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2012年3月

2012年3月31日 (土)

3月30日付朝日新聞朝刊「君が代 教諭の再雇用取り消し」

昨日の朝日新聞社会面に素晴らしい取材記事が掲載されていましたので、アップします。

生徒を大切に思うがゆえに君が代斉唱時の起立しなかった教諭が
再雇用を取り消されました。
この先生の深い思いと橋下さんの処罰の理由を読み比べてみれば、
後者の異様な浅薄さが浮かび上がります。

なぜこれほど浅い無理な論理を駆使してまで、不起立教員を罰しようとするのか。

君が代条例において「君が代」起立斉唱は
教育においてとても大きな行為のように言挙げされますが、
ここで言われているように
じつは本来はとても小さな、生徒の記憶にも残らない行為であったはずです。

かなり前のことになりますが私などは歌ったかどうか記憶にもありません。
「君が代」とはもし存在すべきだとすれば
そのような空気のような存在であるべきものではないでしょうか。
強いられ、罰をおそれて、石を呑み込ませられるように
歌うものではないはずです。

いえ、「君が代」だけでなく「歌」とは強いられてはならないもの、
生命の発露としておのずとうたわれるもの、
人と人をつなぎ、関係性を蘇生させ、
共同体に歓喜を与えるものでなくてはならないはずです。

「君が代」は今それとは真逆に、人を分断し、共同体を苦悩で縛るものになっていないでしょうか。

橋下流考:不起立は罪ですか?
君が代教諭の再雇用取り消し
──大切なもの 生徒の外側じゃない

 卒業式で君が代を立って歌わなかったとして、大阪府立高校の男性教諭(61)が4月からの再雇用を取り消された。大阪で、君が代を理由に先生が職を失うのは初めてだ。13年前に国旗国歌法ができたとき、私は全国の卒業式のルポを書いた。今、その時とは比較にならないほど不起立教員を見る社会の目は冷たいと感じる。この話題を取り上げるだけで「ルールを破る教員の言い分をなぜ掲載するのか」と読者から抗議を受ける。でも、不起立は人から職を奪うほどの大きな罪だろうか。答えを求めて、再雇用を取り消された男性に会いに行ったも。
 工業高校で機械実習を教える、小柄で笑顔を絶やさない男性だった。 18年前にこの高校に来て以来、毎年、卒業式の朝には時間休を取り、校門の外で「卒業おめでとう 国旗・国歌の強制に反対します」と書いた手製のビラを保護者や生徒に渡していたという。その後式典に参加し、国歌斉唱の時は教員席で着席。今年の卒業式は非番だったので休暇を申請しなかったが、それ以外は昨年までと同じ行動を取った。式が混乱したり、保護者や来賓から苦情が来たりすることもなかった。
 だが9日後、府教委から戒告処分を受けた。理由は「勤務日でないのに学校に来て、校門の前で職務命令に違反する内容のビラを配り、校長から保護者席に座るよう指示されていたのに教員席に来て座った」。
  教諭は「文面だけみると、どこの過激派かと思うでしょう」と笑う。でも、強制に反対する思いは素朴だ。
  学生時代、竹本源治の詩「戦死せる教え児(ご)よ」を読んだ。「逝(い)いて還(かえ)らぬ教え児よ/わたしの手は血まみれだ/君をくびったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において」。教師になるにあたり、「国家よりも個人を大切にする」という誓いは動かせないと思った。
 「もう一つ。生徒の外側をそろえることにも抵抗がありました」。工業高校に通う生徒の偏差値は高くない。勉強についていけず、投げやりな態度を取る生徒に、授業中は前を向け、寝るな、なんて外側の話ばかりしたらすべてが止まってしまう。「だるいと言われても、横を向いていても、気持ちはいつでも受け止めてると態度で示し続けることが大事。まじめに授業をしていれば『伝わった』とわかる瞬間が来る」。生徒とバトルを繰り返しながらつかみとった揺るぎない思いだ。
 君が代の強制は、究極の「外側をそろえる行為です」。そこにこだわるあまり、大切なものが失われはしないか。
 この仕事は大好きだ。いつも笑顔なのは「明るくしていれば、生徒が年の離れた大人と話をするきっかけになる」から。最近は、就職してもすぐにやめてしまう卒業生が目立つ。「みんな社会に出て年や立場が違う人間と話すのが下手だから、心配なんです」
 卒業式の国歌斉唱は、そうした教育活動の何万分の一にすぎない。それをすべてのように言う主張に職を奪われたことは「率直に悔しい」。手取りで月15万円の収入を失うのも痛い。堺市と大阪府に講師登録をしたが、処分歴があると再就職は難しそうだ。
 教諭は29日、大阪府人事委員会に今回の処分について不服申し立てをした。

不起立教員を巡る橋下市長発言
「一教員がルールを無視して座るなんて言ったら民主国家は成り立たない。不起立教員は公務員をやめなきゃ」「教育で一番重要なことはルールを守ること。自分の考え方と違っても社会のルールに従う。これを教員が子どもに教えられないでどうするのか」(3月14日、記者会見で)
「当たり前のことをわからない人が教育現場にいるのがおかしい。思想・信条の問題ではなく、服務規律の問題。教育委員会はきちっとマネジメントしてほしい」(3月21日、記者会見で)

