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2011年12月

2011年12月29日 (木)

来年もよろしくお願いいたします

今年も残すところあと2日。
例年であれば、おのずと気分がおごそかに静まっていく頃ですが
今年はやや落ち着きません。

3月11日で時間に大きな穴が開いてしまったまま
(壊れた原発の映像を見るたびに「時間が破壊された」と感じます)
そこからたえず不安な気流が生まれてきているようです。
時間が一年という周期で蘇るイキモノではなくなってしまいました。
何万年もの先まで続くトンネルの中にいるような気がします。

しかしそんな不安な実感をたしかに感じ取らざるをえないとはいえ
もう一方では、息もたえだえの時間というイキモノを励まして
新たに生まれ変わるよう手助けをしてやらなくてはならないでしょう。
年賀状を書いたり、掃除をしたり、おせちを作ったりしながらも
自分自身というよりも時間をいきづかせる気持がつよまっていきます。
けれど、そもそも新年の準備を私はじつはそういう気持で行っていたのではないでしょうか。
今年はとりわけそれを意識して行っているだけにすぎなくて。

これからは
すべての日常行為が私自身の生の次元を越え
よりいとおしいものとして意識されていくだろうなと予感しています。
時間を励ますように。
時間を祈るように。
もちろんそれは絶望や不安以上に
不思議な希望であるのかもしれません。

今年のブログは本日でさいごです。
一年間おつきあい下さり、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

2011年12月26日 (月)

「マスコミ各社の「北朝鮮」報道に対する抗議文(賛同募集!)」

マスコミ各社の「北朝鮮」報道に対する抗議文(賛同募集!)です。
ぜひ下記を御覧下さい。
http://usm-aichi.blogspot.com/2011/12/blog-post_25.html

私も賛同人になりました。
言葉を扱う詩人としてあたりまえだと思っています。

昨今のマスコミは、自浄能力や社会批判能力をみずから放棄してしまっています。
マスコミの側が世俗の言辞に煽られているのです。世俗に煽られ、世俗を煽っています。
情けないかぎりです。

本来、広く伝播する力を持つマスコミには社会的な責任があります。
それは
自分の眼で見て真実を伝えるために
自分に与えられた特権的な言論の力をふるう、という責任です。
しかし今のマスコミはそんな責任も勇気もないようです。
世俗や権力におもねり
他者を傷つけるためにやすやすと言葉の力をふりかざしているだけのように見えます。
日本語と他者の双方の尊厳を傷つけています。

そんなマスコミの「北朝鮮」報道に対する姿勢は最も醜悪で低劣なものです。
見出しを見るだけでもおぞましい。
このたびは朝鮮学校に入り込んで無断で生徒にインタビューを取ろうとしたとか。
その時、生徒さんはどんなに怖かったでしょうか。
もはや外部から問わなければ
マスコミは自分の姿が分からなくなってしまいました。だから抗議です。
もちろんそのようなマスコミの堕落は「北朝鮮」報道だけに限りません。

皆様にも上記URLの抗議文にご賛同頂くことを願っております。

2011年12月25日 (日)

紀州・熊野に行ってきました

23日から24日にかけて紀州・熊野に行って参りました。Ezura20111124jpg_2
短い時間でしたが、白浜と田辺をめぐりました。
今回も彼地の詩人、倉田昌紀さんに案内してもらいました。

23日の夕方には田辺市立美術館で、
「原勝四郎の日本画」という展覧会を見ました。
原勝四郎は、私の詩集『新鹿』でその油彩画「江津良の海」(宿は写真のこの海のそばにとりました)を使わせて頂いた画家で、
3月初めに同美術館で講演「原勝四郎が放ち続けた詩の光」と題して講演もさせて頂きました。

