもなります。

  *******

 私は、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を許さんと共同編集しました。その編集がきっかけで交流を重ねることで、許さんのお人柄や民族教育への熱い思い、そして今の話にもあった生い立ちを知ることが出来ました。それは日本人である私にとって、未知なもので大いに感銘を覚えると共に、自分の国、日本の知らなかった姿、歴史を目の当たりにすることでもありました。
 私自身が朝鮮学校の除外反対の活動をするようになった経緯ですが、まず2010年2月26日に、朝鮮学校除外の新聞記事に私は大きなショックを受けました。ちょうどその前に、私は、在日の人々と日本人と一緒に、尹東柱(ユン・ドンジユ)という詩人を偲ぶ会を行ったばかりでした。ちなみにユン・ドンジュは、戦時中に私の住む京都に留学して福岡で殺された詩人です。その会の一環としてその翌日に京都朝鮮中高級学校を見学しました。そこで日本と朝鮮の架け橋となろうとして、一生懸命に学ぶ生徒の姿、そして先生と生徒との親密な信頼関係を見て、大変感銘を受けたばかりでしたので、除外のニュースは本当にショックでした。けれどその後世間、とりわけネットの世界から声高に聞こえてきたのは、傷ついている筈の生徒たちの痛みに、想像力によって寄り添う人間らしい言葉ではなく、むしろ傷をさらにえぐるかのような誹謗中傷でした。さら新聞がそうした誹謗中傷を煽ったり、さらに大阪府の橋下知事が暴言を吐いたりして、生徒たちは結局社会のトップのからも、ネットという下の方からも、言葉の暴力を受けることになってしまいました。私はその社会全体の言葉の暴力に対して、やはり詩人としても黙って見ていられないと思いました。それは先ほどの許さんの話にもあったように、この問題を自分自身、さらには日本人自身の問題として痛感したからです。つまりこのように人の痛みに想像力が働かず、あるいは痛みが分かっているからこそあえて言葉の暴力をふるう、そういう社会を放置していけば、それは在日コリアンだけでなく、日本人自身を追いつめていくと思いました。つまり言葉の暴力は、日本のモラルや精神のあり方をみずから貶めていくと思います。何よりも、詩人として言葉を扱う自分が、言葉が人を傷つける凶器となっている現状を、見逃すわけにはいかないと思いました。むしろ、言葉は本来は人間を根本で正しい方向に向けていくモラルの力や、あるいは人間を本当の自由へと解き放つ詩的な力を持っていると思います。だから、その逆の方向で使う人に対して、ノーを突き付けたいと思ったのが、反対の一番の動機でした。
 『アンソロジー』についての経緯は、先ほどのお話で許さんに十分語っていだたいたと思いますので、私は繰り返しませんが、ここで、朝鮮学校を知って在日朝鮮人と交流することで、何が自分の中で変わっていったのかを簡単に述べたいと思います。
 私は東京の渋谷で生まれ、2才の時に東京の郊外にある国立という新興都市で育ちました。新しい町である環境もあって、在日と言われる人々との出会いが殆どありませんでした。唯一、母の友人に日本名を名乗られていた方がいて、その方がなぜ朝鮮人なのに日本の名前なのかをうっすら疑問に持った程度でした。隣町の立川には、朝鮮学校があって、電車のホームで何度かチマチョゴリの制服を見かけたこともあって、このお姉さん達の制服は違うのだと少し思いつつも、すぐに忘れていきました。
 大学入学を機に京都に住むようになったのですが、ただ京都という歴史の古い町にいながらも恥ずかしいことですが、やはり問題意識がなかったということもあって、出会いはありませんでした。私自身文学を学んだり詩を書くことがまず第一ということがあって、日本の現実をよく見るということがなかったという事情もありました。
  在日コリアンと交流のきっかけとなったのは、2009年に、その2年前の2007年に私が書いた詩が、在日の文学者にとりあげられて、朝鮮新報という新聞に掲載されたことでした。その詩は、先ほどのユン・ドンジュに捧げた小さな詩でした。その後、その先生とお会いする機会が生まれました。そしてその先生から、京都に住む甥御さんを紹介していただき、そしてその人を通じて京都の在日コリアンの人々と交流するようになりました。
 正直いうと、私も初めて在日の方々とお話しする時は、やはり緊張しましたし、初めのうちは、在日の方同士で朝鮮語で話す場面では、少し違和感ももちろんありました。やはり自分の中でも、意識しないままこれまでの人生で知らず知らず刷り込まれた日本人中心の価値観があったと気づかされました。それを解くためにはやはりこうした出会いという機会がなければならなかったのだなと痛感します。また一方で、在日の苦しみも知ることとなり、日本の別な姿を見せつけられ、考えさせられました。とりわけ、2010年12月に京都の朝鮮第一初級学校が在特会という右翼集団にびといいやがらせをされた映像を見たときは、本当にショックでした。朝鮮学校の苦しみももちろんですが、とりわけ、一部とは信じたいけれども、これが今の日本人の姿なのだというショックです。そのショックもまた今の活動の原点になっていると思います。しかしやはり、今の私を最も励ましてくれるのは、在日の方々の真剣な生き方に接した経験です。とりわけ今日の許さんの人生や人格を感じ取ることができたというのは、私に大きな力を与えてくれていると思います。
 最後に、詩を読んで終わります。これは、許さんが書いてくれた「共にあゆむ人よ」へのいわば返歌です。許さんと私は生きざまも性格もまったく違います。朝鮮学校の除外問題がなければ、全く出会うこともなかったと思うと大変不思議です。そのようなえにしの不思議さをテーマにした詩です。どうぞ聞いて下さい。

