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2014年2月

2014年2月27日 (木)

小樽小紀行―2月20日多喜二の命日によせて③

翌27日の朝の、泊めていただいたお宅の外の景色です。
昨日とは一変、すばらしい青空。
見たこともないような、まるでこの世の滋養のようにこんもりとつもった雪が朝の眩しい光にきよらかに煌めいていました。

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この日はまず、小樽商科大学を訪れました。
この大学の前身は、多喜二の卒業した小樽高等商業学校です。
当時、小樽高商には大変自由主義的な雰囲気があったそうです。マルクス主義などの社会思想研究や、
商業学校ならではの語学教育が深まり、文学もさかんでした。
多喜二は校友会誌の編纂にも携わり、
文芸欄にほぼ毎号寄稿しました。
高商は、まさに作家の才能を揺籃した時空だったのです。
小樽商科大学となった今も
海を見下ろす図書館の、ゆったりとしたスペースで学生たちが熱心に勉強していました。
この図書館には多喜二の蔵書も保管されています。

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それから埠頭に行きました。
明治期の倉庫や銀行の洋風建築が深々とした雪の中に建っている風景は
どこか遠い北の異国のようです。
運河も雪に埋もれていました。この埠頭はもちろん『転形期の人々』や『工場細胞』など多喜二の多くの小説の舞台になっています。
かつて戦争景気で貿易港として栄えた、軍港でもあった小樽港。
しかしそのような近代化の光の面とは反対に
やがて不況の波が弱い者たちを追い詰めていきます。
多喜二の小説に出てくる
女工から身を落とした女達もこの埠頭に立っていました。
落ちた豆をひろう貧しい女や、安い値段で船員に身を売る女たち。
こんな雪の日には彼女たちはどうしていたのでしょうか。

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こんな見事なつららは見たことがありません。

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埠頭から祝津に向かいました。
幕末から明治期までニシン漁で栄えた町です。
当時の網元の番屋が保存され、往時をしのばせています。

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埠頭からほど近い手宮公園です。
ここでは1926年に小樽で初めてのメーデーが行われ
三千人ほどが集まったそうです。
第一次大戦の戦争景気が終わり、慢性不況が続く中で、
小樽ではメーデーに続いて1927年には磯野小作争議、そして港湾労働者の争議が立て続けに起こります。
前者では多喜二はあまり深く関わりませんが、後者では作家の力量を活かしてビラ書きも手伝います。
そしてやがて前者の体験は『不在地主』、後者の体験は『転形期の人々』『地区の人々』に結実していきます。
1926年のこの公園でのメーデーでは
朝鮮人労働者も参加し、演説もしたそうです。

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手宮公園のあとは、遊郭のあった場所に行きました。
写真は松ヶ枝の南郭があったところです。
ここも道路が雪で埋もれてますが、通常よりもずいぶん広いことに気づきます。
当時、遊郭は火事が多く、類焼防止のために道路を広げたそうです。
多喜二の時代の小樽には、ここと手宮の奥の北廊、そして多喜二の恋人のタキが働いていたような
非公認の売春宿が点在していました。
公娼、私娼合わせて六千人を数えたそうです。
貧困のために家族のために、そして借金のカタに身売りされた女性たち。
そういうエピソードを重ねて見ると、雪はさらに哀切に美しさを増すようです。

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それから水天宮です。
ここは恋人タキと多喜二のデートコースです。
1924年に銀行員となった多喜二は、当時酌婦だった田口タキに出会います。
美しいタキに恋愛感情を抱いただけでなく、酌婦という絶望的な状況から踏みだそうと苦しむ姿に、
「個人の力の強さ」を感じます。
後にプロレタリア文学の旗手となった多喜二に求婚されますが、
タキは自分が重荷になるのを恐れ身を引きます。けれどその生涯を通してタキの存在は多喜二の根底で輝き続けていたのでしょう。
この雪の輝きのように。

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まだいくつか多喜二ゆかりの地をご紹介しきれませんでした。
この夜も、小樽詩話会の方々との詩心を触発される歓談のひとときを持てました。
来年はぜひ多喜二祭にも参加したいと思います。
夏の小樽の美しさも味わってみたいものです。


