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2013年6月

2013年6月27日 (木)

ルーマニア映画『汚れなき祈り』

ルーマニア映画『汚れなき祈り』(監督クリスティアン・ムンジウ)をみました。Kegare3
2005年同国の修道院で実際起こった「悪魔つき事件」にもとづく映画です。

主人公はかつて同じ孤児院で育った二人の若い女性、アリーナとヴォイキツァ。
彼女たちはかつて親友以上に深い感情で結びついていました。
しかしヴォイキツァは修道女の道を選び、そこで神の愛に目覚めていきます。
彼女を失ったアリーナはやがて国を出てドイツに働きに行きます。
しかしそこでもただ一人孤独でした。
やがてアリーナはヴォイキツァに会いにドイツから戻ってきます。
そして彼女のいる修道院に滞在し、そこで事件が起きます。

孤児院、欺瞞的な里親との生活、そして冷たいドイツ社会で傷ついた果て
アリーナはヴォイキツァと共に社会で生き直したいと思い
修道院から連れだそうと思ってやったきたのです。
だから愛する人の心を奪った修道院に憎しみを覚えていきます。
そして純粋であるがゆえにつよい不信感から
司祭や修道女たちの欺瞞を見抜いていきます。

やがてアリーナは怒りと共に精神的な発作を起こします。Kegare2
持てあました修道女たちは里親や病院に相談しますが、当てになりません。
そこで修道女長はヴォイキツァに
神父に悪魔払いの儀式をたのんではどうかと助言します。
そしてアリーナは部屋に閉じ込められますが、火を放ちます。
修道女たちはアリーナを押さえつけて縛り、
板にはりつけ食事も与えず、悪魔払いの儀式が開始します。
寒さの中でやがてアリーナは衰弱死してしまいます。
救急車が呼ばれ、病院で不審な死であることが発覚します。
その後不法監禁致死罪容疑で
司祭とヴォイキツァを含む修道女たちは車に乗せられて
警察へ向かいます。

…ストーリーは以上ですが、映像も演技も演出も素晴らしかったです。

日本における宗教のカルト化や
それを促進する世間の無理解なども思い合わせ、色々考えさせられる映画でした。
またルーマニアの孤児といえば、チャウシェスク時代の中絶禁止も思い出します。
貧しくて育てられず、ホームで赤ちゃんを売る母親たちの写真もありました。
アリーナもヴォイキツァもその頃の子供なのでしょうか。
彼女たちは社会主義時代の棄民ともいえるでしょう。
またアリーナはドイツのバーで働いていたという設定ですが、
これもベルリンの壁崩壊後の貧しい東欧からドイツへの出稼ぎ労働者の急増を背景にしているはずです。

この事件を引き起こした真の原因もまた、
カルト性や集団の狂気など、宗教の側にあると言い切れないと思います。
私にはむしろ真犯人は、棄民(修道女もまた世間から排除された女性たちです)を
教会という社会の外部に押しつけ
「汚れなきふりをする」世俗社会の方にあるような気がしてなりませんでした。
ラストシーンで護送車のフロントガラスが雪解けの汚水を浴びますが、
そのシーンが象徴するのも、「汚れ」とは何か、どこにあるのか、ということではないでしょうか。

この映画で丘の上の修道院には雪が降り続けます。
降り続ける雪は、危険であるが美しいものです。
この映画で「雪」とは
信仰あるいは神への確信を象徴するものではないかと思いました。
つまりたえず降り続けなければ、そして積もり続けなければ
信仰は融けてしまう。
そして一度融け始めれば、土と入り交じり、汚れそのものとなってしまう(ラストシーンの街の汚水のように)。
つまりこの映画の「雪」とは
最も美しい信仰というものも、一度疑われ始めれば、
最も汚いものと繋がりうるということを
象徴するのではないでしょうか。

あとは教会の周囲で聞こえ続ける犬の遠吠えも気になりました。
それもまた「不信」の象徴ではないでしょうか。
村人は教会には習慣として来るのですが、本当に神を信じているのでしょうか。
あるいは、同じ神を信じているという確信から、他者を信じることが出来ているのでしょうか。
殺人犯たちも村人もそして誰しもが
自分だけを信じているだけではないでしょうか。