友だち
            すぐ近くまで
           虻の姿をした他者が
           光をまとって飛んできている(吉野弘「生命は」)

                                  
あなたはいつから
私を呼んでいたのだろう

風は花粉の匂いをたしかに運んでいた
海は遠くで輝きをましつづけていた
私は呼ばれていたのか
それとも 私が呼んだのか 
蕾のように長い時をかけ
お互いにむかってうごきつづけていた
「欠如」がたしかにあった 

あの日 ためらいをすて
ハッキョへの坂をのぼろうと決めたとき
雪解け水のような春の光が
きらきらと鳥のさえずりを映し
坂をのぼる私にふりそそいだとき
過去からおりてくるオンニたちや
未来へとのぼるヨドンセンたち
の息づかいと心の高なりが
ゆっくり私の胸にかさなってきた  とき

透明な空気のふくらみのように もう
あなたは共にいてくれたのだ 

それとも もっと、もっとはるかな時に?

三月のいつだったか
当面の除外が決定されて間もない 
眩暈のような永遠の日
私は一人だったのに
もうひとりではなかった
右手には
遠い南のくにの「思いやりの学校」の
クリアファイル百枚がずしりと重く
(その日 この国の品はどれも
 生徒たちへの贈り物にはふさわしくないニセモノとなった)
かざした左手に 光は決して軽くはなかったけれど
つらい眩しさは 
もうひとりではない不思議な予感だった
クリアファイルに描かれた
ゴミ山で生きる子どもたちのクレヨン画
花や虫や果実やひとの笑顔
その未来の重みが掌を明るませて
子どものような勇気が
身の内にしずかに湧いた
風のような何かが 背中を押した
やがて誰もいない校庭から
かすかなざわめきにくすぐられた頬

「朝鮮学校無償化除外反対!」
この国でそう声にすることは 
かぎりない孤独と不信と
熱い連帯のはざまで引き裂かれることを意味すると
初めて知ったけれど

真実の痛みが降りてきたからこそ
ほんとうの出会いが熱くたちのぼってきた

新たな透明な時がとくとく空へ飽和して 

初めて会う約束の刻 鶴橋駅で
まっすぐ前へ張りつめていたあのまなざしを忘れない
遥かな時の中から
あなたは私を見つけてくれた
遥かな時を経て
私はあなたを見つめはじめた
花と虻のように 虻と花のように 
かつてはぐれた真実の友だちとして

