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2013年5月

2013年5月31日 (金)

『女性のひろば』7月号の「排外主義、ヘイトスピーチ 私はこう思う」特集に書いています

お知らせです。Josei2

『女性のひろば』7月号(日本共産党中央委員会発行)の
「排外主義、ヘイトスピーチ 私はこう思う」特集
弁護士の梓澤和幸さん、新宿区議の佐藤佳一さんと共に発言を書いています。
タイトルは「人の魂を殺す犯罪を止めさせよう」です。

他に今号では「告発―歴史の逆行と人間への冒とく」で
橋下発言が取り上げられていて、これも大変タイムリーな内容となっています。
いずれも的確な発言ばかりで
私も大いに参考になりました。

定価300円。入手方法は書店注文か03-3470-9636(業務担当、送料はかかるとのことです)にお申し込み下さい。あるいは各地の共産党の地区委員会でも入手可能のようです。

なおタイミングよく、今朝、NHKでNHKで在日韓国人などへの "ヘイトスピーチ"特集が放送されました。ご関心のある方はぜひ下記URLを御覧下さい。→ http://bit.ly/11soK0I

2013年5月28日 (火)

5月12日ETVこころの時代シリーズ「私にとっての3.11/「奪われた野にも春は来るか」」(3)

鄭さんはなぜChooo0
1926年に植民地下の朝鮮で書かれた李相和の詩の題名「奪われた野にも春は来るか」を写真展のタイトルとしたのでしょうか。

そもそも李相和はどのような状況でその詩を書いたのでしょうか。

以下は一昨年ハンギョレ新聞に掲載された
徐京植さんの「李相和の『奪われた野』と福島」の一節です(日本語版をそのまま引用します) 。

「李相和は抵抗詩人だ。 1922年に日本に行った彼は翌年9月、関東大震災の時に恣行された朝鮮人虐殺を目撃して帰国した。 そのことが彼を抵抗詩人側に強力に導いたのだろうという話もある。『奪われた野にも春は来るのか』は1926年の作だ。 当時朝鮮では日帝の『産米増殖計画』に伴う収奪で多くの農民が根源を抜かれ流浪者になった。私の祖父が日本に渡って行ったのは1928年だ。その3世代後の人として私は日本で生まれた。在日朝鮮人の多くがそのようにして日本で生きることになった。李相和の詩は植民支配下の朝鮮人の心を歌った名詩であり、まさに在日朝鮮人の心を歌った詩だ。」

つまり
放射能によって土地を半永久的に奪われた福島の人々の悲しみと
故郷を他者に支配され収奪されるのを目の当たりにした朝鮮の人々は
「奪われる」という経験を共有しているのではないかと
鄭さんは考えたのです。
故郷を奪われる心は同じではないかと。

しかし一方、
当時の朝鮮人の悲しみを象徴する詩のタイトルを写真展に付すことは、
そもそもは地震と津波という「自然災害」が原因で故郷を奪われた日本人と
植民地主義の暴力の被害者である朝鮮人の体験を
同質化することにならないか。
その結果、
かつての日本人の植民地支配を免罪しているようにとられないか、
という懸念が生まれ、
鄭さんは悩みに悩みました。

そしてたどりついたのは次のような考えです。

問題は免罪符を与える与えないということにあるのではない。
奪われるという経験を互いに共有することにあるのだ。
そうすることで過去の日本人の行いについても考えをめぐらせ、
歴史への向き合い方も意味の深いものになる。
苦痛により互いが理解できる地点が生じるかもしれない。
それがどの程度真の共有点になるのかが問題である。

李の詩は
「しかし、いまは野を奪われ春さえも奪われようとしているのだ」
という一行で終わる。
その後がないのである。
この「春」とは一体何か?
ただの季節なのか?

