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2016年5月 2日 (月)

2016年5月2日付京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

昨秋神戸で行われた鈴村和成氏の講演記録「ランボー砂漠をゆく」(『イリプス』18号)で砂漠のランボーを知る。二十一歳で詩に別れを告げ、アラビアの砂漠で商人になった詩人ランボー。彼は生活の場としての凄まじい荒野だった砂漠で、多くの手紙を書き残した。晩年はイスラム世界に浸り、臨終にはイスラムの祈りを繰り返した―。ランボーの砂漠(イエメン)は今や危険で渡航出来ない。「ランボーが入って行った世界というのは、今我々が入ることができない世界」なのだ。120年以上の時を経て今、砂漠のランボーが現れる。私達に「世界という砂漠」を突きつけるために。
利岡正人『危うい夢』(ふらんす堂)の「ぼく」は、現在を覆う不可視の砂漠に身体を曝しつつ、覚醒と眠りの間で内外の砂漠化を微細に感じ続ける。脱出は出来ずただ自分から自分を剥離する。光さえ乾き屑となる世界で塵に乗る「ぼく」の、無声は激しい。砂漠と一体化したランボーの遙かな陰画のようだ。
「薄明のさなか/猛禽類の徒競走/感光体を気取って/マスクを装着する忘我/嘴を失くした/ぼくは咳き込む/地下にはもう眠る場所がない/掘り当てたのは眩暈だ/誰よりも速く階段を駆け下りる/まだ終止符はうたれない/光の漏れもない/口は塞がれていた/だが何を希求しているのか/ぼく自身わからない/どこか見覚えのある顔を/追い抜こうとしたそのとき/ガラス扉に激突する/これからは手探りで進むだろう/光を散乱させてしまった」(「薄明のさなか」全文)
 望月逸子『分かれ道』(コールサック社)は、原発事故や戦争によって壊れゆく世界の砂漠で、ひとすじの音楽に耳を澄ませつつ丹念に詩を紡ぐ。各作品の背景には人間のドラマがあるが、暗示にとどまる。平易でありながら絶妙な言葉の所作が、不可視の現実の広がりを読む者に感触させる。言葉の一つ一つが、世界がより良い共同体となるようにという祈りをこめて、丁寧に選択されている。
「帰る故郷のないわたしは/耳の底で起きていることを語った//ようやくあの二楽章が流れだした/今流れている ANDANTE//あなたはフルートを吹くときの首の傾げ方をして/わたしの話に頷いた//太陽の光を浴びて呼吸する若葉を繁らせ/葉の細胞が一斉に紅になるドミノを巻き起こし/余分な言の葉を一切もたず 冬を越し/梢の先まで桜色の樹液を巡らせ 花を咲かせることができたら/また この樹の下で逢いましょう//夕刻の風が河を遡(さかのぼ)るとき/あなたは振り返り 羽衣橋で大きく手を挙げ/まだ通ったことのない道を歩きだした」(「帰るところ」)
 mako nishitani『汚れた部屋』(澪標)は、痛苦の記憶の底で言葉への不信を抱えた女性が、大阪文学学校で言葉そのものの力に気づかされ、闇に点じていった詩の光の星座である。
「あたしのコトバは/まるでダルマみたいに手足をもがれていた/喘息みたいに喘いでいた/でもあの瞬間あたしは飛んだ、と思ったの//そしてどさっとマットに落ちた/夏の朝が/バーの辺りに引っかかってる//白っぽかった空が青に変わった/あたしはそうっとマットから下りると/何度も何度もバンザイをした」(「祝福」)
 田中国男『夏の家』(私家版)は、二十年前故郷で沈潜した一刻一刻から生まれた短詩集。
「ひじき煮るくらい父の里/隷属の骸骨を掘る父の里/どんな思想も詩もいらない/毛むくじゃらの犬になる君」(「父の里」)

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