注 ヨドンセン(妹)

2011年10月26日 (水)

詩・石巻(二)

石巻(二)
                                          河津聖恵
矛盾だ
この地を故郷とする遙かなひとびとが
まだやって来ていないのに
私の足は先んじて瓦礫をふみしだいている
(その痛みはほんものか、ならばどのように伝えられるか) 
この地で生きてきたひとびとが
草のように根こぎにされたのに
背後にはよそびとの場違いな足跡が生まれ
月面のようにくっきり残されていく
苦悩の中からようやく薄い眠りについた風景を
土足で目覚めさせていはしないか

この瓦礫の原をどのように歩けばいい?
あの日から誰もが深く迷っている
「復興ツアー」に参加した十八名もまた
彼方に息をひそめる何者かの影であるかのように
足下がおぼつかない
何を見つめたらいいのか
こんなに見つめられているのに分からない
くり抜かれた眼を持つ家々や
瞼のない瓦礫のまなざし
青いのに青いと思えない空から墜ちてくる光の破片や
魂の虫たちが激しく鳴き交わす音波
それらをかい潜るのではなく
全身で受け止めるべきだ 
だがその苦痛のまなざしと声を受け止められるほど
私たちは透明になれるだろうか

南浜門脇地区の瓦礫の原を
本当は巨大な無のジープがゆきかっている
白い無のけものが砂埃をあげている
(それを見届けなくてはならない)
私たちはかろうじて作られた結界である
瓦礫の払われた道を
心を吸われるように歩いている影だ
(これは何か、私はなぜ来たか、何をしているのか)
かすかな眩暈のような問いかけに
ふりはらってもふりはらっても
事物の音波が見えない蠅のように蝟集する
ひとつひとつの瓦礫は耳や瞼
水の力でなぎ倒された電線や鉄柱は
何かを護ろうと腕を曲げたまま息絶えたひとの姿
瓦礫の海に打ちあげられた土まみれの生活用品は
みなひとしくささやかで慎ましい(慎ましすぎる)
写真の消えた写真立て
シールの剥がれたビデオテープ
誰かが故意に? と思うまもなく見つけた日本人形は
緋色の長襦袢を見せて踊りかけ死んでいた
汚れた白い顔に眼も鼻も消え
かすかな紅色だけが唇の位置を示していた

大津波は悲鳴をことばを
そして名と存在の証さえ奪い尽くしていた

けさ松島の沿岸で
謎の僧侶の一団が橙色の袈裟をひるがえし
草の道を駈けていくのを車内から見た
海に向かい祈りを捧げるための巡礼の途中
どこの国の人かも分からない褐色の肌が光り
そこだけ月面のように
地を軽やかに蹴って飛ぶように駈けていた
(あれもまた遙かに眠るひとの鮮やかな夢だろうか)
やがて向こうからもやってきた一人の橙の天使
かれらはよろこびのように悲鳴のように
いっせいに手を拡げた
色は輝きをまししぶきをあげ合流し 渦となり
私たちの車をさらに前方へとおしだしていった

風景は感情と沈黙の速度を上げた

2011年10月23日 (日)

『環』47号(藤原書店)に「詩獣たち」連載第四回「アウシュヴィッツ以後、詩を書くのは野蛮か──パウル・ツェラン」を書きました。

『環』47号(藤原書店)にKan47jpg
「詩獣たち」連載第四回「アウシュヴィッツ以後、詩を書くのは野蛮か──パウル・ツェラン」を書きました。

前回の中原中也との関連は、やはり「うた」というモチーフです。

中也は詩でしかうたえないうたをうたった幼獣でした。
その一方、無数の死者の声に耳を澄ませながら詩作をすることで生きえたツェランもまた
死者たちと共に不可能なうたをうたおうとしました。
ツェランは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くのは野蛮か」という「野蛮さ」に挑み、死者に共振し続けた詩獣でした。