同僚「慕われる先生」
府教委は、教諭の再雇用を取り消した理由を「勤務実績が良好でない」と発表した。だが校長や同僚は、教諭の教師としての力量を高く評価する。校長の今年度の評価は、「学ぶ力の育成」「自立・自己実現の支援」とも「十分」で、総合評価も5段階で2番目に高いS評価だった。
「人の輪を作るのが得意。ソーラーカー部の顧問。地域や企業との連携も熱心で、休日をいとわず働いていた」と校長。戒告処分を受けた際、教諭は府教委から「上司の職務命令には従います」という誓約書を持ち帰った。校長は「先生を失いたくない」と提出を促した。教諭は署名・押印して出したが、再雇用は取り消された。
 同僚の一人は昨春、生徒らが定年を迎えた教諭を胴上げしたのを見
た。「あんなに慕われる先生は他にいない。生徒を尊重し、決して馬鹿にしないから、どんなワルも心を開く」。処分取り消しと再雇用を求め、同僚の8割を超える署名が集まった。
 府教委教職員人事課に、再雇用更新を拒否した理由をたずねた。
 昨年、教職員に国歌斉唱時の起立を義務づける君が代条例が成立し、今年1月には全教職員に起立斉唱を求める職務命令を出すよう通達を出した。にもかかわらずビラを配布し、着席したことは「勤務実績が良好とは見なせない状況」になった。だが教諭はこの日は非番で職務命令は出ていない。「休みの人間に職務命令は出せない」(校長)からだ。府教委は「事前の校長からの指示を口頭での職務命令とみなした」としている。

社会の圧力強い─取材の記者は

 君が代条例成立後初の卒業式の取材は緊迫感が漂っていた。カメラが追うのは生徒ではなく不起立教員の有無。校長の取材も不起立の指導に集中し、不起立教員がいた中学校には脅迫めいた抗議電話が相次いだ。
 今回の記事には当初、教諭の笑顔の写真をつけた。温かな人柄が出ていたから皆さんに見てほしかった。でも直前に「自分は何ら恥じるところはないが、学校や家族に迷惑がかかる」と、断りの電話があった。不起立教員を「根絶」しようという社会の圧力は今、それだけ強い。何が起きているのか、考え院けていきたい。(阿久沢悦子)

2012年3月28日 (水)

昨日京都市議会のがれき受け入れ決議を傍聴しました

昨日、京都市議会へ傍聴しに行きました。
一昨日に京都市長が関西広域連合の会合で、がれきの試験焼却をする方針であると述べたというニュースがいきなり入ってきたのですごく心配になり
いたたまれなくなって駆けつけたのです。

ちょうどその数日前京都府議会でがれき受け入れが全会一致で決議されました。
まさか市議会までと思っていましたが・・

午後2時辺りからこの案について決議がなされたのですが、
驚いたことに委員長は決議案の読みあげを省略しようとさえしました。
ほぼ満員であった傍聴席は騒然となり、怒号が飛び交いました。
その後、騒ぎを収めるために結局決議案は読みあげられはしました。
またその直後共産党議員により反対案も読まれました。
しかしその放射能の受け入れ基準の辺りで、今度は他の議員が騒然となりました。

結局は、自民党などの12号の決議案が採択されたのですが、
この案では放射能について言及した部分がほとんどなく
住民の不安に対し説得力をもっているとはとても言えません。

これを作った議員たちには
例えば「セシウムとは何か」「それが含まれる瓦礫が焼かれると、どのように住民の健康に被害が及ぶのか」という見識がないのではないでしょうか。
もし真剣に放射能被害について、つまり住民の命について心配してくれていたならば、
こんな書きぶりにはならなかったはず。

ちなみにこの決議案には「早期受け入れ」とありますが、なぜこんなに急ぐのでしょう。
当日の議案には大飯原発の再稼働を行わないように求める決議案も、
共産党から出されましたが、
何の議論もなく即時に否決。

そう、議論が全くなかったのです。
市会というのはそういうものなのでしょうか。
ただの出来レース? では何のための議会?

いずれにしてもこの前のブログで取りあげた3.11と3.12の亀裂がここにも拡がっています。
12号はもちろん3.11という自然災害でことを済ませているもの。
がれきを焼却すれば、災害は消えるという立場です。
13号は3.12、つまり原発事故から何万年もの戦いが始まったという立場です。
がれきを焼却すれば、むしろ死の灰と死の空気が半永久的に
京都という美しい町を汚染し続けるという立場です。
13号は実質的にはがれき(ちゃんと「災害廃棄物」になってます)を受け入れないという立場ですが、
欲を言えば、内部被曝についての危険がはっきりしたことが言えない限り
すでに汚染が確定されている地域のがれきは一切受け入れないという立場が最も市民の側、とりわけ子どもに寄り添ったものだと思います。

市会議第12号
 東日本大震災で発生したがれきの受入れに関する決議について

東日本大震災で発生したがれきの受入れに関する決議を次のとおり提出する。

  平成24年3月27日提出
提出者 市会議員 内海貴夫 ほか53名(自民党市議団、民主・都みらい、公明党市議団、京都党市議団、みんなの党・無所属の会)

   東日本大震災で発生したがれきの受入れに関する決議

 2011年3月11日,マグニチュード9.0という世界最大級の地震に端を発した東日本大震災が発生し,東北地方をはじめ,東日本の広範囲にわたる地域が,地震とそれに続く津波や福島第一原発事故による放射能の影響など,我が国でかつてないほどの大きな被害を受けた。
 この直後から京都市は,職員派遣,ヘリコプターの出動,処理技術の提供をはじめとする積極的な支援活動を現在も行っている。被災地の復興は,全ての国民の願いであるが,現在,その最大の障害になっているのが,がれきの処理である。
 岩手,宮城及び福島の3県では約2,253万トンのがれきが発生し,そのうち処理された量は,僅か約7パーセントである。岩手県では通常の一般廃棄物の約11年分,官城県では同様に約19年分に相当する量と,なっている。このがれきを速やかに処理することが,復興に向けた第一歩である。政府は,岩手県及び宮城県のがれきについて,全国の自治体に広域処理を呼び掛けているが,受入れが進んでいないのが現状である。 がれきの広域処理なくして,被災地の新たなまちづくりは進まない。震災の傷跡となったがれきが,いつまでも被災地に残っている状況では,真の復興があり得ないことは言うまでもない。
 よって京都市会は,国の責任において,科学的な知見により放射能の影響を検証し,放射線量の測定等十分な体制を整え,処理費用を国が負担すること,また,安全な最終処分地を確保することを条件に,関西広域連合の示した基準を参考にして安全と判断される災害廃棄物の早期受入れを検討するよう,京都市に対して強く要請する。
 なお,受入れに際しては,岩手県及び宮城県のがれきについて,運搬,焼却及び埋立ての情報を開示し,国及び京都市が市民への説明責任を履行し,地域住民に理解を求める努力をするべきである。

