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2015年10月

2015年10月30日 (金)

『女性のひろば』12月号に詩人尹東柱について紹介する文章を寄稿しました。

月刊誌『女性のひろば』12月号に、
詩人尹東柱について紹介する文章を寄稿しました。

原稿を依頼されるといつも思うのですが、
緊張感の中で、対象に真剣に向き合うことで初めて分かるものがあります。

今回も、社会派の女性雑誌ということで、
しっかりとした文章を書こうと私なりに力を入れる中で、
尹の獄死と現在との関連が私の中で明確に見えてきました。

たとえば朝鮮学校の無償化除外の背景にあるのはあきらかに、
ただすぐれた抒情詩を書きたくて文学を学ぼうと
日本に渡航した尹を獄死にいたらしめたのと何も変わらない
植民地主義だということが。
そしてそれは
2009年末に起こった京都朝鮮第一初級学校への襲撃事件の
背景にあるものなのです。

自国の歴史に向き合わなくては社会や人の意識の根本が変わるはずもないのです。

多くの方々のお目にふれることを願っています。

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2015年10月24日 (土)

11月9日(月)コンサート&トーク「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」

11月9日(月)に行われる下記のイベントにパネリストとして参加します。

タイトル:コンサート&トーク「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」

場所:ウィングス京都・2Fイベントホール(京都市中京区東洞院通六角下ル御射山町262)
トークパネリスト:中西光雄・河津聖恵・山室信一
コンサート出演者:中西圭三(Vo)野田淳子(Vo)佐久間淳平(G/Vn/Mdr)嶋村よし江(Key)
開場17:30/開演18:30
¥2,000(前売り)¥2,500(当日)
¥1,500(学生・前売り)¥1,800(当日)
(問) 075-751-7076、junko21@mwa.biglobe.ne.jp(野田淳子事務所)
(問) 090-2592-3150(実行委員会・北波)


以下、メインパネリストの中西光雄さんのブログ記事を転載します。

「先月終了した京都新聞における私の連載「唱歌の社会史」の終了を記念して、有志の方々が実行委員会をつくり、11月9日18時より、ウイングス京都 2階イベントホールで、コンサート&トーク「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」を開催することになりましたのでお知らせします。

トークの部分のパネリストは、私の他に、詩人の河津聖恵さん、そして法思想連鎖史(京都大学人文科学研究所教授)の山室信一さん、コーディネーターは社会学(京都大学大学院文学研究科教授)の伊藤公雄さんです。私にとっては、ほんとうにありがたいお話なのですが、メンバーの顔ぶれとその業績を考えると気圧され、逃げ出したい気持ちでいっぱいです。しかしながら、こんなチャレンジングで知的冒険心にあふれる機会はもう二度と来ないと考えて、お引き受けしました。まさに清水の舞台から飛び降りる(クリシェ)気分です。「唱歌の社会史」というタイトルにふさわしく、唱歌に限らず、近代の歌・音楽と社会の関係を歴 史的に総括してゆく会になると思います。

コンサートの部分ですが、私が連載でとりあげた12曲の唱歌に中から選んだ曲を、弟の 中西圭三と京都在住の野田淳子さん、ふたりのシンガーソングライターが歌ってくださいます。伴奏は、南こうせつバンドでもご活躍でギター・バイオリン・マ ンドリンなどを演奏してくださる佐久間順平さん、そしてキーボード・シンセサイザーの嶋村よし江さんです。きっとすばらしいコンサートになるでしょう。

実行委員会の方々、そして出演者のみなさまも、ほとんど手弁当で参加してくださっています。またこの美しいチラシも、上野かおるさんの愛情あふれるご協力のたまものです。ほんとうにありがたいことです。

このコンサート&トークは、河合文化教育研究所と京都新聞の後援をいただいております。ご尽力いただいた関係者のみなさまに感謝いたします。

みなさまのご期待に添えるよう私も張り切って準備いたします。

関西地区にお住まいのみなさま、どうぞ聴きにいらしてください。チケットは一般のプレイガイドでは扱わず、野田淳子事務所などで購入いだけます。お手数ですが、チラシ記載の要領でお申し込みくださいませ。

よろしくお願いいたします。」
(転載終わり)

私も、詩を書く者の立場から、中西さんの話につなげて、今の日本の心の在り方とも無縁では決してない、戦前の「抒情」について触れられたらと考えています。
今の日本の心をともに考え、感じあう、良い会になると思います。
多くの人のご参加をお待ちしております!