・・・「『アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない』というのは、誤りであるかもしれない。」アドルノはツェランの繊細に刻む言葉に、「うめき声」を聴いたのだ。みずから深い傷を負いうめく詩獣は、なおも残された言葉を信じ、「灰黒色の荒野(アウシユヴィッツ)」に詩の傷を刻んだ。レコードの溝のように繊細できわどいイメージと比喩と詩想で、死者の声の道を作った。詩というわずかな陰翳に寄り添って、覆いも庇護もない白い世界の中でとまどう死者たちが憩えるように。生者が共振することで死者と再び出会い、不可能な歌を共にうたえるように。

また、今号の特集は「原発と放射能汚染─東日本大震災Ⅱ」。前号に引き続いての大震災特集。
まだ全部を読んだわけではありませんが、読み応えがあります。
季刊ならではの、また「歴史・環境・文明」というイヴァン・イリイチや鶴見和子などの精神的バックボーンがある雑誌ならではの、問題に徹底して踏み込もうとする姿勢が見て取れます。
とりわけ今号は、根本的ないのちをめぐる鼎談、除染の方法、健康被害、原発の今の危険性、原発の開発の歴史における今回の事故の意味、安全規制政策、戦前戦後の電力政策、ストレステスト、「原発支持」の政治学など、総力をあげた紙面作りとなっています。大石芳野さんの福島の人々や風景の写真集からは、福島という土地の「まなざし」を隅々から感じ痛みが走りました。後藤政志さんの「事故状態が今も続いている福島原発」は、現在と事故当時の原発事故の真相を考える時必読です。「冷温停止」や「安定化に向かっている」という報道はいかに偽りであるかが分かります。
小特集は「沖縄の『自治』」。

2011年10月21日 (金)

思想運動」879号(2011年10月15日付)に『ハッキョへの坂』の書評が掲載されました

「思想運動」879号(2011年10月15日付)に、『ハッキョへの坂』の書評を掲載されましたので、転載させていただきます。同詩集の思いと方向性を、大変的確に掬い取ってもらいました。

『河津聖恵詩集 ハッキョへの坂』
深淵を越える「私」の共感
                                            山口直孝

 書名に選ばれ、巻頭にも置かれた『ハッキョへの坂』は、京都朝鮮中高級学校に通う生徒を詠んだもの。春先、桜の花びらが舞う中を、「あなた」が晴れやかにハッキョ(学校)を目指す。兄弟たちも学んだ場所で、「あなた」は、気を引き締めてウリマル(朝鮮語)を学ぶ。その「あなた」のことを、「透明な日本語」を話すもう一人の「あなた」が考える。もう一人の「あなた」は、まだ「あなた」との対面を果たせていない。もう一人の「あなた」とは、途中に出てくる「私」のことでもあるようだ。
  河津聖恵の第10詩集『ハッキョへの坂』は、「他者へ捧げること」(「あとがき」)を主意とする。明晰な方法意識によって、詩集ごとに新しい境地を拓いてきた河津は、新作において、人との出会いを柱に据えた。Ⅰには、2010年3月、朝鮮高級学校が高校無償化の対象から外された衝撃を契機に綴られた作品が収められている。『プロメテウス─尹東柱に』を契機に始まった在日朝鮮人との交流を踏まえ、河津は、疎外された者の痛みと怒りとを共感的に写し取る。社会的なできごとを題材としている点で、それらは事件詩と呼んでもよいかもしれない。けれども、本詩集には声高な政治的主張は聞かれず、むしろしばしば沈鬱な気配が漂う。それは、詩人であるがゆえに、言葉による相互理解を楽観視できず、「二人をへだてる深淵」(『シモーヌの手』)をつねに自覚するためである。困難を知りつつ、しかし、河津は、他者への接近を諦めない。熱意と知性によって、「あなた自身にも見えない/それが私に、見えた、見える、見えている」(『その輝きを見つめるために─ある出会いの日に』)時が訪れる。それは「よろこびが悲しみをわずかに越え」(『私たちの生があなたのドアを叩く─倉田昌紀さんに』る体験である。「あなた」と「私」とが「私たち」となりうる瞬間の描き出しには、あふれる喜びが伴っている。
 連帯の出発点に立った河津は、次の詩集でいかなる飛躍を遂げるのだろうか。「あなた」の言葉のゆくえを追い続ける。」