朝鮮語の「春」には「見る」という音が含まれている。
しかもその「見る」は「直視する」「しっかり見る」
ひいては「考える」という意味だ。
つまり「本質を理解する」「悟る」。
それがこの「春」の意味である。

「春」が「希望」ならば、
「希望」とは希望のないところに見つけるものだ。
時間が経って自然に与えられるものならば
それはただの季節の「夏」と変わらない。
しかし私の、李の考えた「春」はただの季節ではない。

失われた春は「与えられる」のではなく
「取り返す」のである。
直視することでどう取り返せるのか。
それが私の考える、見せたい春なのだ。
記憶は薄れていくだろうが
私は自分が信じてみようとすることを提示するだけだ。

被災地は被写体自体が強烈であるから
そのつよさに触れただけで限りなく写真は撮れてしまう。
そういうものを苦心して避けつつ
そこからさらけだされてしまうものを
配慮をもってさらけだし、共有したい―

以上のような鄭さんの思いと考えは
私にとってもまさに「希望」に思えます。
鄭さんは
今、福島あるいは日本から、
何が何によって、どのようにして奪われているのかを直視し
見えてきたものを写真で示すことで
それを見る福島あるいは日本の人々と
現在の福島あるいは日本における故郷喪失の痛みを共有し、
さらにはその痛みの共有から
一世紀以上前の朝鮮の故郷喪失の痛みをも
互いに共有する可能性を探るのです。
そして
現在と過去を貫く新しいまなざしを互いに持つことで
奪われたものを共に「とりかえす」可能性をも生まれるかもしれない、
そのとき「奪ったもの」である本当の敵の姿が
見えてくるかもしれない、と。

鄭さんは「奪われた野」を生涯訪れ続けたいと言います。

この南相馬での撮影を私のプロフィールにしてしまってはならない。
見つめた対象が写真という活動に使われてはならない。
相手と自分との関係が一度だけの素材として消費されてはならない。
命の続くかぎり繰り返し訪れたい。
一年に一度はたとえ撮影しなくとも訪れ
変わっていくものを確認し共有したい。
自分がここを訪れることがただの素材ではないことを確認したい。
誰かに見せるのではなく自分が確認したいのである。
人間という存在とは
人間の欲望とは何かを
学び続けたい。
それが私にとっての写真である―

写真とは自分自身を見つめ、変わっていくこと―
そのような信念を持つ写真家に写されることで
「奪われた野」は
必ず何かをとりかえしていくはずです。

Chooo1

2013年5月27日 (月)

5月12日ETVこころの時代シリーズ「私にとっての3.11/「奪われた野にも春は来るか」」(2)

3.11以後の写真とは何か。
美しい自然を撮るだけでは何が起きたかは伝わらないのでは。
目にみえないものをいかに伝えるのか。
写真を撮る者とそれを見る者の双方が
社会に対する記憶や認識を共有していくことが
表現の限界を超えるカギとなるのではないか―

共有する知識や経験を獲得しそれを利用し、
対象と向き合う姿勢を通じて、
自分自身が見たものを伝えていく。
写真はある事実を通じてしか思いを伝えることができない。
だからそのためにはお互いが共有する経験や知識を持ち
「目に見えないもの」を見るようにさせたり、感じさせたりするのだ―
写真そのものは人間や社会の瞬間的な断面を切り取ったものにすぎないが、
撮る側も見る側も
事実の背後にあるものを深く知ろうとすることで
写真を通じた対話ができるのではないか―

そのようなCho3
シャッターを切る以前にまず「何を知るべきか」「対象とどう関係を築くべきか」
を考える鄭さんの姿勢の原点は
学生時代に出会った「恵生院」という精神障害者の施設での体験です。
最初カメラを持参しなかった鄭さんが
写真を学んでいると知ると、
入所者たちは「なぜ自分たちを撮らないのか」と迫ったそうです。
かれらは手錠さえも見せ積極的に自分を晒そうとしました。
そのとき鄭さんは、
「この人たちは誰なのか」「心の病とは何か」「なぜ自分ではないのか」
と根本的な疑問が湧き悩みに悩ました。
そのために初めて聖書も読みました。
歩けなかった男がイエスに「罪は許された。歩いていけ」といわれ歩けるようになった。
しかしその「原罪」がいかなるものか分からない・・
自分がいかに無知であるか分かり、
写真の技術よりもまず本当に勉強しなければならないと考え、
ドイツへ哲学を学びに行きました。

