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2014年5月

2014年5月30日 (金)

『環――歴史・環境・文明』(藤原書店)57号に「詩獣たち」第14回、「死を超えて汽笛は響く―小林多喜二」 を書いています。

『環――歴史・環境・文明』(藤原書店)57号に
「詩獣たち」第14回、「死を超えて汽笛は響く―小林多喜二」 を書いています。

なぜ今回多喜二を選んだか。

この連載では、詩人たちが、時代と宿命にいかに詩を書くことで抗ったかを
それぞれの生の内側から描き出すことを試みています。
連載を続ける過程でふと見えてきたのは、
詩人たちの間に存在する、密やかな魂のつながり。
次回に誰を取り上げるかはその時々の思いに任せて選んでいるのですが、
その選択には、連載の内側から見えてきた「魂のつながり」を
もっと詳しく知りたいという気持が主に働いています。

第12回でとりあげた石原吉郎は
シベリヤから帰還した直後の舞鶴で、
立原道造の詩集を手に取りました。
立原の詩を読んだことは、シベリヤで長い間失語状態に陥っていた石原にとって
「日本語との再会」だったそうです。
そのことが気になっていて、
第13回では立原をとりあげました。
そして今度は立原の日記や手紙を追っていくうちにある箇所に立ち止まりました。
結核による死が迫る予感を記したあとで、
小林多喜二の死が美しく自分を誘惑する、と立原は述べています。
そこには自分は行けない、そのような死は自分には幻想に過ぎない、と。
この一カ所が謎のように私の中に残りました。
肺結核で衰え、生来美的観念的で、
日本浪漫派に接近もした道造が
多喜二の死に美しさを感じ、
多喜二のような死に方に憧れていたということ。
それは何を意味するのだろう、と。

多喜二は1903年生まれ。
立原は1914年生まれ。
この10年の年齢差が表している時代の決定的な裂け目はなんだろうと。
もちろん
それぞれの資質と短い時間を生きた空間の差異も。

このブログでも書きましたが、1月には小樽に行き、
多喜二の文学を「揺籃」した様々な風景を見、また私なりに肌身で感じてきました。
そこでつかんだイメージは「汽笛」でした。
大雪が吹き付ける中、札幌から小樽に向かう列車は
何者かに追われるように、あるいは遭遇するように
何度も何度も汽笛を鳴らしました。
あんなに汽笛を聴いたのは初めてでした。
そのときふと
およそ百年前、小樽の町外れの線路際の家で
幼い多喜二はこのような汽笛を聴きながら眠り、あるいは夢想したのではないか、
そして作家になってからは勤めが引けた後、真夜中に
赤い鰯のような眼をして『蟹工船』を書いていたのではないか、と、
想像がおのずとふくらんでいきました。
実際、十六才の時の詩「揺籃」は汽笛をうたったものです。

 「ぼう ……/燈りもさびしい留守/静けく……低ーーく/港の夜更/独り室ぬちに聞くーー汽笛/あゝ私の懐かしい揺籃よ/そして淋しい子守歌よ/私はそれの枕に/その音律に/遠い昔の私を想う」。

多喜二という「孤独なロマンティスト」でありながら
「胸からの社会主義者」となった詩人が
なぜあの時代、小樽で生まれたのか。
そしてなぜ国家に虐殺されるという道を選び取ったのか。
そこには多喜二の痛切な汽笛のような思いがありました。
そしてそれは今もその言葉からつねにきこえています。
今回の論では、その汽笛を私なりに耳を澄ませ、聞き届けたいと思いました。

多くの人に読んでいただき、
多喜二という「詩獣」の駆け抜けた29年間の生の輝きを
感じてほしいと願っています。

Kan57

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2014年5月20日 (火)