2014年2月23日 (日)

小樽小紀行―2月20日多喜二の命日によせて②

「冬が近くなると ぼくはそのなつかしい国のことを考えて 深い感動に捉えられている そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは 人は重つ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている ぼくは何処を歩いていようが どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を ぼくはどんなに愛しているか分からない」 

小樽の旭展望台の碑に刻まれた
1930年11月11日付の
村山知義夫人宛の多喜二の手紙の一節です。
獄中で書かれたにもかかわらず、
あるいは獄中だったからこそ、
故郷は痛切な愛の具現としてその脳裏に立ち現れました。
現実よりも現実的に
歩く一人一人の背中さえもまざまざと幻視するまでに。
絶望の闇の中で故郷は輝き出したのです。
作家は殆どの作品は小樽を描いています。
日本を代表するプロレタリア作家であると同時に
死ぬまで小樽の作家だったと云っていいでしょう。

残念ながら今回は大雪で展望台も多喜二のお墓にも行くことは出来ませんでした。
いい季節にまた訪問したいと思います。

今回、小樽の詩人たちに案内されたゆかりの地をいくつか紹介します。

まず訪れたのは海猫屋です。
1929年発表の『不在地主』はその2年前に起こった磯野小作争議を扱ったものですが、
その「不在地主」=磯野進が経営していた磯野商店の倉庫を改造したレストランです。
外部も内部も、明治期から昭和にかけての時代を彷彿させる
しっとりとしたレトロなオーラを感じました。
とても美味しいアサリのパスタもいただきました。

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次に訪れたのは市立小樽文学館です。
ここには「多喜二コーナー」があります。肉筆の資料やゆかりの品を見ることができます。(写真は撮影可でした。)

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ここで一番見るべきなのは、多喜二のデスマスクでしょう。
特高の脅しにも負けず、地下から小説を発表した多喜二は、1933年スパイの手引きによって逮捕され、三時間以上もの凄惨な拷問の果てに絶命します。
千田是也、原泉などの友人たちは大急ぎでデスマスクを作りました。
特高たちがいつ踏み込んでくるか分からない中で急いで取った石膏の型には
多喜二のまつげがついていたといいます。

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多喜二は小樽商業学校の時に水彩画を描いていました。途中で学費を援助していた伯父の反対で断念します。しかしかなりの腕前だったようですし、後の小説において絵のセンスは、巧みな風景描写などに活かされています。

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『蟹工船』の冒頭の原稿です(コピーだったようです)。端正かつ勢いのある字です。多喜二の字はきっちりしていて、銀行員としても有能だったのもうなずけます。

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コーナーには私の他、二人の若い女性がいて、熱心に資料を見ながら、
「こんなすばらしい作家が、本当にもったいない、なぜ、なぜ・・」と涙声で話していました。
私も同感です。
遺した言葉だけでなく二九年の真率な生き方そのものが、
強烈なオーラとなって今も、今こそ私達の胸をつらぬくのです。

文学館を出たあとは車で多喜二が住んだ場所(何度か近辺を転居していますが)を見に行きました。
雪はどんどん激しくなり、
また家がそのそばにあったとされる小樽築港駅付近の積雪も大変なもので、歩いて探すことは出来ませんでした。
走る車の中から「国道あたり」のこのあたりかな、とかなり主観的に断定した地点です。

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高商近くにあるカトリック富岡教会です。
多喜二の母セキが通った教会かと思ったのですが、後できいたらそれはより町中にある小樽シオン教会だったとのことです。そちらは雪深くてやはり行けませんでした。
しかしこのカトリック教会は内部もアンティークかつ清貧な美しさで、何か忘れていた遠い記憶が蘇るような気がしました。

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教会の入口の脇では、雪の中でマリア様が優しく祈ってくれていました。

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小樽高商へ上る坂(多喜二の通学路、上がるのが大変で「地獄坂」と呼ばれた)のふもとにある文学資料室「地獄坂」。
多喜二を深く愛する方が個人的にひらいている資料室がここにありました。
作家の部屋が見事に再現されていて、感動しました。
小樽では多喜二を愛する人々が一人一人の思いと力で、
その文学を未来に伝えようとがんばっているのです。

