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2013年7月

2013年7月26日 (金)

『環』(藤原書店)54号に「詩獣たち」第11回「すべては一輪の薔薇の内部に―ライナー・マリア・リルケ」を書いています

『環』(藤原書店)54号に、Kan54
「詩獣たち」第11回として
「すべては一輪の薔薇の内部に―ライナー・マリア・リルケ」を書いています。

今号の特集「日本の『原風景』とは何か」は
TPP交渉で農村がどうなるのか気になる昨今でしたので
大変タイムリーで、興味をそそりました。
「日本の『原風景』とは何だろうか? 
 原風景は個人的なものかもしれない。しかし、これまでこの山紫水明の風土を抱いて、日本の文化が作られてきたが、今や自らが、この百数十年でこの風土を破壊し、文化をも破壊してきている。
 一昨年の3・11の東日本大震災でも多くのものが破壊されたが、われわれが望み、自ら選択した近代化、文明化、西欧化が、先人たちによって育まれてきた文化や風土をどれ程、破壊してきたかがわかる。
 今、われわれが失ってきたものとは何か? その根本となる『原風景』の視点からこの特集を考えてみたいと思う。」(特集まえがき)

そう、「原風景」に想いを馳せるのは
自分自身の魂深くに耳を澄ますことでしょう。
各地についてそれぞれに
適切な論者による「原風景論」が立てられています。
川勝平太さんとの対談で山折哲雄さんは
日本は国土と国家の「二つの中心にもとづく楕円でできている」、そして
その楕円構造こそが「片寄ったナショナリズムを相対化できる」と語っています。
連綿と人を生かしまた人に生かされてきた「国土」、
さらには「原風景」という視点。
それをこのくにはもっと大切にしなくてはならないのではないでしょうか。

さて今回のリルケ論。
リルケは私が大学の時に卒業論文の対象として選んだ詩人です。
当時は『マルテの手記』や『新詩集』を中心として
詩人の中期を考察しました。
なぜかといえば
恐らくパリ時代の詩人の孤独や絶望や死の不安が、
精神的にもまた現実的にも前途が定まらないその頃の自分自身に
ダイレクトに共鳴するところがあったからだと思います。
まさに『マルテの手記』に出てくるような
都市の喧噪にガラスが敏感にうちふるえる共鳴の仕方でした。

しかしさすが三十年後の今は
関心の持ち方は違います。
もはや戦前とも言えるこの日本の今の社会とそこで生きる人間の心のありようは
第一次大戦前にリルケが体験した死都パリの光景と重なるのではないか―
あるいは
十九世紀末から二十世紀初頭という
生と死の意味が根本的に転換する時代を
詩人として生ききったその生涯には
今私たちが詩を書くことを励ます何かがあるのではないか―
そして
幼い抒情詩からやがて『ドゥイノの悲歌』や『オルフォイスのソネット』で
「世界内面空間」という独創的な世界を高らかにうたいあげることに成功した
詩人の魂の勝利には、
現在の世界の矛盾をも
詩の側から乗り超える可能性を与えてくれるのではないか―

そんな問題意識で書いたリルケ論です。多くの方々に読んでほしいと願っています。

ちなみに
締め切りはちょうど5月末日でした。
私の大学時代の恩師の田口義弘先生が
2002年6月1日に亡くなったことが意識にありました。
田口先生はマルティン・ブーバーやカロッサの訳でも知られていますが
代表的な訳書は『リルケ オルフォイスへのソネット』(河出書房新社 )でしょう。
『遠日点』という詩集で日本詩人クラブ賞を取られた二年後に
六十九歳で亡くなられました。
卒業後十数年して『遠日点』を介してふたたび交流が始まったばかりで
私も
大きな衝撃を受けました。
私がパウル・ツェランやネリ・ザックスを知ったのも
田口先生の授業を通してでした。
リルケの愛した薔薇の季節に出た今号を墓前に捧げたいと思います。

2013年7月19日 (金)

山形、岩手、宮城に行ってきました―法、詩、言葉、あるいは平和への思い

先週、7月11日から14日まで、
山形、岩手、宮城に行ってきました。

この東北行きの計画は
二年前朗読会のために訪れた東北朝鮮初中級学校で
再び許玉汝さんと共に、今度は講演をすることが決まったことから始まりました。
せっかく東北に行くのだから他にも足を伸ばそうということで、
私は個人的に山形と岩手行きも日程に組み込みました。

山形では山辺町を訪れました。
同地は私の曾祖父安達峰一郎の生まれ故郷であり、
その外交官としての国際的な業績をたたえて記念館も作られているということなので
ぜひ一度訪れたいと思っていました。
次の岩手は花巻。
先日詩人論を書き上げたばかりの宮沢賢治の故郷です。

11日夜に飛行機で仙台到着。
翌朝、早めに仙台を出て山辺町に向かいました。
途中の乗換駅で一本電車を逃してしまい、
羽前山辺駅に着いたのはお昼を回ってしまいました。
駅前通りでお店の前にいた年配の女性に記念館までの道をたずねると
「あら、峰一郎さんのところ?  私の車でよければ乗っていって」
と言って下さったのでちょっと驚きました。
「みねいちろうさん」という親しみのこもった響きが
とても温かくて初めての土地での緊張感がふっととけていきました。
自分がひ孫に当たることを告げるとびっくりされ
それでは時間があればまずふるさと資料館に寄っていった方がいい、と
同館へ連れていってくれました。