2011年10月19日 (水)

若松丈太郎『福島原発難民─南相馬市・一詩人の警告1971年~2011年』(コールサック社)

原発は一体今どんな状態なのでしょうか。Fu
本日の新聞には「原発輸出 当面撤退せず」とありますし、
昨日だったか事故収束予定より早く達成されそうだという報道も。
しかし冷却作業はまだ続くでしょうし
何よりもあふれつづける汚染水はどうなることかと心配です。

事故があって初めて気づいた原発という存在。
そのはかりしれない危険性。
とめどない不安。

明らかに3.11前と後とでは
まきちらされつづける放射能によって
風景の美しさも時間の意識も変わってしまいました。
くやしいですが、そのくやしさもまた
まるでそれこそ放射能のように、自分を含めたあらゆるところに放たれていき、
収拾がつかない。

若松丈太郎『福島原発難民─南相馬市・一詩人の警告1971年~2011年』(コールサック社)は南相馬市から原発の危機を発信してきた詩人のエッセイ+詩集。
若松さんは福島県相馬地方のいくつかの高校で国語を教えてきた元教師でもあります。

1971年(福島原発が発電を開始した年)に書かれたエッセイ「大熊─風土記71」から
今年の震災体験を綴った「原発難民ノート─脱出まで」まで、
40年の仕事を緊急にまとめて出版されました。

読んでいて、つらい気持になりました。
こうした現地のカナリアの声が詩の世界にはまるで届いていなかったわけです。
もしかしたら時折私の眼にふれていたのに擦過していたのでしょうか。
そうかもしれない。
新聞でも原発の記事はめんどうくさいと読み飛ばしていた私ですから。    

東北とは原発との関わりにおいていかなる時空であったのか。
次の箇所からだけでもその一端を感じ取ることができます。
土地の本来の魅惑と、国家や都市に強いられてきた「生きがたさ」。
どこか熊野に似ている、と思いました。
(そういえば紀伊半島も原発立地計画の対象となってきたし、今もそうです。)

「弥生文化が縄文文化にとってかわって以来、米作中心の弥生的生活様式は連綿と現在に至っていると言ってもよかろう。しかし、東北地方のとくに太平洋岸は、その地理的気候的条件によって、米作に不適であることは周知のとおりである。」

「五、六十年まえの大熊町にはシカが多く、鉄砲を背中に突きつけるようにして撃つこともできたという。そんな話を聞きながら、原発から三キロメートル離れた双葉町清戸迫古墳群で発見された朱描きの装飾壁画を思っていた。弓を手にけものみちを、シカ、カモシカ、イノシシを追った日々が千三百年の時間を超えてあざやかにたちあらわれる。日輪の霊気が降りて肩口から肉体を満たし、そのとき人間はもっとも人間らしく豊かであったにちがいない。
 だがいまは、……双葉郡全体がそうであるように、大熊町も例外でなく、一九四五年に約九千人であった人口を十年後の一九六四年までに実にその六分の一を流出させている。」

「ダムサイトをしだいに奥地に求めてコスト高となった水力発電と、大量の燃料を国外に依存ししかも恒常的に確保しなければならぬ火力発電とによっては、急増する電力需要に応じえない見通しに立って、おりから基礎公害がなく工事費・燃料費が安いという理由で開発されたばかりの原子力発電所の敷地を探していた東京電力は、大熊町と双葉町にまたがる長者原に着目した。長者原は海に臨む広漠とした台地で、戦時は磐城陸軍飛行場として本土防衛の基地であった。戦後入植された部分もあったが、ほとんどはふたたび荒地に復して、ときおり近くの小中学生が遠足で訪れ海を眺めながらべんとうを食べて帰る場所というぐあいであった。このように放置されていた土地だったため、東電は三百二十ヘクタールを二億五千万円(三・三平方メートル二百五十円)で簡単に買収することができた」                            (「大熊─風土記71」)

