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2015年12月

2015年12月28日 (月)

『詩と思想』2016年1·2月号 に時評「「毒虫」詩論序説―安保法案可決以後」が掲載されました。

『詩と思想』2016年1·2月号に、
時評「「毒虫」詩論序説―安保法案可決以後」が掲載されました。

今年(2015年)9月の安保法案可決の前々夜に国会前のデモに参加した体験、
そして法案可決の翌朝に心身で実感したことから、
これからの詩をどう考えたらいいかを自分なりに模索しながら書いたものです。

あくまで個のものであるしかない「詩を書く行為」は
理不尽な権力に対峙するだけでなく、
集団的な「デモという行為」にも向き合って立たなくてはならないと
渦中において私は思いました。

もちろん決して、デモを否定し冷笑し、詩と無縁なものと考えるのではありません。
むしろ詩を書く行為はデモという行為からつねに問われていると思います。

「詩に今何ができるのか、何もできなければ参加せよ」

しかしそう絶対的な声で問われたあとに 詩は、小さな声で問い返す、
あるいはむしろ問いただすことが出来なくてはならないのではないでしょうか。

それがどのような問いであるのか私にもまだ分からない。
けっきょくは虫のように、誰にも聴き取られない言葉なのかもしれない。
しかし小さな声であることに自足してもいけない―。

そんな錯綜した思いのままにつづった小論です。

もちろん「毒虫」は詩と政治のはざまで苦しみ続けたがゆえに素晴らしい詩を遺した、
黒田喜夫の詩「毒虫飼育」から採っています。

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2015年12月18日 (金)

詩論集『パルレシア ―震災以後、詩とは何か』(思潮社)の予約が始まりました

私の三番目の詩論集『パルレシア ―震災以後、詩とは何か』(思潮社)が、
アマゾンで予約開始になりました。
発売は12月25日となっています。

この詩論集は、東日本大震災をめぐって書かれた文章を中心にまとめたものです。
安保法制や原発再稼働の動きが加速しようとする
現在の政治や経済によるいわば「散文的な暴力」にたいし、
「詩を書くという行為」はどのようにあらがえるのか―
私なりの問題提起として、一石を投じる本になっています。
詩を書く方々だけでなく、
ことばと現在について思いを巡らす多くの方々に読んで頂きたいと思います。

毛利一枝さんによる美しい装幀が、
緊迫した内容を繊細に包んでくれています。

以下目次と帯文です。

【目次】
第一章 パルレシア―震災以後、詩とは何か

・「パルレシア……」または命がけの比喩という行為──震災以後、詩とは何か  
・もっと「いのちの表現」を──震災後にツイッターを始めて
・「声の道」を拓くために──東日本大震災にとって詩とは何か
・「巨大な海綿状」の虚無とさえ引き合う詩―辺見庸『国家、人間、あるいは狂気についてのノート』
・闇の中でなお美しい言葉の虹──辺見庸『水の透視画法』

第二章 ここは巨大な孤独だ、事物の果てしないコミューンだ―小詩集

・影
・メドゥサ
・石巻(一)
・石巻(二)

第三章 鈍銀色の沈黙に沈んでいる―追悼文集

・虻と風になった詩人―追悼・吉野弘
・言葉に差別を刺す鋭さを与えよ ―追悼・辻井喬
・鈍銀色の沈黙に沈んでいる──追悼・新井豊美
・牟礼慶子さんという場所
・詩を書くという行為を受け継ぐ──追悼・吉本隆明

第四章 何よりもまず、詩人でありたい―詩人と時代をめぐって

・何よりもまず、詩人でありたい──詩人としてのシモーヌ・ヴェィユ
・夢の蓮の花の力──詩人としての中上健次
・私たちの今日の詩のために──ブランショ「再読」
・「現代詩システム」を食い破るバブル・身体性・大文字の他者──八〇年代投稿欄再見
・天の青の記憶とともに降りてきた問いかけ──詩人尹東柱の故郷 中国・延辺朝鮮族自治州をめぐって 

第五章 闇の中でなお美しい言葉の虹―書評

・闇のまま輝く生の軌跡──関口裕昭『評伝パウル・ツェラン』
・本当の声が呼び交わしあうために──宋友恵著・愛沢革訳『尹東柱評伝』
・「向き合い」の結実──金時鐘『再訳 朝鮮詩集』
・遙かな時の海を越えて──青柳優子編訳・著『朝鮮文学の知性・金起林』
・バラあるいは魂の根づきのための戦い──席慕蓉詩集『契丹のバラ』
・アンガジェせよ、と誘う他者たちのほうへ──二〇〇九年東アジア翻訳詩集・評伝
・フランシス水車のやうに──『吉本隆明詩全集』から視えてくるもの
・私の中から今その声を聴く──アルフォンソ・リンギス『汝の敵を愛せ』                         
終章 詩は未来の闇に抗えるか