田辺出身で白浜を描き続けた画家です。
骨太な描線で、対象から受けた波動を直裁的に見事に表現する
郷土に根ざしたフォーヴ、外光派とも言える斬新な作家です。

日本画は余技だったとのことです。戦争期と晩年に筆をとっています。
しかしやはり型破りな原は、日本画に定型的な題材の描き方ではなく
下絵なしでいきなり筆を下ろすことが多かったようです。Nihon_3
もちろんきちんと観察もスケッチもしています。
墨にもよく見れば緑やピンクが混じっていたり
ひそかにダイナミズムをしのばせている。
学芸員の三谷渉さんには特別に解説までして頂き、
私にとって原勝四郎の世界がさらに立体的となりました。

これまでの油彩画の展示会でもそうでしたが
原の絵は一点一点、私をその前に佇ませてやみません。
この数年画家の日記や生きた歴史や白浜での足跡を辿ったからでしょうか。
あるいは
2007年からこれまで10回以上紀州・熊野を訪れ
その自然や文化や人間と交感したことで
原勝四郎の美的細胞の一つ一つに滲みていたものが
いつしか私の中にも感じ取れるようになったからでしょうか。

紀州・熊野は私の故郷ではありません。
私の故郷は東京です。
だからといって私にはあらかじめ故郷がないと言えるのか、
あるいは故郷を故郷としてまだ見出すことができないだけなのかも分かりません。
いずれにしても紀州・熊野はこの故郷を愛する人にとっての故郷なのですが、
そうした人々の言葉や感性やまなざしを借りることで
私はまぼろしの故郷を手に入れているということでしょうか。
それとも
故郷を愛するという他者の欲望によって触発されることで
ようやく自分自身の故郷に向かおうとしているところなのでしょうか。Sazanami20111224jpg_4

とにかく今回も彼地の美しい自然と「故郷性」に抱かれ
しっかり癒されることができました。

なお写真下は、江津良の海岸にある、とても珍しい「さざなみの化石」です。これを見るたびに自然は浪漫主義者だなとつくづく思います。

2011年12月22日 (木)

朝鮮学校に対する大阪府私立外国人学校振興補助金の昨年度通りの交付を求める談話

   本日(12月22日)15時、大阪朝鮮学園と大阪朝鮮学校校長会、大阪朝鮮学校保護者会の代表が、大阪府政記者クラブにて記者会見を行いました。
   昨日大阪府議会で決議された、朝鮮学校への補助金の大幅減額予算の決定を受けての談話が発表されました。参加された保護者のオモニは、涙ながらに訴えておられたということです。
 本当に何という酷いことをと思います。みんな地域社会で必死に真剣に生きてきたのです。朝鮮学校が長い間かけて培ってきた地域での信頼関係はもちろん、スポーツや芸術や学業で生徒達が頑張って、この日本社会で認められてきた数々の輝かしい実績を、皆知っているではありませんか。しかし維新の議員たちにはそんなものは、取るに足らなかったのでしょうか。橋下前知事が突き付けた4条件に対して学校側が最大限に払った努力など、見てもいなかったのでしょうか。ただ橋下氏と世間に対する自分たちの「政治手腕」の見せ場に使ったのでしょうか。つまりは橋下の4条件提示も最初から、この決議に至るように計算されたものだったのでしょうか。騙された、と言ってしまえばそれまでですが、21世紀の今、他者をこのようにスケープゴートに仕立てるなどということはあってはならないことです。さらに、このような「手法」はさらに別の他者へと使われていくはずです。日本の未来のために、たゆまずひるまず、ふたたび広く訴えてまいりましょう! 

