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2013年4月

2013年4月29日 (月)

4月29日付朝鮮新報読書欄・辺見庸著『国家、人間、あるいは狂気についてのノート』を読む

【4月29日付朝鮮新報読書欄】

 辺見庸著『国家、人間、あるいは狂気についてのノート』を読む
                                            河津聖恵

 大震災以後この国では、表層と深層、国家と人間、身体と心、言葉と意味の乖離が、もはや止めようもなく進行している。深層が表層を突き破り、新たな災厄や戦争が始まる予感がする。前兆はどこにあるか。破滅を食い止めるために何が出来るか。私達は今を覆う明るい闇に眼をこらし「暗順応」し、「正気」を装う「狂気」を「視かえし」、実相を突きつけていかなくてはならない。本著は今なお見者たらんとする者に、「じっと視かえす」位置と方途を、魂を抉るように指し示してくれる。
「日本的情念の古層」
 冒頭で、メディアが総力をあげて隠す「日本的情念の古層」が指摘される。情念の発動には、恐怖と快楽の脳内回路の短絡が関わる。二.二六事件の首謀者が「あの快感は恐らく人生至上のものであらふ」と記したそれは、今「ファッショ的紋様となって表土にあらわれている」。それに応じるように、人や事物からアウラ(=「ひとがただよわせる名状しがたい気配)が失われていく。政治家は勿論、言葉と声からも。もはや全ては本質から脱落した「スメグマ」(恥垢)だ。著者は痛切に叫ぶ。私達は「なにをしたくて、いままで生きてきたのか」「今日のこの日を見たかったのか」「言葉ははたしてつうじてきたのか」「わたしたちは、狂者か半狂者であることをわすれている」…世界を満たしていく偽りの欲望、自己幻想、死者である生者たちのおぞましい死者の夢。現実の泥は悪夢の通りにこね上げられていく。もはや事態は絶望か。だが真の絶望だけが世界を「視かえす」力をもたらすのだ。「狂者の目」だけが、正気を装う世界から狂気の実相を暴き出す。
 次々突き出される実相は鮮烈だ。「甑(こしき)から遠くはずれた、方向をもたない」狂える「天翔ける輻(や)の群れ」という圧倒的なイメージは、互いに相争い破滅へ突き進む民衆や市民の狂気のあられもない姿。向かい合う無人の監房の闇に「いない」自分が座るという死刑囚の歌にある光景は、私達自身の「奪われた意識の空洞」に居すわるものの正体=「われ知らず内面化された」『私達のファシズム』」をあぶり出す。あるいは一九四二年中国・山西省の陸軍病院で、生体手術演習を行うために、怯える「患者」に「麻酔をするから痛くありません。寝なさい」と優しく囁きかけ、患者が頷き手術台に仰向いた後、「ペロリと舌をだしてみせた」日本人看護婦の口腔の闇。それはそのまま「『いま』という開口部のさり気なさ、底深さ」にある「罪と恥辱」そのものだ。「歯の根もあわぬほど躰をふるわせ」、男が眼の前まで後じさってくると、「両の手で彼の背を手術台のほうに押しやった」新米軍医の手の触覚は、今ここにある「私」の手のそれと無限に交錯する。手術台を取り囲む「ユーモアも人情も解する」「およそはげしく疑るということのない、こよなき正気の輪」は、同心円内に今このときを「いっかな逃れようもなく」含み続ける。七十年前の手術室の光景は、まさに現在のマイノリティとマジョリティの関係にひそむ狂気の実相である。
 だがそのような想像の作業=現実と実相の往還こそが抵抗の砦を作る。過去の光景から今を「視かえす」ことが、今の私達に私達を超える「人倫」を発動させるのだ。たとえ伝聞であれ「ひとたび光景の一端を知ってしまえば、時を超えて無限の作業仮説」を強いられる、という「人倫」の謎。一度過去から今を「視かえす」ことを経験すれば、手術台を取り囲む人の輪から私はもう外に出ることは出来ない。「もう抜けでたと思っても、ふと気づけば私はかならず輪の圏内に立っている」。無限に立ち戻る私はつねに輪の内で、舌ペロリの看護婦に笑みさえ返し、患者のふるえる背を両手で押し戻してしまう。何度も何度も。そのように「あえて輪の圏内にみずからを立たせてあれこれ試問しつづけるにしくはない」。その作業こそがみずからの内奥から恐怖と罪と恥辱を、おのずとそして決定的に抉り出すからだ。その「試問」=「審問」は辛いが、むしろその辛さゆえに、現在の「石化、狂気」を「生き生きとした死、活発な石化」に変えていく。やがては「狂気がどんなものでありえたかがわからなくなる」現在の苦痛に、「ささやかな希望か出口」をもたらしていく。
「巨大な海綿状」の虚無
 今、一人「狂気の海溝」を歩む著者は、「狂者の錯乱した暗視界の奥」から、「いかにも正気をよそおう明視界の今風ファシストどもを、殺意をもってひとりじっと視かえ」している。私はその眼力=言葉の力に、今なお生きんとする力を掻き立てられて止まない。「否定的思惟」のゆたかさと、絶望のずっしりとした重さ、そしてそれゆえの詩の美しさによって。本著はまさに「巨大な海綿状」の虚無とさえ引き合う詩だ。私はあらゆる系を断ち切られ、やがて「視かえす」殺意のありかとしての、闃然(げきぜん)とした「内面の静けさ」を身の内に知る。