・死者にことばをあてがえ―詩人辺見庸のことばが触発するもの

あとがき


【帯文】
「震災以後の詩とは、「パルレシア」の意志としての詩であると私は思う。それは震災と原発事故によって、人間としての権利を剝奪されたことを嘆き訴える声々と、遙かに共鳴しあわずにはいられない」(「「パルレシア……」または命がけの比喩という行為」)。
“パルレシア"――何についてでも率直に真実を語ること。脅迫をも、迫害をも、殺されることをも恐れず、自由に語ること。震災後の辺見庸の言葉を導きに、東アジアの詩や、シモーヌ・ヴェイユ、モーリス・ブランショ、吉本隆明の思想、中上健次の詩作などを通して、真実の詩の光を見出していく。現在に問いかける渾身の詩論集。装幀=毛利一枝

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2015年12月 7日 (月)

12月7日付京都新聞掲載「詩歌の本棚/新刊評」

詩の比喩表現には、大きく分けて隠喩と直喩と寓意がある。寓意とは、現実への風刺や批判をこめて、擬人法などを用いた比喩。隠喩と直喩はテクストを学ぶだけでも体得されるが、寓意は現実を見つめなければ掴まれない。詩に現代性をもたらす大切な技法だ。
 中西弘貴『厨房に棲む異人たち』(編集工房ノア)は、魅惑的な寓意に満ちている。厨房の様々な道具たちが、物の怪の不穏さと叡智を帯びながら、みずからの思いを独白する。飲食(おんじき)という人の根源的な営みの次元で道具と向き合った作者の詩的想像力の中で、人に寄り添う道具たちは、人の欲望と孤独のけなげな寓意となり、いきづき出した。
「身震いの毎日です/身を震わせると/わたしの身体を通して/落ちていくもの/残るもの/勝手に選別されて/もとよりわたしに/選り分けの意志はないから/落ちていったもの 残ったもの/それぞれの行く末は/知らない/だれが定めたのか/身を震わせるしか/生業は無いのだから/身震いを続けるほかありません」(「篩」全文)
 平田俊子『戯れ言の自由』(思潮社)は、駄洒落やイメージの連想といった「戯れ言」を駆使しながら、現実のさりげない場面にひそむ重い真実を炙り出す。「戯れ言」はまた新鮮な寓意を呼び寄せている。ふと眼に止まった路上のイチョウの葉は、「鴨脚」という中国語を介し無数の飛び込み自殺の寓意となり、悲しくも美しい詩を結晶させた。
「中国語で「イチョウ」は「鴨脚」/確かにイチョウの葉は鴨の脚に似ている/鴨の脚が散らばる道路/人の脚が散らばる線路/口から口へ伝わるニュース/「銀座線、いま、とまってる」/不通の原因として報じられる死/一一〇万カンデラで照らしたら/丸の内口は見えるだろうか/人は電車に飛びこむのをやめるだろうか」「八重洲国から丸の内国へいったのではない/八重洲口から丸の内口に向かう/わずかな時間に/鴨の脚は散り/人の脚はさらに散り/東京は/東京の駅は/東京の線路は/きょうも人を散り散りにする」(「東/京/駅」)
 有馬敲『寿命』(竹林館)は、一九三一年京都に生まれ、今もこの地で詩を書き続けるオーラル派の詩人の詩集。替え歌や京都弁も取り入れ、老いの感慨を軽妙に表現する。自分を妻の飼い犬に見立てた寓意詩では、男性の老後の孤独というテーマが、京言葉と擬音語に救われている。
「留守番を頼まれたこっちは/近くのコンビニで弁当を買うてきて/犬の餌みたいに食うとらんならん/健康によい金属製の首輪ぶら下げて/放し飼いされとるけど/見えない鎖につながれとる//ううう うううう わあん わあん/わあん わあん わあん わあん/ううううう ううう わあん」(「負け犬」)
 橋爪さち子『薔薇星雲』(コールサック社)では、病からの回復の途上にある作者の鋭敏な感受性が、生活や自然の中に捉えた様々な寓意が煌めく。宇宙のガスが美しく輝く「薔薇星雲」は、時代の闇の中にいきづき続ける、はかなくも愛おしい生命の寓意である。
「動きのとれない病室の身でさえ/わたしの内臓は/オーケストラを成すそれぞれの独立と自由の/美しい曲線に充ちた楽器のように/日々おのおのの音色を/喜悦いっぱいに響かせようとする」「家に置いてきた星座図鑑の/120頁を開けようとして/届くはずのない腕を伸ばす//NGC2237/3600光年のかなた/一角獣座 薔薇星雲の/闇に萌える暗赤色の/さみしい冷たさに触りたくて」(「薔薇星雲」)
 

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