「朝鮮学校に対する大阪府私立外国人学校振興補助金の昨年度通りの交付を求める談話」

 昨日12月21日大阪府議会は、大阪朝鮮学園に対する補助金を、昨年度予算の約10分の1とすることを決議しました。この大幅な予算額引き下げ決議はあまりにも唐突で、一方的に決定がなされたもので、学園関係者ならびに保護者は大きな驚きと失望、憤りを禁じえません。
 昨年3月12日橋下徹前知事は、府内の朝鮮学校を視察した際、補助金交付にあたって4項目の要件を提示し、その執行を留保しました。
 これを受け学園側は、一年間にわたり理事会や保護者らとの議論を深めると同時に、担当部署である府民文化部・私学大学課の皆さんとも真摯に協議を重ね、今年3月8日検討結果を大阪府に報告しました。それを受け大阪府は、初級学校および中級学校は4要件を満たしているとの前知事の了承のもと、2010年度分の補助金を初・中級学校に対して交付し、今年度分については補正予算において措置するとされました。一方高級学校分は停止が決定してしまいました。
 今般の議会決議は、4要件の厳格確認という名のもとで、一方的に要件の解釈を拡大したばかりでなく、規制を前提にするようなものとして大きな驚きを禁じえません。
 朝鮮学校(朝鮮学園)をあたかも犯罪者のように扱い、つるしあげるかのような偏見に満ちた議論は許されるものではありません。このような中で交付される「外国人学校振興補助金」は、もはや「補助」とは呼べず、教育に対する政治的な干渉に他なりません。仮に、補助金支給が教育に対する政治干渉、圧力の一つとして利用されるなら、児童生徒の人権、学習権を侵すものとして、その不当性をあらゆる方法を持って、広く訴えて行かなければなりません。
 同時に、私たちは今回の決議が、社会の一部に根強く残っている、朝鮮学校児童生徒への暴行暴言を始めとする朝鮮人バッシングを助長するものであることを、懸念せざるを得ません。
 したがって私たちは、議会決議された修正予算を受け入れることは到底できません。また、長きに渡って補助金が交付されてきた経緯からも、当然引き続き支給されるものだとの互いの信頼関係を度外視し、保護者や生徒に多大な精神的、経済的損害を与えること、また朝鮮学校だけに過重な要件をつけることは明確な差別にあたり、地方自治体が遵守すべき信頼保護と平等原則に著しく違反する行為で、決して容認できるものではありません。
 大阪朝鮮学園は、日本の義務教育機関にあたる初級学校6校、初・中級学校2校、中級学校1校、そして後期中等教育機関にあたる高級学校1校を府内に設置する学校法人です。
学園が設置する朝鮮学校は、日本の小学校、中学校、高等学校と同等の水準による普通教育を行い、在日コリアン社会のみならず、日本社会と国際社会において活躍しうる有能な人材を育成することを教育目的としており、学校教育法に基づく各種学校であり外国人学校です。
 65年以上の歴史を持つ朝鮮学校には、現在朝鮮籍、韓国籍のみならず日本籍の在日3世から5世の子どもたち約1600人が在籍しています。大阪朝鮮高級学校ラグビー部は、大阪府代表として、全国高校ラグビー大会への3年連続6回目の出場も決めています。
 今日まで朝鮮学校を維持・発展させる上で、大阪府の補助金は大きな支えとなり、励みとなってきました。
 私たちは今後とも、外国人学校としての自主性を堅持するとともに、学校教育法上の法的要請に基づき、適正な学校運営を行っていく所存です。
 私たちは、大阪府が朝鮮学校に対する私立外国人学校振興補助金を昨年度に準じ交付することを強く要求するとともに、朝鮮学校に通う子どもたちの学びの場に対するいわれのない疑念や偏見が一日も早く払拭されることを願ってやみません。

                      2011年12月22日

                           学校法人 大阪朝鮮学園
                            大阪朝鮮学校 校長会
                               大阪朝鮮学校 保護者代表

許さない、そして許されない─大阪の朝鮮学校補助金カット

 昨日の大阪府議会決議(府内の朝鮮初中級学校9校への補助金計約8300万円を1校分約800万円に減額)についての記事です。
 まだ職員室に肖像画がのこっているから。それだけが理由です。そんないいかげんで、最初から意図的なやりくちが、数をたのみに府決議としてまかりとおる恐ろしさ。大阪維新の会は、朝鮮学校の歴史を知ろうともせず、生徒の姿を見ようともせず、このような蛮行を決行しました。許さない、そして、許されない。大阪を、教育を、子供たちの心を、怠惰なマスメディアに誘導された俗世間の意向にそって踏みにじることは、この国のより良く生きようとするすべての人間が許しはしない。そして国の歴史を見守るすべての死者たちに許されはしないはずです。