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花の姿に銀線のようなあらがいを想う――石原吉郎生誕百年(『びーぐる』28号)

花の姿に銀線のようなあらがいを想う――石原吉郎生誕百年
                            河津聖恵

 一枚の栞がある。七宝かさねという技法で、螺鈿めいた銀箔の縁取りがされたその中央に、今一艘の船の黒いシルエットが目的地に辿り着こうとしている。興安丸、と記されている。一九五三年、八年間の抑留の後、石原吉郎を祖国へ運んだ引き揚げ船だ。栞の縁取りの硬質ながらも壊れそうに危うく煌めく銀線と、船の黒いシルエット。二年前舞鶴の引揚記念館で買い求めた栞は、その時の記憶も重なり、繊細ながら閃く刃のような切っ先を持つ石原のモノクロの詩世界を、はからずも不思議に象徴化しているように思える。
 舞鶴を訪れたのは、季刊誌に石原論を書くための「フィールドワーク」のためだった。帰還直後、彼地の引揚者収容所で石原は立原道造を読み、日本語との「まぶしい再会」を果たし、三十八歳で詩を書き始めた。その六十年後、私が訪れた舞鶴に詩人の痕跡は、当然ながらどこにもなかった。引揚桟橋は当時の場所に保存されていたが、藻の異常増殖でくすんだ緑色になった海は、拒むように不機嫌に沈黙していた。記念館に展示してあるスプーンや針などの、抑留者が監視の目を盗んで作った物品のどこか骨のような姿だけが、石原がエッセイに書いたラーゲリでの苛酷な現実を、繊く硬く証していた。
 親族に絶縁状を突きつけた石原吉郎には故郷がなかった。ラーゲリと本質的には何も変わらないエゴイズムの満ちていた戦後の日本は、石原の望郷していた祖国ではなかった。帰還後詩人は、シベリヤの河畔で「猿のようにすわりこんでいた位置」という、どこにもない場所に居続けたのだが、その「位置」から石原だけの生の時間が、煌めく銀線のように石原だけの死の時まで続いた。遺された詩はすべて、その孤絶した線の軌跡であり、今読む者が触れることは難しい。触れようとすれば美しく煌めき、線は死へ向かって帯電する。詩人は生を「断念」し続けることで、ようやく生きることが出来たから。
 「花でしかついにありえぬために/花の周辺は適確にめざめ/花の輪郭は/鋼鉄でなければならぬ」(「花であること」)。花の輪郭の煌めく線を想う。ふたたび戦争の黒いシルエットが動き出した今、「断念」するほどのものが私にあるのか。石原の「断念」に学んでなお、「あらがい」は可能なのか。詩が詩でしかついにありえないとしても。むしろ詩でしかありえないがゆえの銀線のような「あらがい」を、一輪の花の姿に想ってみる。


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2015年10月19日 (月)