2013年4月20日 (土)

辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社)③

現在の正気然とした表層を「視かえし」、
狂気の実相をあばくこと。
それは抵抗というよりも
(辺見さん自身「ことここにいたって抵抗などという、そらぞらしいもの言いをする気はない」と書いています)、
まさに
「晴れやかな明視界にたいする」
「わたしの暴力」です。
私は死者のようでありながらも、
まだ生きている証として
身を潜めた暗視界から「視かえす」という暴力だけは忘れてはならないのです。

筆者の奥底からの眼力=言葉の力である暴力が
見事に暴く
かつてと今、この国の言葉と声がまつわらせ続ける毒霧。
「口中の闇あるいは罪と恥辱について」の章は
私にそれこそ無限の作業仮説をもたらした文章でした。

一九四二年中国・山西省の陸軍病院で
日本人医師と看護婦による
中国人の「患者」に対するおぞましい生体手術演習が行われました。

日本人医師たちは男性の「患者」に手術をしようとしました。
「ところが、『患者』はおびえていっかな手術台にあがろうとしない。そこで日本人看護婦が進みでて『患者』にむかって彼の母国語で『麻酔をするから痛くありません。寝なさい』と優しく囁きかけたところ、患者はうなずいて手術台にあおむいた。看護婦は医師をふりかえって〈どうです、うまいものでしょう〉といわんばかりに笑いかけ、ペロリと舌をだしてみせたのだという。その際、白衣の彼女がふとかいまみせたであろう開口部。ならびに赤い舌先の、つけ根あたりに漂う暗がりに、私は首を深くつっこんで仔細を覗いてみたいほどのつよい関心がある。だが、口腔の闇は相当の時をへたいま、どのように変質したのか。グラデーションのありようはどうなのか――という興味に較べればどうということはないかもしれない。闇の今昔における、『いま』という開口部のさり気なさ、底深さこそ、まさにそここそ、密やかで果てしのない罪と恥ずかしさを感じるからだ。」

患者はばらばらにされて殺されました。
この「舌ペロリ」の看護婦は
約半世紀後に、戦犯として裁かれて帰国した医師と再会します。
しかし彼女は生体解剖があったことは漠然と覚えていても
「舌ペロリ」も含め具体的な光景は忘れていたそうです。