2011年12月22日朝日新聞朝刊
「子と拉致 関係ない」─大阪の朝鮮学校補助金カット

 大阪の朝鮮学校に対する府の補助金の大幅カットが21日決まった。問題視されたのは、拉致問題が解決していない北朝鮮との関係や、金正日総書記らの肖像画。限られた一面に注目が集まることに、保護者や学校を知る人々は「またか」と落胆した。
「朝鮮人であることに誇りをもって、堂々と本名を名乗れるように育てたい。その権利を政治に踏みにじられた思いです」。公立高校の民族講師をしている黄裕子さん(37)は今年、7歳と4歳の息子を中大阪朝鮮初級学校(大阪市東成区)の1年と幼稚園に入れた。
 自身は公立学校の出身。「周りと違う」と引け目を感じて生きた経験がある。朝鮮学校では在日の歴史や民族名を名乗る意義を学べる。いきいきと通う姿を見て、良さを実感した。
 肖像画は正直、身近ではない。ただ、「子の将来を考えて下ろすかどうかは、保護者と学校が話し合って決める問題。補助金のために下ろすのは違う」。夫とはそう話してきた。
 今年度、小中の計8校約1100人分が削減された。府内の初級学校の校長は「橋下徹前知事が出した条件で真剣に討論してきたのに、議会は次の条件を言い出した。約束違反ではないか」と嘆いた。教員の給与は何年も滞りがちだ。補助金カットは重くのしかかる。
 弟の薫さんが2002年まで北朝鮮に拉致されていた蓮池透さん(56)は「在日の人、特に子どもは拉致問題に関係がない。拉致問題を持ち出すのはおかしい。八つ当たりのような気がする」と話した。
 国の審査 継続中
 朝鮮学校が、昨年度から始まった国の高校無償化制度の対象になるかの審査は、文部科学省でいまも続けられている。審査が通れば、生徒1人あたり約24万~約12万円が支給される。
 都道府県独自の補助金は対応が分かれる。東京都の石原慎太郎知事は今月、「反日的内容の教科書」などを理由に、新年度は予算計上しないことを検討すると表明。兵庫県は「朝鮮学校も他の外国人学校と同様に扱う」として、従来通り補助金を支払っている。
 問われる 社会の成熟度
《解説》北朝鮮という対話の難しい国家との向き合い方と、在日朝鮮人の子どもたちの権利がまた同一線上で語られた。
 確かに、朝鮮学校は北朝鮮と無縁とは言えない。北朝鮮から多額の支援を受けた歴史的経緯から、金正日総書記らの肖像画を掲げている。だが、時代は変わった。今、肖像画への賛否は内部でも分かれる。
 拉致や核の問題と朝鮮学校を安易に結びつける排外的な空気の中で、子どもたちは繰り返し傷つけられてきた。今回の補助金カットも差別と刻まれてしまうことだろう。
 折しも、金総書記の急死で北朝鮮が抱える様々な問題が報じられる。朝鮮学校の子どもや保護者は登下校にも神経をとがらせ、ハリネズミのようにして我が身を守るのに必死だ。
 橋下徹前知事と大阪維新の会は補助金を盾に改革を迫ったが、少数者を孤立に追い込むやり方は、多民族・多文化共生をめざす社会とは相いれない。
 日本も批准している国際人権規約や子どもの権利条約に民族的マイノリティーの権利がうたわれている。この問題で試されたのは、多数派が少数派の立場をどれだけ想像し、権利を尊重できるかという社会の成熟度だった。(多知川節子)