ふるさと資料館に着くと
責任者の方と町会議員さんの二人の女性がいらっしゃっていて
いきなり伺ったにもかかわらず、大変温かく迎えて下さいました。
同館では「峰一郎さん」についての様々な資料をいただきました。
またその人となりや業績、また現代における意味まで
熱く語って下さり、ハッと目の醒める思いがしました。
じつは、ここに来るまで
「昔の人のゆかりの地ということで、何となく記念館や碑があっても、住む人は今を生きることに忙しく、ただの風景として行き過ぎているだけだろうなあ」
というように勝手な想像をしていたのですが、
出会う方が口をそろえて「峰一郎さん」と今も生きる人のように語り、
「あの暗黒の時代に国際舞台で平和を主張した、本当に素晴らしい人だ」
と敬意を表して下さるので、胸を打たれました。

じつは私は子供の頃から家に曾祖父の写真が飾ってあったのに
「なんだつまらない。遠い時代にとっくに亡くなった人じゃないか」
という冷淡さで眺めていただけで、
いったいどんな仕事をしたのか知ろうともしませんでした。
しかし2009年、たまたま付けたテレビで
NHKのプロジェクトジャパンというシリーズ番組の何回目かだったと思いますが、
いきなり「世界の良心・安達峰一郎」が画面に現れ
かなり詳しく紹介されたので
びっくりしました。
恥ずかしいですがその時初めて
どんな業績を残した人物であるかを詳しく知り、興味を抱くようになりました。

ウィキペディアから簡単にまとめてみると―
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、明治2年6月19日(1869年7月27日) - 昭和9年(1934年)12月28日)は、日本の外交官・国際法学者。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となる。所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、昭和9年(1934年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日にアムステルダムの病院で死去した。

私の手元には東京にある安達峰一郎記念財団(新宿に記念館があります)が発行した
『安達峰一郎 人と業績』という本がありますが、
そこに満州事変が起こった時、
自分が所長を務める国際司法裁判所に解決を委ねるべきだと直訴した、
当時の斎藤実総理大臣に宛てた手紙の文面が載っています。
当時の軍部の力を想えば
そのような直訴は、想像以上に命がけなことだったとおもいます。
力ではなく法で紛争を解決し、平和な世界を創っていく―
峰一郎のそのような信念は当時だけでなく、今の時代状況においても、
憲法九条の精神につながるとても大切なスタンスだと思います。

山辺で出会った方々も口々に「平和を貫いた峰一郎さんが誇りだ」とおっしゃっていました。

公民館と隣接する生家を訪れました。006_2
峰一郎さんの父が自宅を開放し
子供たちの勉強の場としていた「對賢堂」も
子供たちの人形と共に見事に再現されていました。
貧しいけれど、実直で学問への敬意がみちていただろう、明治初期の家の雰囲気が、
なつかしいもののように感じられました。
公民館の中には記念館もありました。
様々な資料とゆかりの品が、とても大切に保存されています。
公民館でも教育委員会の方々や公民館にお勤めの方から
「峰一郎さん」にまつわるお話を伺うことができました。
この町では峰一郎さんを記念した様々な文化的また教育的なイベントや企画が続けられているそうです。
そのことも聞き、さらに嬉しい気持になりました。011

峰一郎さんが裏山でとって食べたはずだという美味しい李も御馳走になりました。

記念館と生家の見学の後で
駅の近くの「オリエンタルカーペット」の工場も見学させてもらいました。
ここは手織段通を作っていて、
最近では祇園祭の鉾の掛け物であるペルシア絨毯を復元したそうです。
(私の住む京都と山辺町がこんなふうにつながっていたとは。)
職人の女性たちの見事な手さばきも見ることができました。

以上がざっと
初日のすばらしいフィールドワークの報告ですが、
その後の二日間も
とても実り多い時間でした。

花巻ではあいにく雨でしたが038
着いた当日の夜は、百年以上前に作られた自動車である「カンパネルラ号」に乗って、
光のイベントを楽しみました。
翌日は雨の中を羅須人会、記念館、イギリス海岸を巡りました。
とりわけ記念館は充実した内容で、かつての花巻の現実を背景としなければ見えてこない詩人の姿があることをあらためて実感しました。
展示内容からも地元ならではの賢治に対するまなざしがあるように思えました。

最終日の仙台では東北朝鮮学校で
「詩の授業を通してみえてきた朝鮮学校の存在意義」というタイトルで
お話をさせていただきました。
休日にもかかわらず
先生や父母の方々がおおぜい集まって下さり、
熱心にきいてくれました。
言葉というものがいかに人間の主体形成にとって大切であるか―058
自分の言語で自分を語ることが、
二つの社会で生きる中で「心の柱」になっていくということ―
そんなことを舌足らずながら話しました。

言葉と「法」。
そして言葉と「詩」。
この三日間は、まさに全日通底するものが流れていた気がします。
つまりそれは一言で表せば「平和への思い」なのかもしれません。
しかも今、とても切実な。

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