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2013年12月

2013年12月20日 (金)

辺見庸『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』(毎日新聞社)

辺見庸さんの新著『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』(毎日新聞社)
を読みました。

昨今の暴力的な政治状況と
それに連動するかのような世相と人の心の荒廃。
そのただなかにまさに現れるべくして現れた一書です
このブログでも記事にした(http://reliance.blog.eonet.jp/default/2013/09/post-a42a.html
今年八月三十一日に四谷区民ホールで行われた講演会の草稿を
大幅に加筆訂正した「死刑と新しいファシズム」を中心に、
ブログ「私事片々」をまとめた「なぜ毎日エベレストにのぼるのか」と
最近の新聞や雑誌に発表された文章、
そして巻頭と巻末には書き下ろしのエッセイが並びます。
どれも今の事態の鉛の重さを一語一語個の底で引き受け、
この不毛な砂の言葉の現在に
ウマオイの美しい死骸を手にしたような
底からの蘇生の感覚を与えてくれるものでした。

先日、信じられないスピードで特定秘密保護法案が可決されてしまって以来、
私の中でも怒りを超えて悲しみとやりきれなさが広がっています。
死刑もまた何のためらいもなく次々と執行され出しました。
反対の声は多いのに聞き届けられることもありません。
徒労感があります。
絶望感であるかもしれません。
それは言葉自体への。そして語ることそのものへの。

「朦朧としたことどもをさも鮮明に映し、明晰に語ること。澄明で流ちょうな嘘の洪水に、わたしたちの目と耳と舌とはもう疲れている。」(「語りえない影絵のなかへ―後書きにかえて」)

「いま、語ることは語ることの無意味と戦うことです。怒りは怒りの空虚に耐えることです。お遊戯の指で、ほんものの時はかぞえられません。地上のその明るさで、地中の闇をはかることはできない、と言います。死刑制度と死刑囚についてもっともっと思いをめぐらしましょう。」(「死刑と新しいファシズム))

「おしなべて起動機能が解除されてしまっている。あるのは、たまさかの発作と痙攣だけだ。うわべの塗りという塗りをぜんぶ剥ぎとり、衒いと忖度と世故のいっさいを殺した、そんなことがもしもできるとしたらの話だが、裸形になりつくしたギリギリの極限の個の哀しみを表現しえて、はじめて思想はかすかな思想らしきものとして芽生えうるものではないか。おい、せめてツユクサを踏むなよ。この社会はいま、ぜんたいとして自由と深い快楽ではなく、不自由と苦痛と、とりかえしのつかない罪責を、無意識に求めるともなく求めているのではないか。知とは自己内に棲まう他者ととことん妥協なく語りつくすことだ。」(「なぜ毎日エベレストにのぼるのか?」)

「こうなったらしかたがない。せめては睨めることだ。わたしだってひとを睨めつける意思くらいはまだある。睨めてうごかざる殺意。はたと睨めて世界を刺しつらぬく、目のなかの青い刃。それをふりまわすくらいの殺意がないとはいえない。」(同上)

「いま語りえぬこと」とは、抑圧されて失われたことどもを超え、
大きな言葉からとりこぼされたままの世界の細部や陰影すべてです。
それはまだウマオイの美しい死骸のように新鮮にそこにあるのです。
それを探さなくてはならないのです。

私はこの一書を通して次第に深くから励まされていきました。
死刑とファシズムについて
語り合う他者が自分の中にまだいると、信じたいです。

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2013年12月16日 (月)

12月16日付京都新聞詩集評・詩歌の本棚

 生誕百十年を記念し刊行された、林芙美子『ピッサンリ』(思潮社)が興味深い。全集未収録詩九十二篇を集める。『放浪記』で知られる作家は、小林多喜二と同じ一九〇三年生まれ。炭鉱町を行商して回った貧しい幼年時代の後、定住先の尾道で詩に出会いボヘミアン的な感性を発露した。欧州体験と作家としての従軍を経て疎開し、やがて戦後を迎える。四十七歳で亡くなる直前まで書かれた詩からは、時代と個、散文と詩の間で意欲し苦悩した女性の姿が浮かび上がる。特筆すべきなのは文語定型の戦争詩。初期の奔放で鋭敏な詩とは対照的に、そこにあるのは「投げやりな創作意識」と「主体の曖昧さ」だ。詩は、意に添わない状況をも韻律の力でそれなりにうたえてしまう点で、散文よりも危ういと痛感する。一時的とはいえ詩の自由を手放した芙美子には戦争責任があるのだが、同様に今詩を書く者にも、詩本来の自由の力を模索し、新たな戦前に抗う責任がある。
 加藤明彦『風の祈禱書』(土曜美術社販売)は、「ものの魂を宿した存在」としての詩の言葉によって、死せる都市の魂を呼びさまそうとする。言葉は風景を具体的に描くのでなく、観念的次元で都市の本質を延々と抉り出す。煌めく観念語は詩だが、記述法は連用形の多い散文である。詩と散文の関係についての意識を研ぎ澄ます必要もありそうだ。だが静かな雨のように幽かな風のように、ここに書き込まれない「私」の魂の傷をなぞり続ける意志は、圧倒的だ。
「雨は降る/詩想に包まる母音のうえに/梢の密かな巣のうえに/綻び始めた夢のうえに/それぞれの音階を響かせて/手垢に塗れた祈禱書を浄め/法典に刻まれた瀆神の咎を浄め/雨は降りしきる/書かれることのない余白のうえに/不治の病巣のうえに/剝がれ落ちた記憶のうえに/碑の六緑青と赤く爛れた錆のうえに/失われた韻律の響きのように」(冒頭部分)
 田島安江『遠いサバンナ』(書肆侃侃房)の詩は、淡いメルヘンに似た語り口。軽妙な動物譚で、読む者を違和感なく詩的虚構へ誘い出す。けものへの親愛をモチーフとし、詩の中心を「私」からけものへ巧みに移すことで、言葉は未知なる故郷「サバンナ」へおのずと向かっていく。
「夕日がはじけ/草原に稲妻が走る/稲妻は火を生み/見たすかぎりの草原は炎で焼きつくされる/そのあとは/草木が芽ぶくまでじっと待たねばならない/餓死するか/待てるか/またたく間に日が翳り/草は芽を吹き/草原は緑で覆いつくされていくはずなのに/わずかな時間の裂け目を待てずに/旅にでる動物たち/サバンナ/(略)/わたしのサバンナ/夜になると少しずつ空気が冷えてくる/空から舞いおりてきた翼のとがった鳥/鳥はわたしの背骨に飛びのる/背骨がきしむ/旅する姿勢になる」(「遠いサバンナ」)
村田好章『空に選ばれて』(前川企画)の詩は、明示されない「私」の主観的記述で始まりながら、やがてふいに抜け出し、客観的な視点からウィットを効かせて終わる。第Ⅳ部は物語詩。今後は詩と散文との関係について、詩の側からさらに深めていくことを期待したい。
「ゆるいものを/流し込まれ/ゆるいまま固まり/骨の硬さも知らず/歩くこともできないのに/這って/どこへいこうとしているのだ/おまえは」(「無恥」)「夜の陸橋は/ヘッドライトの川に架かった虹//真上に立って下をみれば/時間だけが/ひかりの速さで流れてゆく//じっとみつめる/闇の目)(「俯瞰図」)

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