『ヒクメット詩集』(ナーズム・ヒクメット、中本信幸編訳、新読書社)

ある人から思いがけないクリスマスプレゼントが届きました。Hikumet
『ヒクメット詩集』(ナーズム・ヒクメット、中本信幸編訳、新読書社)。
ちょっと驚きました。
こういう詩がまさに今読みたかったのだと詩集を開いて思ったからです。

ヒクメット(1902~1963)はトルコの詩人です。
ランボーやマヤコフスキーに影響を受けつつ
民族解放運動に加わり、投獄され、世界の世論におされて釈放されます。
その後世界の平和運動の先頭に立っていきます。
やがて亡命先のモスクワで亡くなります。

昨日の記事で、
原発事故のあと、息を吹き返した過去の記録映画の一つに
マリアン・デレオの『チェルノブイリ・ハート』があるといいましたが
この映画の冒頭にヒクメットの詩「生きることについて」が流れるそうです。
これも素晴らしい詩ですが、
何よりもこの詩集では
アメリカ支援のためのトルコの朝鮮戦争参戦への告発詩が目を惹きます。
一昨日報じられた
朝鮮民主主義人民共和国の指導者金正日総書記の突然の逝去とも符合して
感慨深いものがあります。

トルコが朝鮮戦争に参戦していたこと。
そんなことをどれだけの日本人が知っているでしょうか。
トルコまでが参戦した朝鮮戦争とは何だったのでしょうか。
そこで何が行われたのでしょうか。
日本はそこからまず考えなくてはならないはずです。

アフメッドに ──クラーク将軍麾下に

アフメッドよ 朝鮮では雨がふりしきっているんだね
おまえは
おまえの小銃の銃口のあとから
泥濘の地面を
はっているのか
額の血管がはれあがり
眼にはもやがかかり……
アフメッドよ おまえはだれを殺しにゆくのか

七つの海のむこうに
家人たちとともに
おまえのアナトリアはとりのこされた
家人たちは今年
税金を払えなかった
赤ちゃけた牡牛がへたばった
弟はいない
出稼ぎにいった
アフメッドよ おまえはだれを殺しにゆくのか

七つの海のむこうに
村人たちとともに
おまえのアナトリアはとりのこされた
村人たちは今年
地主のアリに土地を要求した
憲兵と乱闘した
おまえの母親は傷ついた
おまえの隣りのドウルスンは殺害された
おまえのくにのものたちは刑務所に入れられた
アフメッドよ おますはだれを殺しにゆくのか

(略)

べつの軍隊をこの国はみたのだ
偉大な北方からその軍隊はきた
それは日本の圧力にうち勝った
それはここに幸福の苗をうえた
代償をなにひとつ求めなかった
その軍隊は帰るとき
見送られたのだ こんなことばで
「兄弟たちよ ゆるしてくれ
心でねがうようには
感謝をあらわせないおれたちを
あなたたちの思い出は
永久に生きつづけるだろう
工場のけむる煙突のなかに
工場のサイレンのなかに
おれたちの田畑の黄金の種のなかに
おれたちのほほえむ眼のなかに……」
アフメッドよ 春にはこんな夜明けはよくあるじゃないか
家を出ると
世界はまるで
よい知らせがきたみたいな
北鮮の人たちには
毎朝
毎夜
自分の国がそのようだった
真の自由があった
土地は
すべてに分配されていた
鉄道
    金
      石炭
畑の雨
山の風

 雲
    日光
学校
    工場
        託児所
              病院
                  幼稚園
すべては共有だった
人民は仕合わせだった
アフメッドよ おまえはだれを殺しにゆくのか
アフメッドよ だれを だれを
この地上に
実現された 自分の夢 ではないのか それは。
(後略)
 

2011年12月21日 (水)

土本典昭『原発切抜帖』(二)