2015年10月19日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

「戦後詩」というカテゴリーがある。戦争体験を重要なモチーフとする詩を指すが、代表的な詩誌に『荒地』と『列島』がある。傾向としては、前者では知性に基づき個の内面を深める詩、後者では現実に向き合い人間性を回復する詩が目指された。「詩と政治」の問題が突きつけられる今、戦後詩をあらためて振り返り、考える必要があるだろう。
『木島始詩集』(コールサック社)は、一九五三年の詩集の復刻版。『列島』を代表する詩人である木島は、一九二八年京都に生まれた(二〇〇四年没)。旧制高校生の時広島で原爆を目の当たりにした体験が、詩の原点にある。ラングストン・ヒューズや黒人文学の翻訳も手がけた。野間宏は木島についてこう評価する。「このように最初に平和によって自覚した詩人の魂を私達が日本にもつことができたのは、はじめてのことである。平和によって最初に自覚した魂は平和がおびやかされるとき、はげしいいかりをもってばくはつする」。また有馬敲は「京都人の芯の強さと時代風潮に逆らう気骨」を見る。危機への鋭敏な感覚と美的感受性に研ぎ澄まされた木島の詩は、今長い眠りから目覚め、声と眼差しをこちらへ新鮮に放ってくる。
「砂埃のようにぼくらの危惧を!/鳩はついにその鼓動の高鳴りをぼくらに放った。/掌から指先に急ぐぼくらの血が、/そのはばたいてゆく速度にきそい、/しかとぼくらはみな胸にするのだ。/その、たったいま別れたばかりの/恋人のような美しさと健気さを!/鳩 ………いまや、空を馳せるぼくらの純白の軌跡。/誓って、方位まごうまいぼくらの鳩」(「鳩」全文、一九五〇)
『安水稔和詩集成』(上下巻、沖積舎)は、初期から現在まで六十七年間の仕事をまとめる。上は敗戦後の深い虚無感にもがく『存在のための歌』(一九五三)、下は「五十年目の戦争」である大震災後、心の傷を癒そうと書かれた『生きているということ』(一九九九)から始まる。その構成にも、阪神淡路大震災後、追悼詩を書き続ける作者の思いが反映している。
「私は歌いたい/何を どのように/私は歌いたい/心いっぱいのやさしさこめて/私は歌いたい/花と戦争を/私は歌いたい/愛を愛してしまった死を/私は歌いたい/真昼 海沿いの寒村に降った黄色の雨を/その前夜 谷を渡っていたおびただしい松の花粉を/私は同様に歌いたい/何を/死の造花を/私たちの頭上に開いた薔薇を/たえまなく舞いおちるその花粉を」「私は歌いたい/歌いたい この巨大な造花の 火の/死の契約を/心いっぱいのやさしさこめて/歌いたい」(「一九五四年五月の歌」)
 片岡美沙保『月宮記』(私家版)は、末尾の一篇を除く全詩が、行分け(上)と散文(下)の二段組み。あとがきによれば、友人達の死がもたらした「統合できない感覚」が形式の亀裂を生んだが、書き進める中で「行分け詩を乞うるように」なったと言う。詩が生死の割り切れなさを昇華したのだろう。最後に到達した行分け詩は、文法的に亀裂を入れながら不思議に輝く。
「ここは無口な場所/ひかりの中のひかりをゆらぎ/ひかりの中のひかりと動く/記憶の足が駆けぬけてゆく/音もたてずにしずかを読んだ/この超日を帰るものがある/未熟のうちに還るものがある//のちの光として」(「(のちの光)」) 津坂治男『白い太陽』(銀の鈴社)は、「ジュニアポエム」をまとめた。戦後七十年目に、少年少女に人や動物のいとおしさについて、詩的ユーモアをこめて語りかける。作者はかつて『列島』の会員でもあった。

2015年10月15日 (木)

寒河江の夜

11日、映画の後で山形の友人とおちあい、
手作り市や県庁を見たあと、
寒河江へ車で向かいました。
道中、荘厳な夕焼けに圧倒されました。
こんな美しい夕空は見たことがありません。
(カメラではその美しさが半減しています。目と自然の関係ってすごい。)

寒河江では親族の家を3年ぶりに訪れました。
夕食をご馳走になりながら歓談のひととき。
地元の話題では盛り上がりながら、
芋煮や、あけびの皮のくるみの白和えや、
菊の酢漬けや、棒鱈煮や、古代米のご飯を頂く。
素材は殆ど貰いものか自宅で取れたもの。
とりわけ贅沢ではないが、
本当に心豊かな生活をしているなあ、と羨ましく思いました。

山形弁って温かい。
話しているうちにおのずと私もちょっとしゃべっている。
郷土に根付いた言葉が持つ体温に、くるまれるように・・・。

ちなみに寒河江は詩人黒田喜夫のゆかりの地です。
寒河江に来てみると、
その詩の奥に、この地のゆたかな自然の記憶がざわめいていることが、
よく分かります。

親族に黒田喜夫について尋ねたら、
高齢の人も含め、やはり誰も知りませんでした。
でもお母さんの故郷でもある幼少期を過ごした場所には、
今も黒田姓が多いそう。
まだご親戚などがいるのでしょうか。
今度ぜひ訪ねてみたいです。

山形での最後の夜に寒河江のホテルで、
大好きな夜の詩「人形へのセレナーデ」(「音楽家の友への五つの詩」)を
目に響かせたりしました。
最終行の「ガラスのガラスの」には心が震えます。