さらに、以下の詩ではすでに原発稼働から十年以内にすでに眼に見える異変があったことを、告げています。
比喩はなく事実だけを淡々と続けていますが、
こんな恐ろしい事実に比喩はいりません。
(ちなみに詩の後半では隠蔽されてきた様々な事故を知ることができます)

たとえば
一九七八年六月
福島第一原子力発電所から北へ八キロ
福島県双葉郡浪江町南棚塩
舛倉隆さん宅の庭に咲くムラサキツユクサの花びらにピンク色の斑点があらわれた
けれど
原発操業との有意性は認められないとされた

たとえば一九八〇年一月報告
福島第一原子力発電所一号炉南放水口から八百メートル
海岸土砂 ホッキ貝 オカメブンブクからコバルト六〇を検出

たとえば一九八〇年六月採取
福島第一原子力発電所から北へ八キロ
福島県双葉郡浪江町幾世橋
小学校校庭の空気中からコバルト六〇を検出

たとえば
一九八八年九月
福島第一原子力発電所から北へ二十五キロ
福島県原町市栄町
わたしの頭髪や体毛がいっきに抜け落ちた
いちどの洗髪でごはん茶碗ひとつ分もの頭髪が抜け落ちた
むろん
原発操業との有意性が認められることはないだろう
ないだろうがしかし

この本ではさらに、原発問題をうったえてきた詩人たちの仕事も知ることができます。
3.11後、永遠に突き付けられてしまった原発の恐怖。
詩がその恐怖に対し、いかに対極的に向き合うべきか。
詩人がその課題をくぐりぬけようとする時
この本は様々な貴重なヒントと情報がきっと与えてくれる思います。

2011年10月15日 (土)

10月8日辺見庸講演「それでも死刑は必要なのかー3.11の奈落から考える」

10月8日、東京新宿区の牛込箪笥区民ホールでShikei
辺見庸講演「それでも死刑は必要なのかー3.11の奈落から考える」を聴きました。

世界死刑廃止デー(10月10日)を記念した集会の第1部です。
(残念ながら時間の都合で後半部の120名の死刑囚のアンケート報告や、死刑囚の母である大道寺幸子さんが残された基金によって集められた死刑囚の文芸作品や絵画などの作品をめぐるシンポジウムは、聴くことができませんでした。)

辺見さんの講演は期待通り濃密な一時間半でした。
会場は超満員、入れなかった人はロビーでモニターで聴いていました。
耳を澄ませ眼を凝らす聴衆たちの熱気が終始会場にこもっていました。

辺見さんの話は内容もさることながら
言葉が声と一体となった強さで胸に迫ってきました。
ひとつひとつの言葉が3.11以後言葉に対して私達が感じている虚しさや不信感を
言い当てることで鋭く貫いていきながら
胸底に確かに差し込んできたのでした。

(以下、引用はメモから再現したので誤りがあるかもしれません)

「3.11に一体何が起こったのか、誰も語りえていない。数字や美談だけが次々と突き付けられるが、危機の本当の深さと意味を語る言葉はない。私達が欲しているのは、ナショナルヒストリーでメモリーでもない。個としての危機の深さと意味を語ろうとする言葉が必要だ。」

「3.11以後死と終わりの風景が間違いなく剥き出されてきた。なぜ見えなくし、美化するのか?  3.11以前の言葉や文化で真っ暗な陥没部分を埋められるはずかない。」

「もしパウル・ツェランの詩のような言葉に耳を傾ける社会だったら。ツェランの詩はファシズムを暗に描くが、言葉の底力、喚起力を感じない訳にはいかない。」

「3.11とは何だったのか? ①cogito ergo sumを手もなくなぎ倒し否定した。②モノ全般をなぎ倒し、これ以上ないであろうabstract artを現出させた。芸術、宗教、技術全的否定=神話破壊。③現在という書き割り的な時空間があっけなくめくりかえされた。」

3.11はそのような、ことばと世界の神話的破壊だったのに、
この国のひとびとは日常の慣性に無気力に乗り続けています。
そしてひとびとの無気力に支えられた国家は、
死刑さえもルーティンワークのようにこなそうとしているのです。