上映後の
映画評論家の木下昌明さんの話も大変興味深かったです。

原発の事故のあと
歴史的に埋もれていた記録映画が息を吹き返した。
例えば亀井文夫の『世界は恐怖する─死の灰の正体』(1957)
マリアン・デレオの『チェルノブイリ・ハート』(2003)
そしてこの『原発切抜帖』(1982)

しかしこの映画は、危機感の薄い当時は
木下さんでさえ眠くなったそうです。
青森の漁民に見せたら、ほとんどの人が眠ったといいます。

けれど木下さんは今度見て
当時の土本さんのつよい危機感を感じ取り驚いたそうです。
二十年後、三十年後を警告していた映画なのです。

以下、木下さんの文章からです。
「初めは水俣病映画をつくっていて、そのナレーションの資料として記事を切り抜くことを思いついた。そこで、水俣病の記事ばかり切り抜いていたが、そのうち環境汚染問題から原発問題へと関心が広がっていったという。」

「土本はどこかで『記録しなければ事実もない』と語っていたが、ここではその第一前提が記事を切り抜くことだった。切り抜いて、それを自分の世界に引き込んでくることだった。」

「最初、土本は普通の原発ドキュメンタリーをつくるつもりだったらしい。そのために原発のある地方を歩きまわったが、原発関係者と接触しても警戒心がつよく、近よれなかったという。そこで記事だけの映画づくりを思い立ち、原発問題にくわしい高木仁三郎に監修を依頼し、ナレーションには、中学時代一年下だった俳優の小沢昭一に頼んだ」

「なぜ新聞記事だけに限ったのか。一般に記録映画といえば、誰にも知られていないことを撮るのに力をそそぐが、ここでは反対に誰もが一度は目にした記事を取り上げたのだ。それによってみたはずなのに忘れてしまっている、そんな記事に焦点をあてて逆に記憶を喚起させる。そのこで忘れていた『現実』を意識化させる。」

「このように『原発切抜帖』は、核エネルギーでは銅貨の裏表である原爆・原発に関するあらゆる事故や問題を網羅しているが、それが雑多でありながら同時にいまのフクシマ問題と重なっている・響き合っていることだ。」

木下さんも語っていましたが、
土本さんはすごく行動派で、観客と一体化して映画を作ろうという作家でした。
水俣では「巡海映画」といって、
不知火海沿岸をめぐりながら上映会を開き、患者さんに見てもらい、感想をきき、また。
それを製作に生かしていくということを繰り返したそうです。
その思想には、武井昭夫さんの「読者を組織化する」という考えの影響があります。
つまり誰のための、何のための映画か、という意識で
対象に迫っていくという撮り方ですね。

私はこのような土本さんの姿勢にはとても共感します。
私自身の、紀州をフィールドワークして『新鹿』や『龍神』の詩を書いた二年間も、
どこか土本さんと同じ方向性を私なりに模索したのではないか
などと、色々思いを巡らせているところです。

2011年12月20日 (火)

土本典昭『原発切抜帖』(一)

一昨日、大阪・南森町にある「スペース小川町」においてTsuchimoto
「小川町シネクラブ・関西」第5回上映会がありました。
すぐれたドキュメンタリーや劇映画を定期的に上映している少人数の映画鑑賞会。
今回の上映映画は、土本典昭『原発切抜帖』です。
上映後に、映画評論家の木下昌明さんによる解説がありました。
その後の、鑑賞者たちによる討論も含めて、大変触発されるものがありました。

土本典昭さんのドキュメンタリー映画を見たのは今回が初めてです。
土本さんは水俣病の映画で有名な記録映像作家ですが、
1982年作のこの映画は大変斬新なセンスで原発問題に迫っています。