ドイツで哲学を学びながら分かったのはCho1
「自分は哲学者になるために学んでいるのではなく、写真に足りない思考を養うためなのだ」ということ。
そしてあらゆるシステムが整いゆたかで文化的で一見完璧なドイツ社会でも
老人たちがいかに人間関係において孤立しているのかが見えてきた。
それは通りすがりでは見えてこないけれど
暮らして初めて見えてくる真実です。
しかしかれらを写すときに実感されたのは
恵生院でも痛感した「写真そのものにある暴力性」です。
負の部分をさらけ出させる暴力性の高い行為を
自分におこなう資格などあるのか。
そもそもそのような写真という表現に問題はないのか。
そこでむしろ故意に最も暴力性の高いフラッシュを昼間に光らせ
道を行く老人たちを撮影することを試みました。
そうすることで
孤立する人々を写真としても孤立させ
真の姿を写し出せると思ったからです。
私は鄭さんのこの発想には驚かされました。
それは写真の暴力性を隠蔽するのではなく
社会の暴力性と写真のそれの二重の暴力性をさらけだす
まさにすぐれた方法ではないでしょうか。
(ちなみに詩で「3.11を描く」という時もまた、まず詩あるいは言葉の暴力性を問うべきなのではないでしょうか。その反省に立ち深めることで、詩あるいは言葉そのものと社会と自然の暴力性を同時にあばく詩とはどのような詩でしょうか。)

そしてまさに南相馬で写真を撮るということこそ
写真の暴力性を問われる行為です。
そのことを鄭さんは自問し続けました。

結局、位置の問題かもしれない、と鄭さんは言います。Cho2
撮る者と撮られる者とがお互いの位置を確かめることが必要なのだ、と。
相手が自分に見せる姿を通し
私が何を把握できるのかを深く考えること。
そうしてこそ、もう少し意味のあることが出来るのではないかと―

この自問の延長で、
鄭さんは写真展のタイトルとして
日本の植民地支配の時代の朝鮮に青春期を送った李相和の詩のタイトル、
「奪われた野にも春は来るか」を選びました。
そしてその、朝鮮と福島を往還する鄭さんの思考は
私たち日本人が3.11以後にどう変わりうるかを模索する上で
大変大切なものが含まれていたのです。

2013年5月25日 (土)

5月12日ETVこころの時代シリーズ「私にとっての3.11/「奪われた野にも春は来るか」」(1)

5月12日こころの時代シリーズ「私にとっての3.11」はPhoto_5
東日本大震災被災地直後から福島の写真を撮り続けている
韓国人写真家・鄭周河(チョン・ジュハ)氏。
南相馬市で震災二周年に開催された
写真展「奪われた野にも春は来るか」をめぐって
鄭氏の思いと同展のもようを特集したものです。

3.11以後、表現者にとって被災地とは何か。
その何をどのように表現すべきなのか。
あるいは被災地にとって表現者とはどのような存在でありうるのか―
それらの問いかけをめぐって
大震災後福島との関わりの中で思索を積み重ねてきた写真家の繊細な言葉は
3.11以前と以後を本質的に通底させる思考と感受性にみちていて
大変興味深いものでした。

鄭さんは語ります。

自分は何を見つめるべきか。
失意のどん底にいる人々の苦痛や叫びを撮って見せるべきなのか。
南相馬の風景は本当に美しい。
大昔からの四季の風景は変わっていない。
その動かすことのできない本質を見せること―
そして被災地の人々が
ここはどこか?
自分が何を見ながら生まれ育ってきたのか?
ここが本当はどんな場所なのか?
をまっすぐ見つけられたら
自分の写真はより良いものになるのではないか―