 以上,決議する
      年  月  日
                     京都市会

市会議第13号
 東日本大震災で発生した災害廃棄物の受入れに関する決議について

東日本大震災で発生した災害廃棄物の受入れに関する決議を次のとおり提出する。

  平成24年3月27日提出
 提出者 市会議員 井坂 博文 ほか14名(日本共産党市会議員団)

  東日本大震災で発生した災害廃棄物の受入れに関する決議

 東日本大震災から1年が過ぎ,未曾有の大震災は,東京電力福島第一原子力発電所の大事故と共に,今なお,被災地に大きな影を落としている。震災がれきは,今も山積み状態となっており,その速やかな処理は,被災地の復興にとって重要な課題である。政府が被災地での処理能力を強化することはもちろん,被災県以外の協力が求められており,本市においても,放射性物質に汚染されていないがれきについては,受け入れる必要がある。
 そもそも,放射性物質に汚染された廃棄物については,福島第一原子力発電所による事故に起因したものであり,その責任は,第一義的に東京電力と政府が負うべきである。しかしながら,現在j政府が放射性物質への対策を真剣に行っているとは到底いえない状況にある。政府が指定した特別管理の必要な指定廃棄物は,セシウム134とセシウム137の濃度の合計で, 1キログラム当たり8, 000ベクレル以上のものである。それ以下のものは,放射性物質が含まれていても,指定廃棄物とせず一般廃棄物と同等の扱いで,まともな対策を講じていない。これは,従前の1キログラム当たり100ベクレル以上としてきたものを大幅に引き上げたものであり,政府の試算でも廃棄物の処理に携わる作業者に年間1ミリシーベルト近い被ばくを容認するものとなっている。本市は,政府に対し,現在の政府の基準や処理方法について是正し,放射性物質で汚染された廃棄物の基準と放射線防護対策を抜本的に見直し,強化することを求めるべきである。
 受入れに当たっては,第一に,自治体で焼却されている通常の廃棄物と同程度の放射能の量・質レベル以下のものに限ることが必要であり,本市の一般ごみ焼却施設における焼却後の主灰の放射性物質は不検出であるため,それを上回る放射性物質が付着したがれきについては,受け入れないこと。第二に,処理の各段階での放射能測定の体制に万全を期すこと。その体制や財源,結果の公表については,国の責任で行うよう政府に強く求めること。第三に,処理の各段階での測定結果については全て公開すること。第四に,住民への説明と納得,合意を前提とすること。以上の条件を整えることが必要である。

 以上決議する。

   年 月 日
                      京都市会

2012年3月25日 (日)

矢部史郎『3.12の思想』(以文社)

深い触発を受けた一書です。312jpg
昨年末と今年初めに行ったロングインタビューをまとめたものだそうです。
それだけに読みやすかったですが
読むにつれて深く考えさせられていき、やがて絶対的な絶望へ向かわせられもしました。
しかしそのことによって
これまでの震災をめぐる種々の言説に重くがんじがらめになっていた心は
根本的な解放感を与えられたように思います。

文章は平易でありながら
今「みえているのにみえないものが何か」を正確に言い当ててくれます。
まず3.11の陰に3.12がみえなくされている。
私たちの生命には3.12の危険があまりにもみえすぎているのに、3.11だけが喧伝されていく。

私も3.11というネーミングには
いつからか何かこちら抑圧する「空気」を感じ始めていました。
矢部史郎という市井の思想家は
3.11という呼称にある違和感から明晰に解き明かし、
そこに何が隠ぺいされているのかを鋭敏に指摘します。

 放射能拡散という問題を、それ自体として正面から見据えなくてはならない。この問題を「3.11」の副産物のように扱って、「未曾有の自然災害」という構図のなかに丸めてしまうと、問題は見えなくなってしまう。
 「3.11」はいまも現在進行形で拡大している公害事件です。いま福島第一原発が奇跡的に収束したとしても、拡散した放射性物質は地面に残り続ける。(略)国のエネルギー政策が転換しても、放射能の拡散は終わらない。東北・関東の住民は毎日少しずつ被曝し続ける。
 「3.11」は過去に属しているけれども、「3.12」はまだなにも終わっていない、始まったばかりです。被害の拡大が現在進行形であることを強く意識するべきです。

矢部さんは三号機の爆発時に息を呑むほど驚いたけれど、それからよく笑うようになったそうです。

 自衛隊のヘリコプターが水を投下したときは笑ったし、警察の放水車が出動したときはゲラゲラ笑いました。怒りながら笑うということがあるんですね。そうやって笑いながら、私たちは起きている事態をのみこんでいったのです。

私も同じでした。
ことが重大すぎ、事態のスケールが大きすぎて、それに対して人があまりにも無力で、
なのにヘリコプターの水の投下を本気になって念じている自分自身がただおかしくて、
夢の中で浮かれているような気分になったものです。

そのようなひりひりする擦り傷のような気分を率直に語ってくれたという点だけでも、この著者は十分信頼できるなと直感しました。
予感に間違いはなかったです。

そう、私たちの無関心の中でみえなくされているの3.12。
子供、原発労働や瓦礫処理や汚水処理に携わる労働者、
原発被害から逃れる国内難民、そして未来の地獄・・。

この「国内難民」という言葉に大変触発を受けました。
その中心には子どもを連れて西へ逃れる母親たちがいますが、
彼女たちはいわば「アンテルプレケール(不安定インテリ層)」。
分析力やリテラシーが高いのが特徴ですが、
何よりも「男だったらプライドが邪魔してなかなか踏み切れないことを、すぐに実践してしまう瞬発力をもっている」のです。
私も、福島や関東から京都に避難してきているお母さんたちの話をききましたが、
たしかに彼女たちの科学な分析力そして社会的な関係力はすごいと驚きました。
子どもを守ろうとする本能で、全存在をあげて潜在力をフル稼働させているからでしょう。
そして今はそうした存在をかけた力がなければ乗り切れないのです。