斬新というのは、この映画には、人物や風景ではなく
新聞の切り抜きだけが次々と映し出されていくからです。
広島の原爆から始まる原子力関連のおびただしい記事のかずかず。
それらに小沢昭一さんの軽妙な語りが、鋭い解説を加えていきます。
ことばが記事と記事をつなげると、事実と事実がつながり、
今のフクシマへと必然的に至る物語が
見る者の一人一人の胸に炙り出されていきます。
カメラは記事の横にある写真や漫画や広告もとらえ、
原子力の物語の周辺をいろどった時代の風俗や風潮を浮かび上がらせることで
見る者は自分の生きていた日常が
いかに危険と隣り合わせだったかを思い知らされるのです。

映画は広島の原爆から始まります。
原爆が投下された翌日は「焼夷弾爆弾」としていた小さな記事と
九日後の敗戦後「原子爆弾」という大きな記事の対比。
これはショックです。
「日本政府は、最初からちゃんと原爆であることを知っていた」
「日本側も原爆製造をもくろんでいたので原爆投下も十分承知していて、広島や長崎の人々を見殺しにしたのだ」
この真実は今年8月6日のNHKスペシャルで初めて公になったそうですが、
土本さんはこの映画で30年前にすでに鋭く指摘していたわけです。

そして米ソの核実験。
第五福竜丸事件で日本が騒然となっていったこと。
しかしアメリカについては
じつは国内でのネバダ砂漠での実験の方が遙かに多いということ。
映画俳優のジョン・ウェインが『征服者』(1956年)の長期ロケによって
多くの俳優やスタッフと共にがん死していること。
アトミック・ソルジャー(核爆発直後に、爆心地に突撃した兵士)だった
ある兵士が
治療のために来日した時に見せた膨れあがった片腕(写真)。
旧ソ連の北極圏やウラジオストクでの実験。
その時の「死の灰」の雨水を飲んだために白血病になった山形の灯台守。

そして日本の原発状況。
81年の敦賀原発の放射能もれの事故。
現場で処理にあたった下請け作業員は、素手でぞうきん掛けしている。

核のゴミ問題も取りあげられています。
当時、すでにドラム缶に30万本あり、1700本が相模湾や駿河湾の漁場に捨てられていたという。
それが南の島まで拡がり反対運動に遭っている。

映画は土本氏が
記事に切れ味のいいハサミを入れつづけるシーンで終わります。

2011年12月18日 (日)

ガルシア・ロルカ「水に傷ついた子供のカシーダ」

辺見庸さんの『眼の海』を読んでから
レクイエムが気になり始めました。

たとえばこんなレクイエム。
これを初めて読んだ時、溺死した子供への挽歌かと思いました。
けれどそれにしてはやや難解です。
いずれにしてもここにあるシュルレアリズムの美しさは
胸を直接的に射るものがあるのですが。
ある解釈によれば
この「子供」とはロルカの故郷であるグラナダとのことだそうです。
あるいは正確にはグラナダの美しい魂のことであるとも言っています。
かつてアラビア時代に繁栄してから凋落していったグラナダ。
この詩が書かれたのは1936年前後のようですが、
その頃、スペイン内乱が始まり
グラナダでもファシストが巻き返しをはかり
人民戦線の側に立つロルカはここで暗殺されます。
「子供の死」はロルカ自身の予感なのでしょうか。
何か甘美な胸騒ぎを覚えるレクイエムです。

水に傷ついた子供のカシーダ
                        ガルシア・ロルカ(小海永二訳)

わたしは井戸に降りて行きたい、
グラナダの壁をよじり登りたい、
水の暗い錐(きり)で
刺し貫かれた心臓を見つめるために。

 霜の冠をかぶって
傷ついた子供が呻いていた。
池や天水溜めや泉たちが
風に向かってそれぞれの剣を振りあげていた。
ああ なんという愛の怒り、何と人を傷つける刃(やいば)、
何という夜のざわめき、何という白い死だろう!
何という光の砂漠が
暁の砂地を徐々に沈めていたことか!