「彼女の咽頭から口蓋、開口部にかけてかすかにたなびくミストグリーンのうす暗がりを私は思い描いたものだ」。

想像の闇の中で著者の鋭い色覚がつかんだ「ミストグリーン」。
これはまさに「真景」です。
「ミストグリーン」は「グリーンミスト」だと「毒霧」になるからです。
それは「口から霧状のものを吹き付ける
日本人プロレスラーがよく使うプロレスの技」です。
緑の毒霧の場合は「グリーンミスト」といいます。
基本的には反則技です。
レフェリーが目を離した一瞬の隙に技が繰り出されるとのことです。
攻撃目的以外に、威嚇目的、あるいはパフォーマンスとして使用される……
そのような「グリーンミスト」または「ミストグリーン」とは
責任や倫理や真実を正面から問われた時に
この国が取ってきた態度一般を表現するのに
とてもふさわしい比喩ではないでしょうか。
もちろんそれは政治家だけにはかぎらず、
戦後を生きた人々の
戦争の記憶の隠蔽や意味のねじまげに通ずるものだと思います。

看護婦の口腔のミストグリーンと共に
新米医師の「両の手の感触」もまた
生々しい「真景」として私に迫ってきました。

解剖室に連行されてきた「患者」は二人だったそうです。
一人は覚悟をきめたのか悠然と手術台にのりましたが、
もう一人は恐怖のあまり後ずさりをしはじめました。

「ややあって農民ふうの男が、後に証言者となる新米軍医のすく眼の前までずるずると後じさってくる。おそらくは、歯の根もあわぬほど躰をふるわせながら。新米医師はそこでなにをしたか。当時その場にいればだれもがやったであろうことをやったのである。逆にいえば、だれもやらないであろうことはやらなかったのだ。つまり、両の手で彼の背を手術台のほうに押しやったのである。」

この医師の行為を、今いる安全の場所から、私は責めることができるでしょうか。
私もまたその場にいたら同じことをしたのではないでしょうか。
しかしだからと言って
そのように正当化することで、
一度想像によって目撃させられた光景を忘れて
安全圏に戻ることはできるのでしょうか。
「舌ペロリ」の看護婦のように忘れることは出来るのだろうか。
しかしそれが
当時の実景を超え、今このときの「真景」あるいは「実相」を表すのだとしたら
忘れるどころか
何度も繰り返し手術室の人の輪の中におのずと立ち戻らされる
倫理の強度がもう生まれているのではないでしょうか。

手術台を取り囲む
「ユーモアも人情も解する」「およそはげしく疑るということのない、こよなき正気の輪」は、
同心円内に今このときを「いっかな逃れようもなく」含み続けていく。
この国の差別の構造が変わらないかぎり。
七十年前の手術室の光景はまさに
枚挙にいとまのない差別の事実を積み重ねる日本という国の
現在のマイノリティとマジョリティの関係にひそむ
狂気の実相そのものなのです。

現在の差別について、そして戦争責任について、
これまでおびただしい言葉と議論が生まれてきました。
しかしそれでもなお
なぜこの国に「人倫」というものが動かなかったのでしょうか。
それらの言葉は「人倫」を動かせなかったのでしょうか。
それは今石臼のように
どうにもならない底に重く沈んでいるように見えます。

しかし私はすでに
著者の描写をとおしてこの生体解剖に立ち会ってしまった。
現在というものの「真景」を突きつけられてしまった。
このような「真景」は
「ひとたび光景の一端を知ってしまえば、時を超えて無限の作業仮説」
を強いてくるのです。
それは私たちの「人倫」を動かす力があるのです。
「もう抜けでたと思っても、ふと気づけば私はかならず輪の圏内に立っている」。
そして無限に立ち戻る私はつねに輪の内で
舌ペロリの看護婦に笑みさえ返し
患者のふるえる背を両手で押し戻してしまう。
何度も何度も。
しかしそのように「あえて輪の圏内にみずからを立たせてあれこれ試問しつづけるにしくはない」のです。
なぜならその作業こそが
みずからの内奥から恐怖と罪と恥辱を
おのずとそして決定的に抉り出していくから。
その「試問」=「審問」は酷薄ですが、
しかしむしろその酷薄さゆえに
現在の「石化、狂気」を「生き生きとした死、活発な石化」に変えていくのです