そのような人々が新しい集団を組織していくというのは、原発事故が逆説的に生み出した希望だと思います。
これまでの左翼運動や議会政治では実現できなかった、真に新しい運動です。

そしてそれを矢部さんは「日本人ではない者になる」という事態なのだといいます。

 「3.12」を考えるとき、私がある意味でとても解放的な気分になっているとすれば、それは、「日本人ではない者になる」ということの肯定的な力を感じているからだと思います。この力が、あの日私の背中を押して、被曝被害から護ってくれたのです。」

矢部さんは三月十二日に、娘さんを連れて、東京を脱出したそうです。
そのような人々はきっと、予想以上に多かったはずだと推測します。
政府を、日本を信じていたら、それほど多い「国内難民」は生まれなかったでしょう。

そう、3.12以前に多くの人が日本人であることから潜在的に身を引き剥がしていたのです。
そして3.12は、従順な日本人であることが、生命の危険をもたらすことになった決定的な日だったのです。
今や人々は日本人という実体のない虚構のくびきから、
野性の生命力を解き放ちはじめようとしているのです。
もちろんそれを押しつぶそうとする国家の抑圧もつよまるでしょう。
しかし負けてはなりません。

次、いつ起こるかもしれない大震災と原発事故。
複数の活断層の上にある原発さえも再稼働されようとしています。
私を含めた日本人も、日本人という古いアイデンティティから存在を引き剥がされているのです。
すべての日本人がもはや潜在的に外国人であるのです。
そのようないわば汚染の中からの蘇生の意識にこそ可能性があるはずです。
そこから、この国土に生きるすべての人同士の新しい連帯を模索していかねばなりません。

日本は一つなのだからという虚偽の共同性を押しつけることで
汚染された瓦礫をばらまいてはいけない。
長年愛してきた故郷だから、私たちは家族なのだから、という老人の郷愁によって
汚染地帯にとどまってはいけない。
少なくとも未来ある子どもたちだけは犠牲にしてはなりません。

2012年3月21日 (水)

大阪府による大阪朝鮮学園に対する補助金停止について

3月19日大阪府は、今年度分の朝鮮学校に対する補助金を全面停止すると報道各社が伝えました。

●「朝鮮学校補助金支給せず 大阪府、生徒の礼賛訪朝で」産経新聞
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120319-00000079-san-soci
●「朝鮮学校補助金:大阪府、支給せず 生徒の訪朝理由に」毎日新聞
 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120319mog00m040015000c.html
●「朝鮮学校補助金、11年度分を見送り 大阪府」日本経済新聞
http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819695E3EBE2E69D8DE3EBE2E1E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2
●「「総連と一線」疑問、朝鮮学校に補助金支給せず」読売新聞
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120319-OYT1T00785.htm
●「朝鮮学校補助見送り 大阪府方針「総連と一線未確認」」朝日新聞
http://www.asahi.com/politics/update/0319/OSK201203190108.html

これらの報道を受け、大阪朝鮮学園はその日のうちに正式コメントを発表し、報道各社に伝えましたが、ほとんど触れられることはなかったようです。大阪府はあたかも補助金打ち切りの責任が、朝鮮学園側にあるようなことを報道に流していますが、以下のコメントにもあるように、決してそうではないことが分かります。19日の補助金停止決定も、恐らく事前に伝えられることがなかったのでしょう。文面からは驚きと怒りが伝わってきます。

支給停止の主体は「大阪府の民意」でしょうか。私には決してそうは思えません。橋下維新が台頭するまでは、長らく府は大阪朝鮮学園に対し補助金を支給してきたわけです。そのことを通して地域社会と学校の関係は良好な発展をしてきたわけですし、その関係を築くために多くの人々が年月をかけ、大変な努力をしてきたわけです。

それを一瞬にして打ち砕くという権利と資格を、橋下維新は、全く有していないと思います。以前、維新の会の議員と電話で話しましたが、その時、高校無償化から除外された経緯も、朝鮮学校の歴史も、ほぼ何も知らないということに唖然としました。しかしただ、「肖像画があるだろう、だから補助金はやらないよ」の一点張りでした。

「総連と一線を画せ」という恫喝は、じつは大変恐ろしいものです。その「一線」という曖昧なカテゴリーには、何でも入ってきます。その何でもありの記号の意図には、結局は「朝鮮学校を閉鎖しろ」という底意があることは明らかです。かつて朝鮮戦争前、当時の文部省は「民族教育が行われている」、「管理や教員が朝鮮人である」などとして、朝鮮学校にあらゆる行政弾圧を加えました。それは朝鮮戦争への布石でした。今回の橋下維新のやりくちはまさにその狂った歴史の轍を踏もうとしています。君が代条例や教育条例も含めて、大阪維新の会という集団は、戦争を待望していることがはっきりしてきています。戦争になれば簡単に経済は復興でき、また非常事態にみずからの権力は絶対的なものとなるのですから。
 
さらには2009年末に予算案に組み込んでいたにもかかわらず、二年にわたって高校無償化法適用の不作為をおこなっている政府もまた、早く「ミサイル」を迎撃し、収束できない原発事故を一瞬で戦火にすりかえてしまいたいとさえ企んでいるのではないでしょうか。

朝鮮学校への弾圧が、結局は、すべての日本の市井の人々への弾圧にもつながることは明らかです。朝鮮学校を誹謗中傷するいわゆる焼け野原願望の人間たちも、いずれはみずからが被害を被るのです。もはや誰もが無縁ではないのです。

以下朝鮮学園コメント(3月19日付け)

一部の報道によると、「大阪府は19日、府内で朝鮮初中級学校を運営する『大阪朝鮮学園』に対し、今年度の運営補助金約8100万円(8校分)を支給しないことを決めた。」と伝えられた。

その理由として大阪府は、学園が説明義務を誠実に果たしていないとしているようだが、学園は担当部局を通じて説明責任を十分果たしてきたし、できる限り誠実な対応を行ってきた。