子供はひとりぼっちだった
その子の咽喉の中には眠る町。
夢からほとばしる噴水が
子供を水草の飢えから守っている。
子供とその子の末期の苦悶とは、向き合って、
結び合う二本の緑の雨だった。
子供は地面に横たわり
その子の末期の苦悶がかがみこんでいた。
 
 わたしは井戸に下りて行きたい、
一口ずつ味わいながらわたしの死を死んで行きたい、
わたしの心を苔でいっぱいに満たしたい、
水に傷ついた子供を見るために。

*カシーダ:アラビアの詩型の一つ。リズムある短い定型の詩。

2011年12月16日 (金)

辺見庸『眼の海』(二)

レクイエム。挽歌。
それは、おのずからうたわれるものであり、
悼もうとする思いこそが詩を詩として輝かせ、また翳らせるのではないでしょうか。

詩の本質にはたしかに挽歌の衝動があると思います。
悼む力によってこそ
この世の秩序を突き抜ける、あるいは解体する
宇宙的とさえいえる高さと深さのメタファーやイメージを獲得しうるのだと思います。

しかし、悼むことは難しいものです。
なぜなら私たちは生きているから。
生きることとは死を否定することなのだから。
それに対し、悼むことはむしろ死を受容することで、
自分を壊し、他者だけでなくこの世に拠って立つ自分をも
みずから喪っていくことなのでしょう。

『眼の海』を読みながら次のようなことを考えていました。
ことばという「生きる力に拠ってしまうもの」
あるいは「生者の権力の下にあるもの」によって
無と有のへりにそっといきづく死者のために何ができるのか。
喪った者をことばによって蘇らせたいという欲望は
悼むこととは真逆ではないのか。
死者は生者がどうあがいても蘇らないのではないか。
むしろ死者は生者の欲望にふたたびころされていくのではないか。
だから生者のことばの秩序の中に引き入れることはできないし
してはいけないのではないか。
少なくとも死者の側はそれをのぞんではいないのではないか──。

『眼の海』の詩篇には
死者には、有と無のへりに静かに
有と無のあわいにある「いのちなきいのち」として在ってほしい、
という願いがこめられています。
永遠のむくろとして藻のように揺らめくという死者たちの生の
その揺らめきに「わたし」は耳を澄ませて共振したい、
そしてその共振のままにことばを紡ぎ出したい、
かれらが漂着した浜に吹く風にたちまじりたい、
かれらの眼に口に手に花を吹き寄せたい、海の底に繁茂する死者の枝をあやしたい──。
この詩集では
「わたし」は「わたし」の散逸として
「ばらけた莢蒾(がまずみ)の赤い実のようなことば」を
手放していこうとしています。
その願いの中から
死者の海は眼の奥に始まったのです。それがこの詩集の発端だと言えるでしょう。
そして「わたし」は入江そのものになり
永遠に終わらない日の暮れを
死者の方へ暮れていくことを試み続けるのです。
死者はまだ「そこ」にいるのですから。
「わたし」の眼のおくから「死者たちの海」は
もはや世界へとふきでてしまったのですから。
この詩集で「わたし」が「とぎれなく終わっていく」運動としての詩は
まるでいのちのように終わろうとして終わりえず、むしろ宇宙のように深化していくのです。

矯めなおしにきたのではないだろう
試しにきたのでもないだろう
罰しにきたのでもないだろう
莢蒾の赤い実のほかは
一個の浮標(ブイ)もない
あなた 眼のおくの海

あなたはきたるべきことば
繋辞(コプラ)のない きたるべきことば
もう集束しはしない
ばらけた莢蒾の赤い実のようなことばよ

わたしはずっと暮れていくだろう
繋辞のない
切れた数珠のような
きたるべきことばを
ぽろぽろともちい
わたしの死者たちが棲まう
あなた 眼のおくの海にむかって
とぎれなく
終わっていくだろう
                                   (「眼のおくの海──きたるべきことば」部分)

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょのことばを
百年かけて
海とその影から掬(すく)え
砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで
                (「死者にことばをあてがえ」全文)

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