「ここが本当はどんな場所なのか」。
それは
奪われて初めてやってきた故郷への慟哭です。
これは震災直後、同じこの「こころの時代」シリーズで
作家・詩人の辺見庸さんが
故郷の石巻について語っていたものと同じです。
そして今回の番組のタイトルともなった詩「奪われた野にも春は来るか」で
李相和が「奪われた野」と表現した
植民地支配下の故郷朝鮮が慟哭そのものであるのはいわずもがなです。

鄭さんは福島を撮る前に
韓国の海岸沿いにある原発の風景を撮っていました。
その写真集のタイトルは「不安、火-中」です。
韓国語の「不安(プラン)」は「火(プル)+中(アン)」。
つまり鄭さんは原発を「火を作る装置」として捉えたのです。
原発の近くに住む人々には正反対の感情が共存している、
と鄭さんは言います。
昼には何事もなく海で釣りや貝を採ったりしている。
しかし夜には原発から夜ごと聞こえて来るうなり声のような音に恐怖を覚えている。
つまり人々は不安を内に抱え込んでいるのであり、
不安は「火」の内側から生まれている。
原発は存在自体が不安なのであり、中と外との境界がなく
一度問題が起これば、外の人も自動的に中へとひっぱりこまれてしまう―

そのように写真を撮る行為においてPhoto_3
対象と自己との関係の中から原発について考えを深めてきた鄭さんが
福島に向かうのは必然でした。

当時、福島の人々の背後に立ち
その考えを貫くようにして見ようとしてきた、と鄭さんは言います。
その思いを共有したいという気持があったのだと。
それは「励ましたい」というのとは違う。
例えば防波堤に置かれていた
木彫りの人形が遠い海を見つめている写真がある。
その視線と海を一緒に
南相馬の人々に見ていただきたいのだ、と。

私は誰もいない風景の中に
この象徴としての「まなざし」を見出した鄭さんは本物の写真家だと胸をつかれました。

また震災後初めて福島に入った時にPhoto_2
案内してくれた人が鄭さんを最初につれていってくれた場所は
郡山の朝鮮学校だったそうです。
誰もいない汚染された運動場のすみに
ブルーシートで覆われた汚染土の山を呆然と眺めていた時、
「本当に福島にいるのだ」と心の底から感じられてきたそうです。

2013年5月12日 (日)

連詩集『悪母(ぐぼ)島の魔術師』(新藤凉子・河津聖恵・三角みづ紀、思潮社刊)が出ました

2009年から2011年にかけての約一年半の間、Gubo4
雑誌「現代詩手帖」に毎月連載した、
新藤凉子さんと三角みづ紀さんとの連詩
「悪母(ぐぼ)島の魔術師」が詩集になりました。
岩佐なをさんの挿画が内容に即して各所に挟み込まれ、
とても素敵な仕上がりになっています。

ある会で出会った新藤さんと
ふいに連詩をやらないかという話になり、
そこに若い三角さんも加わり、
異なった世代がそれぞれの詩の時間の先端をとぎすませて
編み合いました。
非現実的な空間でのことばの「運動」と「物語」が多様に展開しています。
三人三様、
書法も詩観も恐らくかなり違うと思いますが、
それだけに毎回どんな言葉たちが手渡されるか予想もつかず
わくわく待った、大変楽しい体験でした。

なぜ「魔術師」だったのか。
タイトルは最初決まっておらず
第三章辺りで新藤さんが直観で付けてくれました。
マジシャンでも魔法使いでも道化師でもある
とびはねる透明なその妖精的存在は
詩の中につねに出現するとはかぎりませんでしたが、
その存在を中心的に意識することで
詩の空間はとてもゆたかで、愛の溢れるものになったと思います。
また書く過程において互いが女性であることは
余り意識しませんでしたが、
魔術師という少年の遇し方には
やはりセクシュアルなもの?があったのではないでしょうか。