人形へのセレナーデ
                 黒田喜夫

小さな箱に人形がいた
箱から見ていたガラスの目で
箱の外は夜の部屋だ
夜の部屋からチェロが見ていた
黙りこんで窓の外を見ていた

窓の外には何があるのか
夜の部屋で人形にいう
人形よ 窓の外にも夜がある
けれど夜とともに世界がある
夜と世界のことをきみに話そう

それから言葉ではなくチェロはうたった
チェロは沈黙のあとの夜の唄を
夜と世界が見えるものの苦しみの唄を
人形よ きみの応えをきくまで
小さな箱のなかの
ガラスのガラスの人形の目に
                   

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山形国際ドキュメンタリー映画祭(『自然と兆候/四つの詩から』『首相官邸の前で』)

10月10日と11日、山形国際ドキュメンタリー映画祭を見に行きました。

10日は「ともにある」部門での、岩崎孝正監督による「自然と兆候/四つの詩から」を、山形美術館内の会場で見ました。

福島に生まれ育った岩崎さんは、原発事故後の福島の風景を撮っている鄭周河さんの写真に触発を受け、自身の「風景論」を撮り始めたそうです。この映画では、日韓二人の写真家とオーストリアの監督の、フクシマ/福島との向き合いを追い続けます。

日本の写真家は「歴史の痕跡が自然に覆われていく」姿を、韓国の写真家は「日常を手放さない人々の意志」を、オーストリアの監督は「人間が滅んだ跡に繁茂する自然」を追いフクシマ/福島に分け入っていく。かれらの文明観や自然観によって異なる生命体となるフクシマ/福島。

各作家の経歴の説明などが省かれているため、難解に感じられる部分を残しながらも、とても重要な問いと意味を孕んでいる作品に思えました。

ちなみに私も他二人と共に朗読で出演しています。原爆ドームの周辺で読んだのですが、その体験は大変貴重なものでした。

岩崎さんは当日が30歳の誕生日でした。この作品は、原発事故の本質に固有の角度で迫った点が評価されましたが、今日の上映を機に、さらにどんな新たな手法を模索されていくのか楽しみです。

11日は小熊英二監督の『首相官邸の前で』を見ました。

70年代から90年代にかけてプロテストせずとも生きられるという実感の積み重ねの結果、社会運動への信頼感が薄れた日本。

この作品は、そんな日本を変えた3.11以後の反原発運動のドキュメンタリーです。

何か遥かな過去にも思えるような、あるいは私が見逃していた過去のような、人々の声と言葉と感情の貴重な記録でした。

岩崎孝正さんとは対照的に、小熊さんは「物語」をためらっていない。登場人物はみな前を向いて語るのです。しかし無数の人々のうねりや動きはたしかに伝わってきました。

限られた時間で伝えることの難しさもあるのだろうと思います。 会場からも意見があったように、ポジティブな印象のラストには、安倍政権の今を思えば私も違和感がありました。しかし、これは違和感もOKと小熊さんは述べました。

映画の後には、討論会もあり、参加しました。そこでは、ドキュメンタリーが歴史と記憶にとって持つ役割の重さについて考えさせられました。

ドキュメンタリーは見て終わりでなく、各自が参加意識を持ち能動的に「プラットホーム」にしなくてはならないと小熊さん。
「メッセージでなく色々な話を触発できればいいと思った」。

会場から「声を出さない人の記録はどうなるのか」と問われると、
「知識人の代弁は必要ない。自分たちがやればいい。その能動性が歴史と社会を形成する」と小熊さんは応答した。

一方それに対しては、東京とは違い受け身的メンタリティがさらに強い地方で、能動性をどう促せるかという、地元で活動する方の意見が出されました。

またアーカイブ云々以前に、人は今むしろ熱心にSNSで自分を記録し続けているのでは、というIT関連の仕事をしている人からの問いに対しては、
「今人は存在の危機からツイッターなりある共同体を意識して記録するが、それも消えてなくなりうる。それを超えるものを創れるか?そうと分かった上でやるしかない。」と。この答えは、同じく表現活動をする私自身にも重く響きました。

討論会の中では5分、周囲の人と話し合うための時間もセッティングされ、私は隣の新潟から来た30歳くらいの男性と話をすることが出来ました。その方とは地方と東京の違いから話を始めました。各地方を星座のように結んでいく方法が必要という意見で一致しました。

いずれにしてもこうした議論が出来る2011年から始まった震災をテーマとする「ともにある」部門はとても貴重に思います。文学でも政治でもない、ドキュメンタリー映画だからこそ、見る側は3.11に立ち返り、今を揺さぶられることが出来るのです。2017年も見に来たいと思います。

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