2014/5/19 京都新聞朝刊「詩歌の本棚/新刊評」

2014/5/19  京都新聞朝刊「詩歌の本棚/新刊評」

                            河津聖恵

 四月十七日ガルシア・マルケスが亡くなった。『百年の孤独』の作者であり「魔術的リアリズムの旗手」として知られる作家は学生時代、小説と共に詩を書き始めた。自伝によれば、当時作家を含むコロンビアの人々は「詩の輝きのもとで生きていた」という。「詩は人々の熱情の源であり、生のもう一面であり、あらゆる場所にひとりでに行きわたっている火の玉だった。新聞を開けば、たとえそれが経済欄であっても司法欄であっても、(略)そこには詩がわれわれの夢を担って飛び立とうと待ちかまえていた」、「私たちは詩を信じていて、詩のために死ぬ覚悟ができていただけでなく、(略)『詩こそが、人間が存在することの唯一の具体的な証拠である』と確信していた」(『生きて、語り伝える』)。つまり作家の幻想を育んだのは、詩への確信の深さである。
 四方田犬彦『わが煉獄』(港の人)は、死者への追悼と終末観に満ちた詩集。煉獄とは、天国には行けないが、地獄に墜ちるほどでもない罪を犯した死者が浄化の苦しみを受ける所。作者はその薄闇に死者への思いを投影し、詩的幻想を描き出す。それらは中世や古代のようでもあり、不思議にも現在や近未来のようでもある。一九七五年に殺害された映画監督・詩人パゾリーニへ捧げた詩は、まさに幻想による慟哭だ。

「きみの潰された眼には/椰子と椰子に登る蟹が見える/オアシスでは青布を頭に巻いた若者たちが/静かに驢馬に水を飲ませている/どの泉にも聖者がいる/眠たげな砂の下涸れ河(ワジ)同士が出会うところ/詩の言葉はそこに宿っている/だが きみの眼に飛び込んでくるのは/荒涼として途絶えた道 土埃に汚れた灌木/あちらこちらの壕にちらつく/卑しげな炎//どこにいるのか/ピエル・パオロ、/ぼくの声は届いているのか/敵意の鉄条網に囲まれた地上から/ぼくは呼びかける/きみのところに水はあるのか/炎はいくつ見えるのか」(「壕」)

 浅井眞人『仁王と月』(ふらんす堂)は、仁王と月の幻想劇を、中世の異界の闇を背景に、童話の優しさや説話のユーモアを交えて語る。「月の満ち欠けは仁王の呼吸によって」おり、仁王は和紙で作った「三十種類の月」を、空に適宜かけ換えるのが仕事。山門の中には「月の運行表が貼って」あるが、運行を守らない月は始終仁王を困らせる。両者の戯れは、五感と古典のイメージを動員し巧みに描かれ、読む者のアニミズム的な古層を触発する。

「もうすぐ 涅(ね)槃(はん)会(え)だった/亡(もう)者(じや)の供養にと/仁王は 山にのぼり 黄蘗色(きはだいろ)の月を空に嵌(は)めこんだ/かわりに 光らなくなった古い月を 担いでおりたが/山道を下るにつれて 発色してきた/途中で 木に掛けて 一息入れていると/月は ふいにいくつにも割れ 檸檬色(れもんいろ)の鳥になって四方へ飛び散った」(「弐拾壱」) 

  荒木時彦『drop』(書肆山田)は、全てが満ちているこの世界に、何が足りないのかを突きつめる思考の詩集。「水滴がない ここには水は満ちているが 水滴の音がない」という一行は、満たされるがゆえに生にとって重要な「一滴」を欠く、現在の深刻な枯渇を言い当てる。事実と情報に満たされた世界の水槽で人は、一滴の水のように柔らかな魂、あるいは幻想の煌めきを永遠に待つのだろうか。あるいは待機の一秒を。

「ただ 待っていた/街の喧騒の中/彼は来るだろうか? 柔らかな心を その形を保ったままで」
「水滴/一秒後の水滴/私はその水滴を待っていた 口を開けたまま 何時間経っただろう? ただそれだけの期待」

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2014年5月 2日 (金)

「虻と風になった詩人―追悼・吉野弘」(「現代詩手帖」4月号)

虻と風になった詩人―追悼・吉野弘      

     「緑の葉は光合成をいとなむ/私の言葉は何を?」(『北入曾』扉)                                                     

