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2013年11月

2013年11月21日 (木)

『環』(藤原書店)55号に「詩獣たち」第12回「危機をおしかえす花―石原吉郎」を書いています

『環』(藤原書店)55号に
「詩獣たち」第12回「危機をおしかえす花―石原吉郎」
を書いています

戦後約八年間シベリヤに抑留され
その苛酷な期間を「事実上の失語状態」の中で生きのびた石原。
帰国後、詩と散文を書くことで極限体験と向き合っていきます。

「生き生きと危機に膚接」する張りつめた繊細さを持つその言葉は、
人間にとって言葉とは何か、あるいは言葉にとって人間とは何かという問いかけを、
魂の内奥から突きつけてきます。
日常の次元から根源的な次元へ
読む者を立ち返らせるその言葉は、
どのような体験と思いによって生まれてきたのか。
なぜ帰国後はまず詩のみを書き続け、
ラーゲリでの体験を散文で告白するためには十五年もの歳月が必要だったのか。
そして戦後民主主義下の祖国で
なぜ「「私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ」」
という態度をとり続けたのか。
その〈位置〉とはどのような場所だったか。

そのようなことを私なりに探りながら書きました。

私が石原吉郎の詩に初めて触れたのは
1980年代半ば。
身近な詩人が心酔していたので、その影響もありました。
しかしその時は「葬式列車」などのシュールレアリスティックなイメージを
「面白い」と思って楽しんだだけだったのだと思います。
一方、ラーゲリの苛酷な体験を魂の体験そのものとして生き直したエッセイは
そこにある言葉に触れる以前に
煙幕のようにたちこめてくる歴史のリアルな闇の匂いに臆して
まるごとはとても理解できない気がしたのを覚えています。

しかし今は分かります。
その詩の美しさが、「膨大な死者の重量」のまえには花のように無力である、という真実から
生まれていることを。
そして今もまた
花のかたちのまま「位置」で危機をおしかえし
私たちに突きつけてくることを。

いま現在の、詩と世界に対する私の思いもこめて書きました。
読んでいただければさいわいです。

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2013年11月 5日 (火)

11月4日京都新聞/詩歌の本棚・新刊評

11月4日京都新聞/詩歌の本棚・新刊評
                               河津聖恵

 夏の終わりに長野県上田市にある信濃デッサン館を訪ねた。館内には立原道造室があり、そこでひととき自筆原稿やパステル画を眺めて過ごした。夭折した抒情詩人として知られる立原だが、そのエッセイや手紙には、詩を求める真摯な思いと、詩人として生き尽くしたいという痛切な願いが満ちている。暗い時代のさなかに生きた真実の詩人は、素裸の感受性を信濃の自然に晒し、豊かな光と影を繊細な詩に紡いだ。その一方言葉で身を飾るダンディズムや観念的な詩は厳しく戒めた。「自分の眼を裸でものにさらせ! 傷つけ」という叱咤には、今もなお詩を撃つ力を感じる。
 中村純『はだかんぼ』(コールサック社)の作者は、原発事故後放射能被爆から逃れ、京都へ移住した。この詩集で作者の感受性は、立原の場合と真逆の「汚染された自然」に晒されている。それは幼子の無防備で美しい「はだかんぼ」の肌と共に、剥き出され傷ついている。全篇を貫く「訴える」という姿勢は必然的に散文性を呼び込み、同一語の反復が気になる箇所もあるが、それも魂の純粋さと力強さの証という印象が勝る。この詩集はむしろ感受性と散文性によって、「今詩とは何か」という問いかけを突きつけてくるのだ。
「あなたは勇敢で有能なひとりの女/あたらしい世界を拓くパイオニア/権威よりもやさしさを お金よりいのちを/海に流された人々のいのちと暮らし/降り続く死の灰/閉ざされた絶望の哀しみの日々に/自ら灯りを照らして歩いていく 新しい女//ふるびた世界がそれを知らなくても/私のことばがそれを記憶し 記録する/若い日のあなたが幼い子どもの手をひいて/なぜ見知らぬ鴨川べりに降り立ったのか」(「勇敢な女に」)
 峯澤典子『ひかりの途上で』(七月堂)で自然は、人にとってあらかじめ失われた「空白」として立ち現れている。言葉はそこに擦れ、響き返され、静かに痕跡を刻んでいく。そのような「エクリチュール」(書く行為)としての動きを含みながらも、この詩集は観念でなくただ感受性によって「空白」と相対する。一文が長すぎ読みづらい部分もあるが、裸の目と耳を晒して探られる世界は、美しく繊細な裸形をたしかにそっと明かしている。
「いまにも降りだしそうな/はつ、ゆきに耳を澄ます/ひとつ/また ひとつ/どこかでいきものが/息をひきとる 純粋なおとが/聞こえてくる//そのゆきおとを追い/てん、てん、てん、/納屋から森のほうへと/兎か 狐だろうか/南天の実のような/真新しい血が続いている//森のけものは思う/ことしのゆきが降れば/あとは/何も聞こえなくていい/何も見えなくていい//ふかく めしいて/みみはなは落ち/くちは月のための/花入れとなり/やっと/誰にも読まれない/冬の暦になるのだ と」(「はつ、ゆき」)
 香咲萌『私の空』(土曜美術社出版販売)の作者は、長年地図製図の仕事に携わってきた。ただ一つ図面上に描かれないのは、空だ。作者にとって詩作は、失われていた空を取り戻す過程そのものだった。感受性をありのままに晒すことで、かつてよりも深く真っ直ぐに、作者は空と繋がりえた。
「覗き窓から 空を視る/この切り取られた空間/それ以外は全て余白//伸ばせば手の届く 私だけの空//この空と向きあう/この空と 語りあう//私は交感する/空気の一粒一粒/雲の一粒一粒が/私の細胞と混じりあう//誰も知らない 私の空//歓びも 胸を引き裂く想いも/全て受けとめてくれる この 空」(「私の空」全文)

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