そのような「真景」を突きつけられ
突きつけることこそが、
この国の底に横たわる死んだ神の眼を
うっすらと、しかしたしかにひらかせていくはずです。

2013年4月17日 (水)

辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社)②

今何が起きているのか、
現在の真景とはいかなるものか。
この明るい闇に暗順応し
私たちはそれをつかみ、突きつけなくてはならないのです。
それが今ぎりぎりに残された抵抗です。
狂気を狂気としてまなざす眼力。
それこそが
狂気が正気然としてまかりとおる絶望的な今において
まさに生きる力とつながっていくはずです。

しかし
私たちの内部においても明るい闇が深まっています。
そこに何かがいなくなり
代わりに何かが居座っているのですが
私たちはそれが自分でも見えないままです。

「向かい合ふ監房虚(うつ)ろ走り梅雨」(大道寺将司)

この句から
辺見さんの胸底に見えてきた、死刑囚が「いなくなった自分」を見つめる絶望的なまなざし―。

大道寺死刑囚は向かい合う無人の監房の闇に「いない」自分が座っているのを幻視しました。
正確には
「〈いない自分〉あるいは〈いなくなった自分〉を座らせてじっと見ていた」のです。
死刑囚にとって「いない」という感覚が
どれほど絶望的なものか
想像するに余りあります。

一方私たちにも、死刑囚におけるようなリアリティはなくとも、「いない自分」あるいは「いなくなった自分」はいるのではないでしょうか。
「いる」という感覚よりも、「いない」という感覚の方がつよいのではないでしょうか。

辺見さんは言います。
今すべきなのはその「いない自分」または「いなくなった自分」と向き合うことではないか。
私たちはその「観照の方法」を大道寺死刑囚に学ぶべきではないか。
すると暗闇の中から新たなファシズムの姿が見えてくるのではないか。

そう、今来たるべきファシズムは外から暴力的にやってくるのではありません。
「凍てついた魂で予感するなら、このファシズムはなべてならず、じつに手ごわい。動員と統制の時代がくるなどと私はわかったようなことを書いたことがあるが、それは実際には一九三〇、四〇年代の再来とはずいぶん異なるだろう。石川淳の『マルスの歌』についても何度か述べてきたのだが、石川淳が三七年に耳にして嫌悪したような軍歌がそのままこれからうたわれるわけでもない。(略)思えらく、これからの新しい『マルスの歌』とは、谷川俊太郎や長田弘の詩みたいに不気味なほど優しく、ときには『平和』という言葉をたくさん織りこんだ、およそ軍歌らしくない軍歌なのではないか。」

来るべきは優しいファシズムです。
動員と統制も、すぐには強権発動されず、
戦争協力のための義務規定を「国民保護」といってのけるように、
「言葉のすべては優しく巧みに裏返されコーティングされている」ファシズムです。

つまりそのファシズムは、私たちそれぞれが耳ざわりのいい歌の「優しさ」に危険を感知し、
その正体を見極めようとしないかぎり
我知らず、おのずと内面化してしまうものなのです。
つまりそれはまさに「自分のファシズム」です。
そしてそれが、いつしかいなくなった=連れ去られた自分の代わりに
まるで新しい自分のようにそこに座っているのです。そうなってはもうおしまいです。

「新しい『マルスの歌』はきっと国家から無理にうたわされる歌ではなく、私たちが心のうちでみずから口ずさむ、どこまでも優しい歌であろう。まずは怒りを殺したい。静かな心で暗闇に向かい。〈いなくなった自分〉を見いだしたい。奪われた意識の空洞にいまなにが居すわっているのかを手探りしたい。自分のファシズムの質を知りたい。」

2013年4月15日 (月)

辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社)①

辺見庸さんの新著『国家、人間、あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社)を
読みました。Kokka 

「すばる」2月号の小説「青い花」と共に
昨今の自分が抱え持つ、浮遊するようなうっすらとした不安や絶望に
確かな重みを与え、降り立つべき底を示してくれた一書でした。