そもそも学園は、大阪府が提起した「4要件」に沿った「ガバナンスの基本方針」を昨年3月に明らかにし、大阪府もその事を認め2010年度分の補助金を交付した。

にもかかわらず今回大阪府が、説明不足、対応不誠実などと責任を一方的に学園側に転嫁する形で、補助金交付を停止するのは極めて政治的な意図を持った動きとして厳しく非難されるべきであり、民族教育に対する明確な政治干渉であると言わざるを得ない。

また、大阪府が一部の新聞報道などを根拠に、学園に対して「あら捜し」のごとく詳細な説明や文書提出などを執拗に求めること、特定の報道機関や政治家の思惑に振り回されて、朝鮮学園のみに過度な要求をすること自体が、学園の自主性を踏みにじる由々しき事であり、甚だ遺憾なことである。

よって大阪朝鮮学園は、民族教育に対するこれ以上の不当な干渉を受け入れることは出来ないことを明言するとともに、今後大阪府が行政機関としての公明正大、且つ公平な態度で交渉に取り組むことを切に望むものである。

                        2012年3月19日 
                     学校法人大阪朝鮮学園理事会

2012年3月19日 (月)

「フランシス水車のやうに──『吉本隆明詩全集』から視えてくるもの」

  逝去をきっかけに、吉本隆明さんについて新聞やネットであらためて話題となっています。ただ詩人としての吉本さんについて書かれたものは、まだ書かれていないように見受けられます。下記に私が2008年の『現代詩手帖』の年鑑号に書いた論を掲載します。少し絶賛調では?とやや恥ずかしさも否めませんが、恐らく当時『全集』を通してみえてきた、詩人としてのおのれをこそ貫こうとした吉本さんの清冽さに感動したのでしょう。そしてその詩に、詩とは何か、詩人とは誰か、という普遍的な問いかけによって作られているとも言える、純粋さがあったからだと思います。

フランシス水車のやうに──『吉本隆明詩全集』から視えてくるもの              

                                      河津聖恵 
 
 今年はこれまであまり読んでいなかった書き手の著作を読み込んだ。それは、現代詩手帖特装版特集に小論を書くために読んだブランショ、今年出版された『私は花火師です』(中山元訳・ちくま学芸文庫)で触発されたミッシェル・フーコー、ひょんな機会から始めた「紀州フィールドワーク」と並行して読み進めた、日本語への挑戦としてのエクリチュールを模索し続けた中上健次、そしてここで取りあげる吉本隆明である。前三者と『吉本隆明詩全集』全七巻は、つよい連関があると思う。魂の地磁気のようなつながりを感じる。
 大ざっぱに言えば、四者に共通した魅惑は、脱権力という志向だけでなく、現在に生きる私たちの魂の可能性をとらえ尽くしたい、という思いにある。かれらの文体(あるいは翻訳から感受する思考の形)が魅力的なのは、今このときに言いうるすべてを言おうと、言葉と他者へ深く身を寄せるからだ。その思想のすべてが分からなくとも、かれらの魂のあり方、傾き方はこちらの魂をダイレクトに共振させる。
 詩は文体という側面から見られることは少ない。だが私が『詩全集』から感じ取るのは、自己と他者をまさぐる内奥から、文字の表層に密着するようにしてこちらに届く文体である。そしてすぐれた文体こそはすぐれた詩の証左であると思う。すぐれた詩は、上から下へ読むのではない。詩いちめんに感受性の表面張力がみなぎり、読む前に一瞬にして「見る」、「見させられる」、「突きつけられる」のである。そのとき詩はすぐれた思想として感受されるだろう。この詩人の文体には無駄な余韻や怠惰な空白がない。虚無感や死の意識の影はたしかに射すが、思考の力が言葉をはじき返していく。もちろん言葉は光そのものになりきれはしない。だがせめて影を裏返そう、わずかにでも他者に光と感受されよう、という一貫した意志が清冽なのだ。

 物の影はすべてうしろがはに倒れ去る わたしは知つてゐる 知つてゐる 影は何処へ ゆくか たくさんの光をはじいてゐるフランシス水車のやうに影は何処へ自らを持ち運 ぶか わたしはよろめきながら埋れきつた観念のそこを搔きわけて 這ひ出してくる
 まさしく影のある処から!
   (「影の別離の歌」第一巻所収、「光のうちとそとの歌」第二巻所収にも同表現)

 その詩、つまり詩における思考は、この「フランシス水車」(その響きと響きから来る透明なイメージは、詩の中にぴったりはまる)の永久運動に喩えられよう。永遠に影を裏返し(「うしろがはに倒し」)光をはじき続ける魂の水車。「影」とは初期の詩に頻出するイメージである。無意識、エゴ、孤独、死と虚無の意識など、負の価値を持つ。それは時代と幼年期から絶えず滲んでくる。むしろ、詩を書こうとするからそれは現れるかのようだ。詩を立ち上げようとする詩人の希望を侵犯するために、どこかから世界の悪意のごとくにじり寄る暗い力。影は、裏返されただけでは消えずつねに発生して堆積していく。「わたしはよろめきながら」そこから「這ひ出してくる」しかない。そして再び光に晒され影を招き、光をはじく。詩はそのような魂の水車として「孤立」して動きつづける。
 この詩人において「孤立」と「孤独」は背反する。

 そうしてぼくのこころが現在は病弱なのではあるまいかと・・・・・・最早や同じ仲間を見出 すことも出来ず、また何ものにも依存することのできない孤立のうちで それに耐える ことに習はされたこころがつぶやくのである。
                               (〈日時計〉第二巻所収)
  時々にわたしの孤独がまるで死の影を負つてきては
 このうへない暗いものを伝へてゆくけれど
 わたしはそれをひとりで耐えることができます        
                               (〈時間の頌〉第二巻所収))