「明日人類が滅びる時に死刑を執行することは、もちろん最も愚劣である。今確定死刑囚は121人で戦後最高だが、産経新聞などメディアは早くやれといわんばかりだ。121人を絞首刑していないことが、生活に何か支障があるかのごとき報道だ。」

恐ろしい話です。

震災であれほどおびただしい人が死んだのに、この国は依然として死刑を執行し続けようとしています。
あるいはメディアが主導して死刑を求め続けているのです。
そんな非文明性、非人間性がある限り私たちの国家は先進国とは当然いえません。
(全世界の7割の国々がすでに死刑を廃止し、廃止の流れは、欧州だけでなくラテンアメリカや中央アジア、アフリカ諸国、そして東アジアにも浸透しています。例えば韓国は今年9月8日に死刑執行停止5000日を迎え、モンゴルでは2010年に死刑執行の停止を正式に宣言しています。)

死刑を肯定する限り
震災の死者ひとびとりに対する哀悼を、私たちは本当には持てないと思います。
「人を殺したから殺すのはとうぜんだ」という空気が日本に満ちているならば、
死刑囚は汚いゴミだ、人間じゃない、殺したっていい、という言説を
さして否定することもないままであれば、
そして死刑が執行される日も御飯を食べ笑い愛し合ったりもするならば、

震災の死者への哀悼も愛も悲しみもいつわりであると証されるでしょう。

「日本は、今ほどファシストにとって成熟した空気のできている時はないだろう。フクシマのメルトダウンよりも恐ろしい事態だ。」

恐ろしい指摘だと思いました。
しかし私もずっとそう感じていました。
フクシマの放射能よりも、排外主義や人権感覚の喪失、ファシズムの足音の方がもっともっと怖い。

ファシズムの足音。なぜなら他者のいのちの尊厳に対する感覚を失うことは
自分自身の思考を持てなくなるということだから。
「おもう」ことができなくなること、
何者かに容易に操られる生きる死体となることだから。

そう、生きることとは「おもう」ことなのです。

そして人は生きる間は、生きるための存在としてあらねばならない。
そのような根源的な感覚こそが大切です。

人は「おもう」限り生きている、生きるべきである、というアプリオリな実感が必要です。

最後に辺見さんは今年7月3日に読まれたある句を紹介しました。

「くらやみの いんえいきざむ はつぼたる」(表記がこれで正しいのか分かりません)

螢の北限が岩手か青森であることを思い合わせると
この「はつぼたる」は福島の螢かもしれない、と辺見さんは言いました。
つまり、フクシマの放射能に汚された螢ではないか?と。

「だが作者は30数年間、螢を見ていない。」

会場全体が一瞬息をのんだように静まった気がしました。

「なぜなら作者は死刑囚だから。そして病んでいる。だが彼はcogito(おもうこと)をした。独居房で、放射能の波動のように明滅する螢を一つ「おもった」のだ。「おもった」彼を殺していいのか?」

すごく印象的な講演の終わり方でした。
うちふるえるちいさな螢の光が
自分のいのちにも冷たくふれて過ぎていったような感覚をおぼえました。
「おもう」というのは闇の中に螢の光を灯すことなのだと実感しました。

今夜も小さな光が
独居房で明日への不安を抱えてうずくまるひとの中に生まれているのでしょう。
そのひとはたしかに生きている。
螢のように鼓動しながら「おもい」、生きている。
そのことを、この国のすべてのひとがおもわなくてはいけないはずです。

震災の死者、そしてすべての死者のためにも。

2011年10月12日 (水)

日光写真④鬼怒川温泉「月あかり花回廊」

鬼怒川温泉のイベント「月あかり花回廊」。京都の花灯路を参考にしているとのことです。この日が最終日でした。Nikko_hanajpg_2闇深く、光は美しく。

 また、温泉にも入ることができました。露天風呂では、しっとりとした夜の底で、すばらしくまろやかな水の感触を楽しむことができました。

久しぶり、闇と水音と光に心をまかせたひとときでした。

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