ここにあるのは「敵」を撃つために研ぎ澄まされた言葉です。
「敵」とは政治家や世俗的な人間といった具体的な存在を超えて、
今私たちを諦めさせ抵抗を放棄させ外部に対し閉じさせている
私たち自身の思考回路そのものです。
いいかえればそれは
生命を失って記号と化してしまった言葉の回路です。
辺見さんの言葉は
痛みと真摯さと美しさ、そして何よりも既成の言葉や思考を踏み越える勇気によって
閉ざされていた回路をひらいてくれます。
言葉によって胸底の生命力は掻き立てられ
このような時代になお生きんとする力がどのようなものかを
身の内から知らされていきます。

言葉の力とはまさに生命の力なのだ、とあらためて実感しました。

少しずつ内容を追っていきたいと思います。

今この国では
不気味な深層が表層を突き破ろうとしています。
新たな災厄や戦争が始まる予感さえします。
本著の冒頭では指摘されるのは
メディアが総力をあげて隠す「日本的情念の古層」です。
情念の発動には恐怖と快楽の脳内回路の短絡が関わる、
と辺見さんは述べます。
二.二六事件の首謀者もまた
「あの快感は恐らく人生至上のものであらふ」と記したその情動は
今「ファッショ的紋様となって表土にあらわれている」。
それに応じるように
人や事物からアウラ(=「ひとがただよわせる名状しがたい気配)が
どんどん失われていく。
政治家は勿論、アートからも言葉と声からも。
もはや全ては本質から脱落した「スメグマ」(恥垢)のごとく。

次のような痛切な叫びは、
まさに今の私のものでもあると感じます。

「こころみに自問してみよう。わたしは、わたしたちは、いったいなにをしたいのだろうか。なにをしたくて、いま生きてここにあるのか。なにをしたくて、いままで生きてきたのか。なにを見たいのだろうか。なにを見たかったのか。今日のこの日を見たかったのか。」(「狂気の輻」)

「言葉ははたしてつうじてきたのか。言葉はとどいているのか。とどいたことがあったのか。とどいたふりをしてきただけではないのか。わたしは、わたしたちは、いったいなにをうたってきたのか。これからなにをうたいのか。」(同上)

「わたしは、わたしたちは、死人であることにさえ慣れきってしまったのではないか。わたしは、わたしたちはせめて狂者であるとみとめるべきではないのか。わたしは、わたしたちは、狂者か半狂者であることをわすれている。 」(同上)↓
                              
なにかをしたくて生きているのだ、と偽りの欲望を疑わない人々―
言葉はつうじていると、関係性を幻想するにんげんたち―
今、みずからを狂者とさえ認めない死者である生者たちが、
おぞましい死者の夢を見ているところです。
そしてその夢のとおりに、現実の泥がこねあげられていくのが今の悪夢のような
前ファッショ的な社会のメカニズムです。

そのような正気のふりをする狂気の現実に対し
もっとも有効な抵抗の方法は、じつは実相を突きつけることなのです。
英雄ペルセウスが怪物メドゥサに鏡を見せて石化させたように
現実に対し狂気という実相を像として突き返すことこそが
もっとも根源的で有効なのです。

この著で次々突きつけられる実相は鮮烈です。
現在の、互いに相争いおとしめあい
破滅へ突き進む民衆や市民の狂気のあられもない姿には
狂える「輻(や)の群れ」というイメージが突きつけられる。
それは見たこともない圧倒的な光景、
しかし未来でもあり古代でもあるような根源的な「真景」です。

「わたしはここで、光る輻(や)をイメージする。空無の宙を、気のふれた磁波として翔けるおびただしい輻。民衆、人民、市民とは、甑(こしき)から遠くはずれた、方向をもたない輻。無我夢中で無を翔ける輻。血迷い、眩み、眼がかすみ、渇き、しかし、ひとの痛みをもはや痛まない、わたしは、わたしたちは狂える輻である。」(「狂気の輻」)