第一章で三角さんが出した「しんでいるお母さん」が
第二章の新藤さんの「ママン」=カミュの「異邦人」を惹起し、
その連想から、私の第三章で「原初の子ども」が生まれ―。
ちょうど日食の頃に書いたと記憶する同章を
以下引用します。

悪母島
ここをそう名づけた原初の子どものようにGubo3
男は海の彼方をみつめている
昼から夕方へときゅうに暗くなる空の下
燃え始める水平線のだいだい色は
見ひらかれた目の中で
かなしく紅色へ深まっていく

46年ぶりの皆既日食が始まる
あれから46年ぶりなのだ
あれからって、もうあれからとしか言えないくらい
頭のてっぺんから爪先まで
幾度も細胞はきれいに入れ替わっているし
顔も名まえも
世界の裏からふたたび血が滲みだす寸前に
包帯のように代えてきたから

なにしろ途方もなく時効なのだ
もうぼくを誰も捕らえてくれないんだよママン

水星と金星も出てきた
ダイヤモンドリングがはじまる
手はさびしそうに血まみれになっていく

この一集にある
詩と詩の
そして絵と詩のアクロバットなハーモニー。
私たちの魔術師が
読者の一人一人にひそむ魔術師と
素敵な出会いをしていってほしいと願います。

思潮社刊、定価2,000円+税です。

2013年5月 7日 (火)

5月6日付京都新聞・詩歌の本棚/新刊評

5月6日付京都新聞・詩歌の本棚/新刊評

                                        河津聖恵

  辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』が出た。テーマは詩、言葉、声から、個、国家、歴史まで幅広い。だがその全ては詩に深く通底する。辺見氏は大震災以後、こう問いかけている。「言葉はとどいているのか。とどいたことがあったのか。とどいたふりをしてきただけではないのか」。根源的な、そのような疑念を抱えながら、今なお書くのはなぜか。氏は言う。「つまり世界は狂っていないということを前提するような目がありうるのかどうか。そこに僕はとんでもない不信感をもってしまった以上、詩でも書くしかない」。つまり詩とは今、狂っているのに正気然とした現実から、実相を暴き出す行為だ。あるいは現実の狂気に、魂の豊かさとしての「狂気」を対峙させる表現なのだ。
 たかぎたかよし『うつし世を縢(かが)る』(編集工房ノア)は、熟練した筆致で古典的とも思える情景を描く。その過程で心や時間の本質が淡く絵画的にあぶり出されるが、そこにはつねに静謐さと激しさがせめぎ合う。場面はいつも何かが終わった事後だが、一方何かが突然兆す不穏な気配も濃い。ここにある物狂おしさや疑念の正体ははっきりとは書かれていないが、それらが辺見氏の抱えるものと相違しないことは、たしかに伝わってくる。
「風が止んだのか/青い花叢の手前で蟻の列が乱れている//胸を衝かれて/静まる一劃/空には/まっさらな白が東を指している//時間(とき)のしみ入った/草や木の/呼吸とは違って/昼の月/ふっと 吹き返されそう//たまらなく黒を掃きたくなる//影を? 人の騒ぎ戯(ざ)れ言の/いや すべなく消えねばならぬ/今日の誰か」(「雲を描く」)
「道の踏みかたが/一足ごと ことごとく違っている//疑え 疑え なお/小止みなく/夜への足どりを ね/雨が叩いている//水はねるのは私のでしかない日脚(とき)の急ぎ//ぜひもない旦夕(あさゆう)を/今日と/ゆえ止どめるように呼んでみてほっとしている」(「雨の反芻」)