そのように
神、人間、社会、信、というテーマについて
美しい映像と共におのずと考えさせられる映画でした。
あるいは映画の「まなざし」あるいは「まなざされた物質」から、
こちらの思考を触発する映画とも言えます。
私はストーリーの把握は苦手なのですが、
映画におけるそのような物質の象徴性だけはいつも心に深く残されます。
それが観念的な次元を超え、
人間の現在的な矛盾を象徴するものであればあるほど―。

2013年6月19日 (水)

6月17日付京都新聞朝刊/詩歌の本棚・新刊評

6月17日付京都新聞朝刊/詩歌の本棚・新刊評           

                                          河津聖恵

 薔薇が美しい季節である。この季節にはいつもリルケの薔薇の詩を思い出す。十九世紀末から二十世紀初頭、近代化と戦争を介し、人の生と死の意味が根本的に転換する時代に生きた詩人は、生涯薔薇を詩で称揚した。単に美しかったからではない。外へ咲きほどけながら、内から新しい花弁があふれる開花のありように、ゆたかな内面が外部の悲惨な現実を乗り超えやがて世界を満たすという、人の世の理想を見たのだ。やがてそれは「世界内面空間」と名付けられ生涯のテーマとなる。「そのおおくの薔薇は/みち溢れ 内部の空間から/日々のなかへ流れでていく。/そして 日々はますます豊かに完結し、/ついに夏が そっくりそのまま/ひとつの部屋に、夢のなかのひとつの部屋になる。」(塚越敏訳「薔薇の内部」)
 岩堀純子『水の感触』(編集工房ノア)は、生と死と愛をめぐる根源的感情を、内面の暗い水底から、夏の光の煌めく詩の水面へと掬い(救い)上げている。ぴんとはりつめた詩人の「ストイシズム」を軸に、まさに水面が映像を映し出すように的確な比喩や心象が生まれている。詩の重心には、生涯言葉を話さなかった姉と、死にゆく孤独を黙して耐えた父母の傍らに、最期まで付き添ったいのちの記憶がある。本詩集の詩は愛おしい者たちの死後、故郷で三ヶ月で書かれた「はじめての詩」だったという。詩はまさに、蘇生の夏の光そのものとして現れたのだ。
「生まれたとき/わたしは川底に躰を横たえていた/岸辺の草の穂に露がおり/水面を無数の光の玉が/水晶のように輝いて/流れていた/冷たい水に/草木の緑の翳が融け/高い空の青空も融けて/いくつもの光の筋が/川底の砂に/わたしの躰に/すきとおって降っていた/川を遡る魚は/青い銀色の光をはなち/藻のあいだでゆれるたびに/不思議な色に変わる/水は雨だれの音を鳴らしつづけ/風はチェロの音色を/低く響かせる//いまでも時おり/わたしは思い出す/あの硬質な水の感触を」(「水の感触」)
  荒木時彦『memories』(書肆山田)は、アフォリズムのような短い文章が、1から60まで番号を付せられている。各篇は断片的でそれだけでは詩とは言いがたいが、相互にはたしかに詩的連関がある。詩人は「永遠の一日」の、そのまた小さな永遠としての一瞬を、内部から外部へ点を穿つように記述していく。内部から現実に小さな穴を開け、封じ込められていた自由を密かに解放するのだ。やがてひんやりとした未知の孤独に佇みながら。
「カエデの葉が、水を求めたので、/その土地には、雨が降るようになった。」(16)「僕は愛している。//何を?」(17)「夜が明けない。/いつまでも、夜が明けない。」(18)「距離。//点と点を隔てるもの。移動を要求するもの。想像力を弱らせるもの。僕ときみを結ばないもの。」(31)「なぜ、こんなにたくさんの人がいて、僕は一人なのだろう?」(54) 
 佐々木果歩『よるのいえのマシーカ』(ふらんす堂)にある言葉たちは、歌と物語の境界にある。「とろとろ」と夢見る内面の波動のまにまに揺れている。そしてここにも薔薇が―。
「小さな木でできた舟を船頭はこぎ/小雨をよけながら湖をくるり/そこに野薔薇という/少しくれたら、唄を歌います。/アスチルベ、自由 自由な魂といういみ/いばらの奥に親子のいきもの/背中に子供をのせているよと/船頭さんが教えてくれる/野薔薇、無意識の美しさ 無意識 と強調するいみ」(「野薔薇とアスチルベ」) 