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この日の夜は、「小樽詩話会」の方々との交流をかねた朗読会。
小樽詩話会は、昨年五〇周年を迎え、今年の二月に出た最新号で565号を数えるというから、すごい。
新鮮な鱈のお鍋もいただき、初めてお会いした詩人たちの声の中から、それぞれの詩を純粋に愛する心に触れ続け、1月26日の夜は更けました。

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2014年2月20日 (木)

小樽小紀行―2月20日多喜二の命日によせて①

今日は1933年に虐殺された小林多喜二の命日です。
京都は寒さはまだ冬のものでしたが
日差しは確実に春を感じさせる明るい一日でした。
それだけに多喜二の凄惨な死の過程を想うと
つらい気持になりました。

じつは一ヶ月ほど前になりますが、
1月26日から28日まで小樽へ行ってきました。ツイッターを介してこの地の詩人と知り合ったことが
今回の訪問の機縁でした。
滞在中「小樽詩話会」の方々ととても忘れがたい交流もすることができました。
そして
この町には多喜二を心から愛する少なからぬ人々がいることを知り
とても嬉しく
また心強く思いました。

命日の今日から少しずつ書いていこうと思います。

小樽は四歳の時から多喜二が暮らし、東京で死ぬまで愛し続けた故郷です。
彼の作品の舞台の殆どは小樽です。

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私が着いた時、小樽は大変な雪でした。
北海道でも小樽は雪の多い町だそうです。
ホームに降りたった時、粉雪がはげしく舞っていましたが、
その雪のこまかさ、間断のなさに、関西から来た私は目をみはりました。
ひたむきにただしんしんとふりつづける・・・
その永遠のような白さ・・・
それは人にとってはどこか耐えがたい明るさでもあって。
しんしんと、ただしんしんと、
見つめているこちらを半透明の人影にしてしまうような光景でした。

あなたは、北海道の雪を知っているだろうか。それは硝子屑のようにいたくて、細かくて、サラサラと乾いている。雪道は足の下でギュンギュンもののわれるような音をたてる。そして雪は塩酸に似て、それよりはもっと不思議な匂いをおくる
              

何と美しい文章でしょうか。
雪の痛みと美しさと懐かしさに、体中を甘美にしめつけられているような。
1930年12月6日、
治安維持法で起訴され豊多摩刑務所に収監されていた多喜二が
原まさの(泉)に送った手紙の一節です。
今回は見られませんでしたが、これを刻んだ碑が堺町通りにあるそうです。

この一節を読んでも分かるのは、
多喜二が鋭敏な詩的痛覚と聴覚と嗅覚を持っていたことです。
戦前の日本を代表するプロレタリア作家であり、
治安維持法下に『蟹工船』を書いて不敬罪に問われ
特高によって虐殺された―
この作家についてはいつもそのように紹介されますが、「虐殺」のインパクトが強いだけに、多くの人はそれだけで素通りし、深く知ろうとしないのではないでしょうか。
私も今回小樽滞在をきっかけに私なりに読み込んでみて
作家がじつは素晴らしい「詩人」だったことに新鮮な驚きを抱きました。

ぼうぼう・・・・・・
燈りもさびしい留守
静けく・・・・・・低ーーく
港の夜更
独り室ぬちに聞くーー汽笛
あゝ私の懐かしい揺籃よ
そして淋しい子守歌よ
私はそれの枕に
その音律に
遠い昔の私を想う

啄木を愛し、短歌を作り始めていた16歳の頃の詩「揺籃」の冒頭の一節。
ここでうたわれているように
小樽の「汽笛」に「揺籃」されて
多喜二は作家として成長していきました。

1907年
秋田から出てきた多喜二一家が居を定めたのは
線路際の家。
多喜二が四歳の時。
何度か近くに転居したようですが、
汽笛は多喜二の魂をいつも優しく懐かしく包んだのでしょう。
多喜二は銀行に就職してから本格的に作家の道を歩み始めますが、
あの『蟹工船』も
仕事が終わった後、疲れた「赤い鰯のような眼」をキラキラさせて
朝の汽笛を聴くまで書いていたのでしょう。