 藤井雅人『ボルヘスのための点景集』(土曜美術社出版販売)は、「二十世紀アルゼンチンの偉大な文学者」ボルヘスへ捧げられた散文詩集。ボルヘスは一般に短編作家として知られるが、視力を失った晩年には作品は凝縮され、「散文詩との区別は付けがたいものになった」。その作品意志を受け継いだこの詩集には、大胆な物語設定の散文詩が並ぶ。その中でも大震災の「震撼の中から直接生まれた」という「掌」は異色。現実の狂気の様相を、掌に載せてあらためて実感し、そこに見えてきたものを丁寧に描出している。
「静止しながら重くなっていく掌がある。微動だにせず時の波をかき分けていく指先。その柔和さから、畏怖すべき黒い光が避けがたく発している。」「またある時、掌のうえに整った農地を、群れ立った水の爪が侵していった。瓦礫の領土がひろがるのを止める術はなかった。水の鎌は二度、三度とゆらめき、人のわずかな望みまでえぐり取った。海辺で地底の火を盗んだ炉が破裂し、白い毒気におおわれた土地は無人となった。透明な死の棘のまわりに立ちすくむ人々に、戻れる時は来るのか。」
 丸山真由美『停留所(バスストツプ)』(編集工房ノア)は、「生きているしるし」としての詩を、「ふわりと」確かに、日常の風景に刻印する。
「大いちょう三本/天へ向かって/黄を放つ/目だけになって/中宙(なかぞら)に豆粒のような人影を見る/わたしに手を振る/言い残した話のつづきだろうか/物語はいつもこの辺で躓く」(「岸辺」)

2013年5月 1日 (水)

「環」53号に「さびしさと悲傷を焚いて─宮沢賢治」(「詩獣たち」第10回)を書いています。

「環」53号(藤原書店)にKan53
「さびしさと悲傷を焚いて─宮沢賢治」(「詩獣たち」第10回)を書いています。

私は賢治の世界に小学生の頃初めて接しました。
その世界は幼心に「もう一つの世界」のたしかな実在感を与えてくれました。
とりわけ「よだかの星」の闇と光は
いまも鮮明な心象風景として心の深くに刻印されています。

そして高校生になって私が生まれてから二番目に書いた
「幽霊」という詩は、
「銀河鉄道の夜」に触発され書いた作品でした。
真昼の地上の野を汽車が往くという設定です。
「私」はカンパネルラのような少女たちと乗り合わせている。
その一人また一人が車室からいつしか消滅していくと、
やがてたった一人となった孤独の強烈な明るさに苦しめられながら
たちのぼる春の蒸気に包まれ、どこまでも旅を続けていった―
そんな詩の体験が現実の記憶のようにいまも生々しく蘇ります。

今回この原稿を書くために
賢治の日記や手紙も読みました。
そこから迫ってきたのは
暗い時代と自身の宿命という限界の中で
人間の真の共同性をもとめて切実に葛藤し続ける
本質的には宗教者である詩人の姿です。
その詩はまさに祈りと共にありました。
「心象スケッチ」である『春と修羅』の作品群を書く中で
詩人は魂のただなかで四次元という無限の軸をつかみとり
そこに個の宿命である生と死の時間を解き放っていきました。
そして未知の共同性と交感の可能性を見出したのです。
その「発見」または「覚知」を
詩の美しさと共に追体験することは
今こそ私たちに必要なことではないでしょうか。

ご一読いただければうれしいです。

…この最後に加筆された「序」にある「わたくし」は、固定的な主体ではなく、一瞬のはかない「現象」であり、生命の光を他者とたえず分かち合う「照明」である。「電燈」という「個」ではなく、光を「たもちあう」関係の一部だ。そのような「わたくしといふ現象」が無数に交流し、闇を焚き照らしだしていく。詩獣は『春と修羅』の詩作を通し、未知の共同性と交感の可能性を見出した。それは「わたくし」たちの「交流」が、個の宿命としての生と死の時間を、四次元の時間軸へ解き放ちうるという希望であり、過去と現在と未来が同時に存在する、「巨大に明るい時間の集積」(「序」)が立ち現れる予感でもある。…

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