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2015年6月

2015年6月 5日 (金)

【「闇より黒い光のうたを」書評】須藤岳史「獣性の痕跡、その先に」(「望星」6月号)

「望星」6月号(東海大学出版部)で、須藤岳史さんによる拙著『闇より黒い光のうたを』の書評が掲載されました。須藤さんのご了解を得ましたので、以下にアップいたします。

獣性の痕跡、その先に
                         須藤岳史


 本書は詩人による詩人論である。著者は伊東柱、ツェラン、リルケ、石原吉郎、中原中也、宮沢賢治、原民喜らをはじめとする十五人の詩人を取り上げ、彼らの生きた時代、そして運命に翻弄された生き様に寄り添いつつ、その爪痕を検証し、人間の持つ詩への根源的な希求、そして言葉の力を見出そうと試みる。
 著者は彼らを「詩獣」と呼ぶ。「うた」とは「本能的な危機意識に関わるもの」で、すぐれた詩人とは「その危機を感知し乗り越えるために、根源的な共鳴の次元で他者を求め、新たな共同性の匂いを嗅ぎ分ける獣」、また「獣性を顕在させ、人間の自由の可能性を身を挺し示すものである」と言う。詩獣たちは傷つきながらも、この世とは別の次元での輝きを言葉のうちに求めたものたちである。著者は詩人の内部に潜む獣性に焦点を当て、彼らの残した痕跡を辿る。
 プロローグで語られる、ある言葉の連なりが詩へと位相を変えていく様子、つまり「詩が立ち上がる」瞬間の詩的な描写はとても印象的である。「読むものと言葉のどちらが変化」したのかは定かではないが、「鎮まっていた紙面に身じろぎの予感」が生まれ、言葉の連なりより声が滲み出す。そしてその言葉は「私たちを絶対的な彼方へと呼ぶ」という。ここに著者は、読まれることにより生命を獲得した言葉が蠢きだすさまをありありと眼にし、その叫びを聞いている。
 井筒俊彦の主著の一つ『神秘哲学』に「神秘主義にかんするかぎり、徹底的に主観的であることこそ、かえって真に客観的である」、「いわゆる客観的態度はここでは何ものをも齎すことができない」という一節がある。ある種の対象は客観的な観察を拒む。なぜなら外から観察をすると、その生命は散逸し、死した形骸しか残らないからだと井筒は言う。
 詩もまた同じで、客観的な観察は詩に近づくどころか、その内部に宿る生命を脅かしてしまう場合がある。だから詩のなかへと自らが入っていく手法が有効となる。著者は、詩人論とは彼らの生涯よりも「現実には見えにくく歴史化されない無償の情熱」である「詩への思い」を中心とするものだと言う。そのためには書き手自身の「詩とは何か」という主観的な思考が必要となるため、執筆者自身を巻き込んでしまうという原理的な難しさが生じてしまうとも指摘する。これは井筒の神秘主義研究に関する態度と呼応する。著者は生身で詩獣とその詩に近づこうと試みる。そして自らも詩獣と化し、時空を行き来する。その道程での発見や葛藤に追従しているうちに、詩獣、詩獣と化した著者、読者自身の詩魂の影が重なりはじめ、人間が持つ、個を超えた根源的な獣性の輪郭が次第に浮かび上がってくる。そして、その先に見えるのは闇よりも黒き深淵にすら存在し輝きを放つ「希望」である。

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2015年6月 1日 (月)

2015年6月1日付京都新聞朝刊・詩歌の本棚/新刊評

 去る五月十六日、公開座談会「ラクダが針の穴を通るとき―3.11後の時代と女性の言葉」が京都であり、パネラーとして参加した。震災と原発事故の被害が続く今、被災地から遠い関西で3.11後の詩をいかに紡いでいけるかが議論された。直接的な体験に近づくために書くのか、自分の問題意識を触発するためか、だがまずは人間が描かれなくてはならないのではないか―。様々な意見が交わされた貴重な時間だった。「3.11後詩を書くのは野蛮か」に応答する糸口を、参加者それぞれが掴んだ。
 広田修『zero』(思潮社)がシュレアリスム的手法で描き出すのは、世界の変容というより、自己と世界との間に生まれている微細な亀裂である。「現実という水」が失われた「水のない海」としての「僕」は、論理と直感を擦り合わせながら、干割れ続ける世界との関係を言語化する。例えば月に到達するために人を燃やし、人の炎でサソリを燃やすことで月に到達するという神話的作品「月」は、3.11の死者への極北的追悼詩とも思える。
「最後の死体を燃やし終えると、人は月の上に立っている。月はすべての世界の交点であり、無限に足しあわされた切片である。人は肉体を忘却し、海を忘却する。理由のない、灰汁に満ちた怒りに視界を覆われる。そして、静かに分裂しながら、無数の痛ましい麻糸となる。//月の上には夥しい数の人の死体がある。それらの死体が風に吹かれるごとに、地上では、例えば一個の林檎の実が生まれる。」 
 武西良和『遠い山の呼び声』(土曜美術社出版販売)は、いつしか人と文明を包囲している、窺い知れない叡智をたたえた自然の濃密な気配を、換喩と擬人法によって巧みに描き出す。詩集にざわめく山々の緑は、人と自然との豊かな関係をうたうのではない。むしろ自然は人を無視し、人のいない新世界を創造するために生命力を増している。その濃密な世界では、人の存在は不在や空白として表現するしかない。この詩集は3.11後の人と世界との関係の変容を、草いきれやざわめきの中から伝えてくる。
「水から遠く離れ仕事からも離れ/ひっそりそこにある舟の形が緩んでいく//一面緑に塗られてしまって舟を塗る/絵の具がない/舟は長くそこにいたために/形に倦き色を忘れて/そこから抜け落ちそうになっている//濁った川で魚が跳ねた//魚を入れる魚籠は舟の記憶/場所は容れもの/草むらのなかに次第に深く埋もれていく舟/そこから舟は出ようとしている//単線の鉄橋を上りの電車が/音を立てて渡り始める//もう絵筆はいらない/筆を水で洗おう」(「橋の上から」)
 古家晶『西陣舟橋追想』(文芸社)は詩選集。昭和初期から京都に生きる作者は、詩作によって往時の時空へ感覚を研ぎ澄まし、今蘇る過去の姿と向き合う。無事を祈って出征兵士が見送られたという一条戻橋で出会ったものは―。
「あれから四十年/通りかかって、夜の戻橋にたち寄ったら/由来の立札も新しく/鬼女がひそむほどの大木も水車もなくなって/この橋から旅立った幾萬の若者たちの/お精霊(しよらい)さんが/お盆でもないのに/くらがりにあふれていて/はじき飛ばされた//集合の駅の名も告げずに/ひとりで歩いていった少年兵は//まだ私のなかで 夜道を/駅にむかって歩いている」(「戻橋」)
『名古きよえ詩画集』(澪標)の作者は美山町知井出身。茅葺き屋根と緑の美しい故郷への思いを、色彩と言葉にこめる。3.11後の痛切な祈りに満ちた一集。

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