                                                                     河津聖恵

 吉野弘さんが亡くなった。生前お会いすることはなかったが、時間が胸の高さで過去に向かいおのずと透明化していく。切ない、静かで深い悲しみである。詩を書き始めた高校一年の時、教科書に載っていた詩「夕焼け」をグループで討議したのを思い出す。どんな議論になったかは殆ど覚えていない。ただ私はこんなことを言ったように思う。けなげな娘は夕焼けに気付かない、だが気付かないからこそ夕焼けはより美しく背後から照らしているのだ、と。夕焼けの美しさはたしかに私に届いた。正確には美しさだけが。だが逆光で娘の表情は読み取れず、娘が戻って行く町の夜を想像することもなかった。もちろん淡々と事実を描くこの詩に過度な想像はいらない。だが娘の影と、どこかまだ敗戦の匂いが残る町の重さは、私の未来にたしかに残された(託された)のだと思う。私はあれから透明な電車に乗ったままらしい。その後吉野さんの熱心な読者になることはなかったが、今読み返せば詩を書く者としての自分の原点が鮮やかに蘇る。「I was born」や「奈々子に」から詩の原時空が痛切に、ゆるやかに身を起こし裸の私を包む。  「夕焼け」との出会いから長い時を経た2009年、映画館の闇の中で吉野さんの詩と再会した。是枝裕和監督の『空気人形』で、人形役の韓国の女優ペ・ドゥナが朗読する「生命は」である。生命を持ち始めた人形の、舌足らずなカタコトの日本語による朗読だった。カタコトであるだけに「タシャ」や「ケツジョ」や「セカイ」といった言葉は観念の重みから解き放たれ、春の光と風に融け込んでいくようにも思えた。詩は、現在の殺伐とした町並みと孤独な人々の映像に被さっていったが、それは「夕焼け」の「娘」が戻っていった町の疲れた未来の姿だったかもしれない。

 朗読を聴いてまもなく、2010年私に生まれて初めての在日朝鮮人の友人が出来た。彼女にとっても私が生まれてから三番目の「長い話をした日本人」だった。そのエピソードにもとづいて私は「友だち」という詩を書いたが、エピグラフに引用したのが「生命は」の一節である。また同時期朝鮮学校の生徒たちに宛てて書いた詩「ハッキョへの坂」の、少女たちが笑い合い風や光や花びらの交錯するイメージもまた、「生命は」への遙かな応答だった。「世界は多分/他者の総和/しかし/互いに/欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせず/ばらまかれている者同士/無関心でいられる間柄/ときに/うとましく思うことさえも許されている間柄/そのように/世界がゆるやかに構成されているのは/なぜ?」意識はしなかったが、詩を書きつつ私はこの一節を反芻していたと思う。「セカイハタブン/タシャノソウワ」という響きは、木々のようにざわめいていただろう。人間が、自分が他者の他者であると気づき、他者と「うとましく思うことさえも許されている間柄」であることに苦笑するならば、社会はきっと変わる、変わると気付くこともなく緑の葉の光合成のように変わる―そのように向き直り、新しい友人たちに宛てて胸からあふれるように書いたのである。

 吉野さんの詩は繰り返し読んでも、その時々の私の生きる深さおいてきちんと応じてくれるものがある。テーマ、モチーフ、技法、語彙、世界観、そして丁寧に描かれる筆致。それらが相互に響き合い、詩の空間がそのつど花のようにひらく。別世界へ連れていかれるのではない。私が生きる空間がそのまま透明化し魂が裸形になり、居ながらにして世界は根本的な転換、つまり光合成をおのずと促されるのだ。かつて労働組合運動の専従者でもあった吉野さんの根底には、社会を変革したいという強い意志があった。その意志が詩人を忍耐強い魂の労働者にした。詩「生命は」は芙蓉のめしべの思わぬ形態に対する自身の驚きを、魂の中で丁寧に問い返す作業から生まれた作品だが、小さなめしべから世界全体に繊細なプリズムを当てえたこの詩に、多大な「労働過程」は春の雪のように消えている。その見事な消失の気配にも私は深い感銘をおぼえる。そして「生きる力を さりげなく」(「みずすまし**」)詩の中から持ち帰る。  

   敗戦後の荒野から3.11以後の廃墟へ、吉野弘の詩空間を通し言葉たちはなお「光をまとって飛んできている」。言葉という存在から、忘れていた春の予感がふたたび奇跡のようにふくらみだす。私はまだ自分を愛することが出来るかもしれない。それゆえに他者を。他者の総和としての世界を。だが今光合成の予感は鎮魂と祈り、あるいは絶望とさえたやすく暗く混じり合ってしまう。しかし亡き詩人の忍耐強い囁きが聞こえる。歌とは人間である、人間とは「歌を切望している無の/強い咽喉/太い声/死を蹴る歌そのもの」(「歌」)である―。やがてどんな「時間の虚無」(「ヒューマン・スペース論」)がやって来ようとも、虻と風となった詩人は、永遠の光の側から今を生きる人間の詩を押し返してくれるだろう。「他者」のすべてのざわめきとの、未知なる光合成の方へ。

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