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2016年8月

2016年8月29日 (月)

論考「どこかに美しい人と人との力はないか ー五十六年後、茨木のり子を/から考える」を文藝別冊『茨木のり子』に書いています

文藝別冊『茨木のり子 』(河出書房新社)に、論考「どこかに美しい人と人との力はないかー五十六年後、茨木のり子を/から考える」を書きました。

「五十六年後」というのは、1960年から見ての今を指します。

同年6月、詩人は他の詩人たちと共に国会前での安保反対のデモに参加しました。今回の論では、紙幅もありそのことは少ししか触れられませんでしたが、昨年9月、安保関連法案法案が可決する直前に私自身が詩人と同じ場所に立った時抱いた言い難い思いから、茨木さんに問いかけるようにして、一気に書き上げたものです。

今回の本に収められた写真にある詩人のまなざしはどれも、若々しく凛と時を突き抜けてきて、私の心を不穏にざわめかせます。

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2016年8月 2日 (火)

8月1日付京都新聞掲載 詩歌の本棚/新刊評

詩の月刊誌で投稿欄の選者となり半年が経つ。毎回幾篇かに私の詩観を揺るがすものがあり、興味深く思っている。20代30代の書き手の多くがテーマとするのは、自身を取り巻くディストピア的状況だ。「ディストピア」とは、核戦争などの大転換はなく、人間をめぐる状況がじわじわと悪化する「反理想郷」。昨今「ディストピア小説」が注目されるというが、では「ディストピア詩」はありうるだろうか。ただ言えるのは、この時代において人が詩を書くのは、ディストピアのネガとしてどこかにある根源的な希望を、いつか言葉によって掴み取りたいからだ、ということだ。
 為平澪『盲目』(土曜美術社出版販売)は、自己と社会をめぐるディストピア的状況を、身体的哲学的言辞によって描き出す。人を機械化し生きてはみ出すことを許そうとしない社会と、介護殺人に象徴される、親が子を束縛する家族という二つのディストピア。その二重の抑圧から作者は果敢に言葉を放つ。災いを目撃した者のように間断なく散文的に。だがディストピアの本質を身の内から言い当てようとする瞬間、切断面の煌めきにも似た詩性がそこに生まれるのだ。
「私は歩く/黒い服を着込んで/背中は 停電したままで/来たことも無い暗い道/でも いつか身を屈めて辿った/苦しい産道の指示表示のネオンに向かって/一本道のアーケード街の光を 目指す/私がエコーで 私の内部を見つめるように/私が心電図で 息をしていることが ばれないように/停電したまま停滞を続けて 這っていく/人間は大声を出して働く/電池が切れるまで/ネオンの色はすぐ変わる/見失うための目くらませ/スクランブル交差点から はみ出したいと 強く思った/信号が赤になったら 一目散に 走り抜けたいと思った/路地裏はそんな暗い跳躍力で 点滅していた」(「淋しい充電器」※「人間は…」から「…目くらませ」までは一字下げ)
 柳内やすこ『柳内やすこ詩集』(同)は、「新・日本現代詩文庫」の一冊として上梓されたアンソロジー。四冊の既刊詩集と未刊詩篇をまとめる。「私が宇宙だったとき、私には面白いように次々とメタフィジカルな詩が書けた。思春期にそうであったように。私が宇宙だったとき、それは私が妊娠・出産・新生児の育児という女性の人生で最も充実した時期を過ごしていたときである。」(「私が宇宙だったとき」)という作者のスタンスは、一見ディストピアとは無縁だ。しかしどんな状況でも、メタフィジカルな詩の美しさで状況を照らし返したいという思いは、詩を書く者が根底で共有する願いでもあるだろう。生と死を直接うたう詩に感銘を受けた。
「死者の場所を生者が満たすことはできない/封土を失った方形古墳/野晒しの石室にはすでに石棺もなく/ただ数十の巨大な花崗岩に囲まれた/荘厳な死の空間が開いている/日々多くの人々が訪れ/ひとりの高貴な不在の死者によって迎えられる//ひとりの死者にとっては/宇宙だって狭すぎるのだ/星々は誕生の瞬間から一心に飛び去って/宇宙は日増しに膨張するが/ある日気まぐれなひとりの死者が/軽やかに宇宙の果てまで広がってゆく」(「健やかな宇宙―明日香石舞台古墳を訪ねて」)
 中山敬一『二十四節気/生きる』(私家版)は、巡る季節と応答する小品集。
「登校する乙女らの嬌声の/生命の放散のまぶしさ/彼女らは朝露があったことなど知らぬ//足下/草木から蒸散するひかり/願わくば抱かれて/遠き涯(はて)」(「白露~遠き涯~」)

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