 孤独は「死の影」を負い、「このうへない暗いものを伝へてゆく」ものである。それは、詩を書く私を支配しようとする暗い「権力」を持つ。孤独はかよわいものなどではない。むしろ私の根源を奪い取ろうとする死の意識として、詩の最大最強の敵である。幼年期に巣くったトラウマとしてそれは根深く、時代に負ける自分自身のエゴからも来る。だが詩とは本来そのような影に抗いうるものではないか? 吉本隆明の詩と思考と文体を支えているのは、そのような問いかけの力、孤独の侵入に耐える孤立の力である。すぐれた詩人はその力で、「何ものにも依存することのできない」という自負を支えに、「この貧しい一点」(「白日の旅から」同)から「自己表出」へと身を傾ける。詩の中で感じ尽くし、考え尽くしていくために。やがて例えば「フランシス水車のやうに」と賭けのように比喩を記すために。
 比喩とはこの詩人が最も大切に思う詩の核である。『言語にとって美とはなにか』第三章において、詩の比喩をめぐり、それこそ比喩を尽くし述べられていることから分かる。

 喩は言語をつかっておこなう意識の探索であり、たまたま遠方にあるようにみえる言語が闇のなかからうかんできたり、たまたま近くにあるとおもわれた言語が遠方に訪問したりしながら、言語を意識からおしださせる根源である現実世界にたいして、人間の幻想が生きている仕方ともっともぴったりと適合したとき、探索は目的に当たり、喩として抽出される。

 ここで印象深いのは、「人間の幻想が生きている仕方ともっともぴったりと適合したとき」という表現である。幻想とは何か。それは現実生活で受ける水圧に抗して生まれ、表現という水面をもとめ立ちのぼる、言い難い思いのかたまり、つまり言語以前の泡である。私たちの無意識には、そうした幻想の泡がフラクタルに絶えず立ち上りつづけている。見事な比喩とは、幻想の泡の経路に言語が「ぴったりと」寄り添うことで現れるのだ。別な箇所にも「詩人の現実世界における存在の仕方の根源とぴったりと対応している当たりの感じ」とある。詩においてそうした「ぴったりと」した「当たりの感じ」があって初めて、私たちは詩を書いた、読んだと実感しうる。刻々とうつろう私たちの幻想や存在の仕方に「ぴったりと」生成する比喩によって、書き読む私たちはこの世界の闇の中から一瞬煌めくように離脱できる。そして言葉にならない思いを泡のごとく解放していく。「言語からの触手」(第七巻所収)にも、「新しい概念はまったくちがう。それは実体の動きが不可避の曲線を描き、その曲率が生命の曲率にあっていなければならない。そうなったとき、ひとつの概念が自由の感じにつつまれて誕生する」とあるが、この「新しい概念」も比喩と同義であるだろう。
 社会の抑圧からの、そしてもっと根源的には、幼少期から私たちを識閾下で蝕み続ける「むごたらしい孤独」の暗い権力からの離脱と自由。それを目指して詩人は魂のプロレタリアとして詩を書きつづけ、新しい概念である比喩を探す。言語による「意識の模索」に思考と感受性を尽くし、いつか魂の内側から「当たりの感じ」を獲得することを願いながら。その「当たりの感じ」、「自由の感じ」こそが孤独と闘う詩という孤立の誇りを支えるのだ。比喩は魂がまるごと蘇生する、誰も見ていない、詩人の一つの絶対的な勝利点であり、魂のあげられる唯一の歓声、ひそかな自由の鬨の声である。
『日本語のゆくえ』で、吉本は若い詩人たちの詩を「無」であると否定した。それは今言った次元での比喩の不在を指弾したのである。突きつめればそれは、現在における孤立の難しさと他者の不在を意味するが、表現の次元では自由や離脱の「感じ」がないことを無と言ったのだ。
 一方、吉本隆明の以下のような詩行はどうか。
 
 詩は 書くことがいっぱいあるから
 書くんじゃない
 書くこと 感じること
 なんにもないから書くんさ
                   (「演歌Ⅶ」『記号の森の伝説歌』第六巻所収)

 この「なんにもない」は、今言った意味での無とは逆に、「書くんさ」と詩を書かせるための空洞を指し示している。ブランショの言う「消え去るもののかけがえのない輝き、それを通してすべてが消え去る輝き」としての詩、フーコーがディスクールの「花火師」として閉ざされた思考を爆破しひらきつづけた魂の可能性のありか、中上が文化、文学、芸能一切の発生源として想定した「うつほ」なる神話の闇と、深くゆたかに重なり合う何かである。その反重力のトポスで詩は、「フランシス水車のやうに」回り続ける。
 私たちが今見いだすべきなのは、詩が回り出すための、それぞれの孤立する空洞ではないか? 『詩全集』は、大きな連関の中でたった一人で空洞を獲得した詩人の魂の軌跡である。

2012年3月16日 (金)

詩人吉本隆明さんが亡くなられました

吉本隆明さんが亡くなられました。Photo
一報をきいたとき
たしかに一つの時代の血が遙かに退く感覚がしました。
私はまだこの詩人の全貌を把握していないのですが
自分の感受性を信じて時代と向き合ったすぐれた詩人です。

一度だけ、吉本さんの詩集の授賞式でお姿を拝見したことがあります。
すでに車椅子に乗られていて、
小さな体からせいいっぱい出ない声をふりしぼるように
「自分が詩人と言われるなんて恥ずかしいことだ」
というようなことを何度も言われていたのを記憶します。
天井のシャンデリアの光で目がきらきらしていたのがとても印象的でした。

詩人は深い悲しみに包まれた珠玉の詩のことばを残しました。
その一字一字が光跡のように今きらめきだしています。

ぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿った忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす

だから ちひさなやさしい群よ
みんなひとつひとつの貌よ
さやうなら
                     (「ちいさな群への挨拶」より) 

この「ぼく」は、吉本氏自身だけでなく感受性で世界と向き合うすべての若い魂の持ち主を代弁するでしょう。
そして、

「詩は必要だ。詩にほんとうのことをかいたとて、世界は凍りはしないし。あるときは気づきさえしないが、しかしわたしはたしかにほんとのことを口にしたのだといえるから。そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない。」(吉本隆明「詩とはなにか」)