「おれはおれを、おれというイカレた光で、一閃、二閃、刺し殺す。だから暗視機能つき監視カメラで狂気の輻を二十四時間監視せよ。高性能レーダーを準備せよ。戒厳令をしけ。迎撃ミサイルを用意せよ。天翔ける輻の群れを撃て。撃つなら撃て。」(同上)

「おいおまえら、そこをどけ。どかないと、おい、おまえたち、おれはおれというからだで、おまえらを無差別に突き刺すぞ。ビュービューと天翔けていき、正気ぶる、賢しらぶるおまえらの、眼を、首を、心臓をぶすりぶすりと刺しつらぬいてやる」(同上)

「「多分、いつか人々は狂気がどんなものでありえたかが、もうはっきりわからなくなるだろう」という、その「いつか」が、すでにきていることに、わたしはわたしで、おもいいたすのみである。」(同じ上)

2013年4月 2日 (火)

3.31鶴橋カウンター&反ヘイトクライム連歌

一昨日、鶴橋で行われた在特会による差別デモへのカウンターに参加し、 Counter
プラカードを掲げながら、抗議の声を上げてきました。このデモについては下記の記事をご参照下さい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130401-00000008-scn-kr

当初は荒れるなどという予想をきいていので
行くのをためらっていました。
しかし実際は
カウンターの人数と声はかれらを圧倒していました。
鶴橋駅前、日本橋、道頓堀と三カ所で見た
レイシストたちの実像は
街の風景から完全に浮き
街ゆく誰にも声は届かず
日の丸のたけだけしさとはうらはらにZaitoku
はかない蜃気楼のように思えました。

2009年12月に起こった
京都初級学校襲撃事件では
街宣車に乗るでもなく普通の市民を装いながら、
聞いたこともない言葉のナイフを
白昼堂々子どもたちに思う存分ふるう
鬼に変貌したかれら。
林立して掲げられる日の丸の赤は
かれらの心を染めている色、
社会を不信と憎悪へ向かわせようとする怒りの色です。
しかし
人と人とが長い歳月をかけて
事実の積み重ねと労苦をかけて築かれてきた信頼関係を
愉快犯がふるう一瞬のナイフで分断させてはなりません。
社会の空気そのものが
かれらを追いつめていくようにしなくては。
さらに多くの人々がカウンターで
かれらに罪を突きつけていかなくては。
それは途方もない罪を無自覚に重ねる人々自身にとっても
必要なことなのです。

また昨日から今日にかけてTwitter上で
鶴橋と新大久保でのカウンターに参加された二名の方と
連歌をしました。
たまたま@HeartRightsさんの第一首に私が返歌を付けたことから
始まったものです。
同じ経験から新しい感情と希望を触発しあえた
楽しいひとときでした。
@HeartRightsさん、@confuocoDalnaraさん、
どうもありがとうございました。

言の葉に憎しみ乗せず目の前にいる人を見て仲良くしよう

3.11後残されたのは言葉だけ心のようにいつくしもうよ

けものらの群れに抗い掲げらる握手の絵こそ人類の花

けものらよ言葉のナイフをすてたまえわれらの花の力の前に

咲き誇れ汝れの庭に咲かせよう己の庭に言の花、心花を

沿道に咲いた言葉の花の列人の理性の訴えて咲く

声受くるプラカのふるえに実感す理性もとむる花々の開花を

地を揺らす理性の叫び受けて咲くプラカの花に満ちる凛性

プラカードに落つ花びらのやわらかさ染め広がるかこの国にも

この地にも埃払えば見えるはずプラカの花を育てた国土(つち)

花冷えの冷気を溶かすプラカの声言葉の届く世界を希いつ

言の葉が差別の毒で枯れるとも土は咲かせる理性の花を

花ひらく土には涙もしみておりあの日俯き耐え抜きし友

偽りなき香り残せし花のごと余韻も力 プラカの言葉

顔も名も知らぬ人とも並び立ち共に叫んだ生きてくために

いづくよりかの人々は来たれるか「良心」という祖国のために

花びらのごと手のひらに落つ言葉やがて心の地土耕すか

花びらは闇を照らしておりてゆく手のひらたちと呼び交しつつ

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