2013年6月 8日 (土)

舞鶴市にある「引揚記念館」を訪れました

先週土曜日(6月1日)、004_3
舞鶴市にある「引揚記念館」を訪れました。
なぜここを訪れようと思い立ったかといえば、
これからしばらく
シベリア抑留体験から言葉を紡いだ詩人の石原吉郎について
いろいろ考えようと思っているからです。

ここには石原のエッセイに書かれているラーゲリでの苛酷な現実を証言する
当時の貴重な生活品が展示してありました。
多くは監視の目を盗んで材料を調達して作られたという物品の一つ一つからは
アウシュヴィッツとも遙かに響き合う
生々しい痛みを伝わってきました。
体験者の手記やビデオや歴史的な資料なども018_5
やはりここでしか見られないものが多く、来て良かったと思いました。

記念館は舞鶴湾を見下ろす丘の上にあり、
隣接している「引揚記念公園」の展望台からは
舞鶴湾の東港が見下ろせます。
その右手に復元された「引揚桟橋」があり、
13年間にわたって引揚船が遠い満州とシベリアから民間人と兵士を運んできました。
総勢66万人以上の引揚者と
1万6千柱以上の遺骨がここから懐かしい故郷へ向かいました。
石原が八年間夢見た海が(夢見過ぎて「喪失してしまった」ほどの海が)
今も変わらず穏やかにたたえている水の優しい色に
ふと胸をつかれました。

シベリア抑留。
それは「終戦記念日」が近づいても余り語られることはない気がします。091_3
それはソ連が日本に宣戦布告をした1945年8月8日という
もはや終戦を目前にした時期に「始まった」のですから。

北満州の開拓団が
ソ連軍の満州進撃とともに
関東軍の保護を失い
悲惨な状況に追い込まれたことは、
ドラマなどでは時折見ることはあります。
しかしそれに比べても抑留の話は特集が組まれることは滅多にない気がします。

シベリア抑留は主に軍人の捕虜のはなしです。

ソ連は、労働に利用する目的で五十万人を捕虜にするために
八月下旬から「日本人狩り」を始めました。
軍人だけでなく、官僚や警察や情報関係者や民間人も対象となったそうです
また、日本国籍の朝鮮人も捕虜になりました。
ハルビンの関東軍情報部にいた石原も
十一月に捕虜となります。

そしてその後、あまりにも苛酷な抑留生活を047
八年間強いられます。
そのつねに死と背中合わせの現実から詩人の魂が掴んだ人間の真実。
石原の詩とエッセイはそれを渾身の言葉の力で抉り出しています。

シベリア抑留とは何だったのかについては
私ももう少し深く調べてから書いてみたいと思いますが、
私にとって石原吉郎という詩人について考えることは、
ぎりぎりの生の痛みの中から
国家や人間や歴史や神について語る
静寂の中から聞こえる声を聴取しながら考えていくことだと思っています。
しかもみずからの今の問題として。
このことについてはまた少しずつ書いていきたいと思います。

なお館内は一部を除き、写真は可でした。

086記念公園にある「ああ母なる国」と書かれた石碑が印象的でした。

「祖国」というより「母なる国」へのダモイ(帰国)だけを願って、抑留者たちは苛酷な生活に耐えたのです。

そしてこの記念公園にある碑は全て、いまだ多くの死者の眠るシベリアの方角、つまり北に向いています。

またあらためて記事を書きたいと思います。

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