この「ほんとのこと」とは、どんな集団の言説にも惑わされない真実。
たった一人としての自分が
感受性の触手でつかんだ時代への絶望であり
そこから生まれるかすかな星のような希望の予感でしょう。

また一人すぐれた詩人を失って闇が深まりました。
しかし私たちはそれぞれの直接性を信じ
さらに勢いをます「収奪者たち」の闇に立ち向かわなくてはならないのです。

2012年3月13日 (火)

現代詩手帖3月号「鈍銀色の沈黙に沈んでいる──新井豊美さんのご逝去を悼んで」

去る一月二十一日に、詩人の新井豊美さんが亡くなりました。七十六歳。
いまだ亡くなられたとは信じられません。
それは恐らく私にとって、新井さんの詩が、言葉による永遠の生命をかちえているからに違いありません。
詩人の死とはそのようなものなのでしょう。Arai
闇が深まり星が輝き出すように、詩人を超えて言葉が生き始める──。

現代詩手帖3月号
鈍銀色の沈黙に沈んでいる──新井豊美さんのご逝去を悼んで        河津聖恵
                                                                                                                                                                 

   新井豊美さんと初めて出会ったのは、詩の中の海辺である。四半世紀前、渋谷の「ぱろうる」の薄暗い店内で、『いすろまにあ』の色鮮やかな表紙にふと立ち止まった。めくり当てた頁は「JIN JAN HAI」。詩の水に映り込む船の陰影が、ふいに自分のどこかに重く下ろされるようだった。蹲る老婆が自分の中の死者に向かい「…ちゃん」とあげるおしころした叫びもまた。「わたしはそのように熱くひとの名を呼ぶことはない」という一行が謎のように心に残っている。「呼ぶことはない」という断定に、意志のつよさと美意識があった。あの吃水線は、人間のみじめな宿命とつりあおうと揺れていたのか。光と影が何らかの均衡を獲得するまで待とうとする、詩人の忍耐の姿勢を感じた。
 現実にお会いしたのはたしか一九九一年。新宿のアルプス広場だった。他の方々も交えての初対面だったが、記憶からはなぜか、多くの旅人の影が行き交う異国のバザールのような空間の片隅で、銀色の柱にもたれた新井さんの姿だけが浮かぶ。薄絹めいた素材のゆったりとした緑のスーツに身を包んでいた。柔らかくカールした髪を揺らせ、こちらに向けられた優しい笑顔を思い出す。その後詩集の栞を書いて頂いたのをきっかけに、国立のご自宅にも伺うようになった(私もまた国立に実家がある)。玄関脇から書斎の本棚まで、詩集や詩論がひしめく家の空気はどこか香り高く、まさに詩に護られた空間だった。窓辺に鳥たちがさえずる書斎で何度も何かを語り合った。今は交わされた具体的な言葉よりも、詩人のアルトの声と、ケトルが立てる蒸気の音と、その時の静寂だけが不思議に翳るように喚起される。それらは私にとって詩人の世界のエッセンスそのものである。そこで新井さんに多くの我が儘や悩みもきいてもらったのだが、それがじつはありえない僥倖と至福の時だったことを、今になって思い知らされている。胸深くに甘美な痛みが走る。
  家の壁には、詩人が写した一枚のモノクロ写真がある。シチリア島のパレルモにある古いホテルの無人のレストランの、重厚な室内。テーブルの上のグラスたちが、光と影に存在を研ぎ澄まされた一瞬が見事にとらえられている。その鈍銀色は、時間を越えた詩人のまなざしの静謐さと清冽さであると共に、これから始まる声の、今しばらくの沈黙でもある。

2012年3月11日 (日)

3.10と3.11──日付が変わって

昨日3月10日は金子みすゞの命日でした。Photo_2
そして今日は3月11日──。

一人の死をきわただせる詩人の死と
ひとりびとりの死が数としてカウントされてしまう死。

みずから意志して選びとられた一人の死と、
巨大な自然の盲目の意志にあまりに突然に生を引きちぎられたひとりびとりの死。

胸がつかれます。

昨日と今日、日付が変わって
一人の死が二万人の死になるような
あるいは二万人の死が一人の死として収まり戻るような
世界の位相の変化さえ訪れる気がします。

なぜみすゞはみずから命を絶ったのでしょうか。
夫の裏切り、夫に詩作を禁じられたこと、病をうつされたこと、あるいは亡父への思慕・・
しかし根本的には
死というものに対し生来敏感で
ひそかに憧れを抱き続けてきたということがあったのでしょう。

いずれにしても死の前日写真館で撮った写真は
死に追いつめられている表情からは遠く
むしろ不敵な幸福感さえ感じさせるのです。

3.11のとめどない悲しみを
みすゞの詩は本当に癒したのでしょうか。
あるいはみすゞの読者は
その詩を感じ取ることでどれだけ3.11を深く悲しむことが出来たでしょうか。
もし彼女の詩がなんらかの救いになったとすれば、それは、
つながりや絆の再評価というような次元でではなかったはず。
それはその詩が生と死に向き合う深さへの共鳴であり
生と死の境界のなつかしい感触を
多くの人の魂が思い出すことが出来たからではないでしょうか。
まるで生誕のごとくに。

 

 
                                  金子みすゞ

誰も知らない野の果(はて)で
青い小鳥が死にました
  さむいさむいくれ方に

そのなきがらを埋めよとて
お空は雪を撒きました
  ふかくふかく音もなく

人は知らねど人里の
家もおともにたちました
    しろいしろい被衣(かつぎ)着て

やがてほのぼのあくる朝
空はみごとに晴れました
    あをくあをくうつくしく

小(ち)さいきれいなたましひの
神さまのお國へゆくみちを
    ひろくひろくあけようと

2012年3月 9日 (金)