多喜二にとってまさに母胎と言える小樽という町。

明日から多喜二のゆかりの地を中心に写真を紹介していきたいと思います。


2014年2月18日 (火)

2月17日付京都新聞朝刊 詩歌の本棚/新刊評

2月17日付京都新聞朝刊 詩歌の本棚/新刊評

                                      河津聖恵 

  一月十五日、吉野弘氏が亡くなった。享年八十七歳。高校の教科書で読んだ「I was born」や「夕焼け」には、今でも静かな感銘を覚える。柔らかなまま鋭く世を撃つ言葉の佇まいが美しい。最近では「生命は」が映画で朗読され話題になった。「生命」、「欠如」、「他者」という硬質な言葉で、生命のゆるやかなつながりをうたった秀作だ。「世界は多分/他者の総和/しかし/互いに/欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせず/ばらまかれている者同士/無関心でいられる間柄/ときに/うとましく思うことさえも許されている間柄/そのように/世界がゆるやかに構成されているのは/なぜ?」(第三連)そしてこの後で、「他者」は虻や花や光や風となり、生命のつながりの姿が見事に立ち現れる。
 
 伊藤公成『カルシノーマ』(澪標)もまた、吉野氏とは別な切り口で生命をテーマとする。「カルシノーマ」は「がん」。がん研究者でもある作者は京都、シンガポール、長崎の研究機関で、無数の実験動物と患者のがん細胞を見つめてきた。がん細胞を見つめることは、それらの闇に見つめられることでもあった。小動物の命を奪った罪悪感、科学と人間に対する絶望、そしてがんの「複雑さと奥行きに打ちのめされ」、「宇宙の広大さを前にする感覚」が錯綜するこの詩集は、凄絶な孤独を、詩の美しさへ接合しようとする。
「ヒトの組織とはなにか/眼下に横たわるものはなにか/この無数の気配//ときどき暗い胃をみる/蛍光色素を拒絶する/暗い星の集団/黙りつづける大都市の闇//沈黙の胃に出会うとき/自分は降りたつ場所をみつけられない//――「がん」だ」(「蛍光染色法」)
「腫瘍の病理観察/米つぶのような病巣の切片が/顕微鏡の視野いっぱいにひろげられる/鳥になって飛びまわり/自在に舞いおりる自分の眼/ここには/過去と未来の時間がながれ/物語がつきることなく語られる」(「カルシノーマ」)
 
 加藤思何理『すべての詩人は水夫である』(土曜美術社)はシュルレアリズムの実験詩集。だがイメージとイメージの関係を切断するのでなく捻りつづける。蚕のようにイメージの糸を紡いでは鮮やかな夢想の繭を生んでいく。少年時に見た「乱雑で凄惨、だが抒情的で神的に初初しい映像」(「火花の匂いのするエピローグ」」) を、「美しく鮮烈な存在感」(同上)のまま蘇生させる試みだ。物語性からもっと離れていいと思うが、生命の詩的蘇生への意志はつよく感じる。
「そして静かな船は夜明けに河港に帰り着く。曙光が暗い大地に薔薇色の刺青を施すのがありありと見える。それから透明なぼくは摺り足で家に戻り、独りで未知の少年に生まれ変わってふたたび目醒めるのだ、読まれることのない本のページにこっそり書き記されたいつもの屋根裏部屋の、氷河のように冷えきったベッドのなかで。」(「五月にぼくたちが乗る船は」)
 白川淑『京のほそみち―あるきまひょ うたいまひょ』(編集工房ノア)の作者は、京都に生まれ育ち他府県へ移り住んだが、六十歳を過ぎ「産土」に戻った。そして改めて豊かさに目を瞠った「京ことば」で、詩を書いた。言葉の不死の炎で生命を蘇らせるように。
「ほわっ ほわっ ほわっ ほわっ/とび交わす 闇の奥のふたつのあかり/こっちへおいない ほたるさん/ひと晩だけのいのちやしぃ/いっぱい生きてや ほたるさん/あやかりたいけどぅ うちかて/妖しげな その あかりに」(「ほたるがり」―哲学の道)

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