「葛飾北斎展」(京都文化博物館)をみました。

先週の日曜日に、京都文化博物館に「葛飾北斎展」をみに行ってきました。Fuji
北斎は現物をこれまでみたことがなかったので、楽しみにしていました。

日曜ということもあって、会場は大変な混雑ぶりでした。
マイペースではなかなかみられず、人の流れのままに
ゆっくりゆっくり、蝸牛が這うように見ていきました。
おかげさまで、じっくりみることができました。
ただあまりの人いきれで、ちょっと酸素不足になったせいか
ふと半睡状態に陥り、
眺めている北斎の世界にそのまま入り込んでしまいそうな一瞬もありました。
(頭が傾くのに寸前でハッと気づき、覆いのガラスに頭を打ちつけず、さいわいでした・・)

江戸後期に製作された北斎の版画はモダンな美しさがあるようにもみえます。
一方でプリミティヴな謎、不思議さが多分にあって
本当に魅惑的でした。
海や空の深い紺、あるいは夕空や樹皮の赤、デフォルメされた岩や波、ありえない位置を横切る魔物のような雲などが
おのずとまなざしを吸いこんでいくのです。
自分のものではない、江戸時代に生きた誰かの不思議な夢に入り込んでいくように。

図上の「山下白雨」は有名すぎる画です。
上の方では晴天なのに、下の方では稲妻が走っているという、神の山の幻想的な一瞬をとらえています。
この富士の雪の筋の部分もややそうですが、
他の富士画でも、残雪の筋の部分が細かい粒状になっていることが多い。
その粒が雪が降っている様子にも見えます。
万葉集の山部赤人の歌「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」を思い出すような構図です。
遠景なのに、雪が降る近景がみえているという歌なのですが、
百人一首の歌の趣意に合わせた版画の連作の一つにこの歌をテーマにした画があったので
もしかしたら他の富士のいくつかも、この歌を意識して描かれているのではないでしょうか。

あと他に初めて見た画で、興味深いものはたくさんありました。、Takijpg
とりわけ瀧を描いたものにはとても惹かれました。
図下は「木曽路ノ奥阿弥陀ケ瀧」ですが、
瀧が流れ出している始まりの瀧口が、マーブル状になっていて斬新です。
これは本当は瀧口を上方から見た水面ですが、
それを垂直に立ててみせているのです。
また、流れ落ちる瀧自体も氷のつららか、白い根か体のようで、非現実的な印象です。
いつまでも見飽きない画です。

また「北斎漫画」という庶民の姿を描いたいわゆるカット集も見飽きないです。
北斎の版画に出てくる民衆の多くは、ちゃんとこちらを向いていて
とても身近に思えます。
町人の時代の新しい文化の旗手が、人間を見つめるまなざしは、とても温かいと思いました。

2012年3月 6日 (火)

3月4日付京都新聞朝刊・「詩歌の本棚」新刊評(河津聖恵)

  去る一月二十一日、新井豊美さんが亡くなった。イメージと肉体感覚が知的にせめぎ合う詩風が魅惑の、正統派の詩人。詩論家でもある。八〇年代にジャーナリズムを騒がせた「女性詩」を、歴史的な視座から冷静に振り返った『近代女性詩を読む』や『女性詩事情』からは、私も大いに刺激を受けた。また、奇しくも八日後には牟礼慶子さんが旅立たれた。『荒地』に参加、鮎川信夫に師事。自然を見つめる柔らかなまなざしは、戦後詩固有の文明批評をしのばせる。両氏の業績はこれからより一層真剣に評されるべきだ。女性の感受性によっていかに時代と向き合い、どのような詩の次元を拓くことが出来るか─。その方途を学び、受け継ぐために。
 山田英子『わたしの京都』(思潮社)は、二〇〇九年に亡くなった詩人の遺稿集。町家に生まれ育った人の、伝統と文化の中で養われた感性が光る、エッセイと詩による古都へのオマージュである。だが単純な古都礼賛ではない。そこには、この町もまた安易な現代化に抗えず、精神の空洞化が進み続けることに対する鋭い批判の目がある。詩人は身をよじり呪詛するように、物の色や手触りや食感の深くから、忘れられていた過去を肉感的に蘇らそうとする。京都はその時、地霊のように恋人のように官能的に立ち現れる。
「茅をまたいで 左まわり/も一度またいで 右まわり/さらにまたいで 左まわり/あおあおと なわれた茅(ち)の輪をくぐって/夏越の祓/はらい落としたはずの けがれを/また身にそわせはじめている/わたしは みなづきを食べる/つるりとして とらえどころないほの甘さに/遠い血脈を意識しながら」(「わたしの京都『六月』」)
 名古きよえ『消しゴムのような夕日』(土曜美術社出版販売)の作者は、南丹市美山町に生まれた。戦後都会へ出、今は京都市内に住む。この詩集には3.11以後の作品も収められている。今詩人は三重の喪失感を抱える。京都の町中へ出たことによる生まれ故郷の喪失、都会における自然の喪失、そして原発事故による、生命全体の喪失。詩人は詩を綴ることで、人間と、自然あるいは命との関係を、再びいきづかせようとするのだ。奪われて初めて大切なものの存在に気づく、人間の愚かさに対する、詩人の慙愧の念は深い。
「あれは古いというのか/近代的でないと嗤うのか/海も陸も放射能に汚染されても/現在の暮らしの方が/よいというのか/わたしにはわからない//わたしたちは/宝物を無くした/心身ともに大切な/『安心』という環境を/自らの手で/自らを裏切った//慙愧に暮れる時間は長くてもいいだろう/それから一人一人が/行くべき道を行けばいい/歴史に 先人に教えられて/いのちをつないで」(「わたしたちはどこへ行くのか」)
  三浦千賀子『一つの始まり』(竹林館)もまた、3.11を「大きな一つの始まり」として胸に刻むために編まれた。この詩人において詩は、大震災の衝撃からだけでなく、それ以前にすでに止めどなく拡がっていた、貧困や分断や弱者切り捨てによる破壊の荒野から立ち上がろうとする、生の力そのものである。言葉が他者に届くことを信じる信念である。
「空気が変わった/そのあとも/反応してくれる人が続いた/言葉が届いていると感じた/それは新鮮な発見/言葉が届く時とは/相手の主体性を/信じられるかどうかなのだ/進めようとしていることの/見通しを語れるかどうかなのだと」(「署名運動」)

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